彼女のレシピ
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彼女は自分の部屋のキッチンに立っていた。
稽古や舞台でよほど忙しくなければ、彼女は自炊派である。好むのは、鍋で煮るだけで大量に作れるものだ。たとえばポトフーはよく作るものの一つだった。
最初に出来たてはそのまま食べ、次の朝食はパンと食べ、帰ってからの夕飯にはご飯と食べ、次の昼食には、カレー粉を入れてカレーにして食べる。更に残れば、ご飯を入れてリゾットにして余さず食べ切った。
この双璧がラタトゥイユで、同じように大量に作り、こちらは冷凍しやすいので、食べる分を残して、保存する。初めにそのまま食べ、ご飯と食べ、パスタにして食べ、やはり途中カレーにして消費していく。
この日は、ポトフーを作っていた。作るといっても、材料を入れれば鍋任せに放っておけばいいのだ。彼女の少ないレパートリーのほとんどは、劇団の仲間が教えてくれたものだった。おいしく簡単で、作り置きの効くものが、彼女の生活に残っている。
ポトフーを作りながら、洗濯や掃除を済ませた。それで午前の彼女の時間はほぼ終わってしまう。この日は午後早くから、いつもの舞台の稽古が入っていた。
昼食にはいただきもののベーグルを食べ、ついでに作り立てのポトフーも味見と称して食べた。
身支度を終え、出かける際にマネージャーに電話した。予定が稽古のみの場合は、マネージャーには電話連絡だけして会わずに済ますことも多い。移動は自前でするし、してもらうことがないのだ。
最寄りの駅まで歩いた。待ち時間で彼にメールを送る。
 
『今から舞台の稽古に行ってきま〜す(*^^)v
 
彼女が電車に乗り、目当ての駅で降りた時に、着信があった。彼からの返信だ。
 
『頑張って来いよ』
 
短いものだが、それで彼女は嬉しくなる。ベーグルの食べ過ぎで、調子は最高とは言い難かったが、元気が出た。
(速水さん、帰るの、明後日だっけ…、確か)
 
 
稽古の終わりに、ケイタイの電源を入れた。今の舞台では、稽古場への持ち込みも電源のオンオフも自由な環境だった。それでも彼女は決まって電源を切る。他の共演者が「マナーモードにしておけば平気だよ」と教えてくれたが、癖でそれができにくい。
程なく彼からの電話があった。いつもより早めの時間だ。
『稽古、終わったのか?』
「うん、そう。今終ったところです」
『帰りは、マネージャーに迎えに来させろよ。ふらふら歩くな。気分転換に公園なんかでブランコに乗って、メランコリックな気分で泣くな、絶対にだ』
遠く離れていても、電波を通じてやはりがみがみとうるさい。「わかってます」と返す。
彼女の背後を人々が話しながら通り過ぎた。その間に、彼が何か言ったようだったが、「何か言った?」と訊き返さなかった。彼女の禁忌事項が増えるだけだろう。
『聞こえたのか?』
「はい、大丈夫です!」
後はおやすみを互いに言い合い、通話を終えた。
 
 
新幹線から降りた彼は迎えの車に乗った。とっぷりと暮れ、大阪を出たときの夕景のにじんだ辺りの明るさが、ずっと過去に思えた。
「どうなさいますか?」
駅で社の者とは別れた。会社にも寄らず、このまま帰るつもりだった。六日に及んだ出張で、思いの外疲れていた。取りあえず、速水の邸に向かうよう告げた。出張の荷物もあるし、彼が留守の間、みいちゃんはあちらに預けっぱなしだった。それも気にかかる。
今回の出張は、九州に新造した大都の多目的イベントホールの視察の他、彼が大都芸能を離れるに際しての引継ぎも含めたものだった。新社長に内定した男と共に、重要支社と施設を巡り、その地元での興行時に大スポンサーになる人々との顔合わせも行う。
接待も多く、連日つき合いつき合わされた。
地方の人々は、本社から来たあの速水社長が、意外にもの柔らかで腰が低く、周囲に目配りが利く人物であるのに、好印象を持ってくれた。東京とは違い、例の悪魔のような噂の拡散は緩やかであり、彼の人気は高かった。女子社員にも接待先のホステスにも、大スポンサーの奥方・令嬢にまで、彼はモッテモテだった。
それらひっくるめて、彼の大都芸能の社長としての最後の大仕事といえた。
後部座席に身を沈め、ネクタイを緩めた。シンプルな紺のネクタイは大スポンサーから贈られたものだ。著名なデザイナーとのコラボ商品で、地元ゆるキャラが先に小さく刺繍されてあった。それでも抜群の存在感だが、結んで上着を着ればわからない。彼はサービスのつもりで、滞在中ずっとこれで通した。
明日からは二日の休みが取れた。帰京時まで不確定だったので、夕べの電話でも、まだ彼女には告げていない。予定がはかどり、出張が一日繰り上げになったと言ったのみだ。聞いた記憶では、彼女の稽古も休みになるはずで、珍しく重なった休暇が、短いものでも彼には嬉しかった。
会いたいが、呼び出すには遅い。帰ったことを知らせる電話だけに留めようと思った。そのとき、明日どうしようかを話し合ったたらいい…。
車窓を見ながらそんなことを考えた。
ネクタイを外し切るところで、スーツのポケットに入れたケイタイが鳴った。取り出すと、秘書の水城からである。
『お疲れさまです。水城ですが、今お時間よろしいでしょうか?』
何か突発事項で、彼の休みがふっ飛ぶのかと、思わず眉をしかめた。秘書は今回の出張には伴わなかった。出張中に幾度か連絡をやり取りしたが、大したものはなかったはず。
「お疲れさま、いいよ」
「新幹線から降りられて、今、社長はどちらですか?」
それら手配もこの秘書が行ったもので、さすがに彼の予定の把握は抜かりない。
「車の中。邸へ帰る途中だ」
見当をつけた地名を言う。
「さようですか…」
歯切れ悪く、秘書が黙った。こんなやり取りをするために、夜の十時に電話をする趣味はないはずだ、お互いに。
彼は首のあたりを手でもみながら、先を促した。
「マヤちゃんのことです。先ほどマネージャーの堀口から連絡がありまして…」
秘書が言うには、マヤが女優仲間に誘われて、外出しているとのことだ。彼は相槌を打ちかねた。彼女だって大人で、外で遊びたいときはあるだろう。そんなことにまで連絡網を回してもらわなくてもいい。
「問題があるのか?」
「寛容ですのね、意外に」
彼と彼女のこれまでを、部外者でこの秘書ほど知る人物はいない。淡白なからかいに、寄せた眉が一層寄ったが、反論も避けて流した。
「問題はあると思われます。ご判断下さい。マヤちゃん、ホストクラブにいるようです。女優の●◎×子と一緒に。場所は…」
その場所は耳にしたことがあった。いわゆるホストクラブとは一線を画したというのが売りの、高級クラブだった。立地や値の張ることから、芸能人や金持ち御用達の秘密クラブと噂に高い。某女社長がその店のホストに入れあげ、貢ぎまくった挙句に店を退かせ、タレントにしようと芸能各社に売り込んできたこともあった…。
そういう店である。
一線を画していようが高級だろうが、しょせんはホストクラブだ。着飾った男が女性客に酒を飲ませて侍るのだ。構図は変わらない。
うぶい彼女が、酒を飲まされ、百戦錬磨の男どもの手玉に乗せられる様が、ありありと浮かぶ…。
更に問題は、一緒にいる女優●◎×子だ。四十歳を幾つか超えた、キャリアも人気もある美人女優だ。意外な取り合わせだが、舞台で親しくなったと考えればあり得ることだ。
この女優は、一週間ほど前に、結婚直前で破局に至ったと、すっぱ抜かれている。別れ際の喧嘩の凄まじさまでありありと書かれ、数日ワイドショーはその話題で持ち切りだった…。
恋に破れ、自棄になっているのかもしれない。そんな話題性のある女優が高級クラブで男を侍らせていれば、芸能マスコミは食いつくに違いない。誰かがネタを売らないとも限らない。
そんな場に彼女がいるのである。
彼が今度は黙り込み、それを怒りとでもとったのか、秘書がマヤをとりなすように、
「あの子は、何もわかっていないでしょう。先輩に誘われてつき合っただけです、きっと。それに、行き先をプライベートであるにも関わらず、マネージャーにちゃんと伝えていますもの」
それで、彼の秘書から電話があったのか、と合点がいく。彼女のマネージャーは仕事柄彼と彼女の関係を知らされている。しかしこんな事態に、教えてあるとはいえ社長に電話することはためらわれたのだろう、だからその秘書に判断を委ねる連絡をしてきた。
「わたしが迎えに行きましょうか? ご心配なく、一人では行きませんから」
「いや、いいよ。俺が行く。こんな時間外に申し訳がない。もう休んでくれていいよ」
彼はそこで運転手に目的地の変更を告げた。それから電話に戻り、
「休み明けに、君に話がある。覚えておいてほしい」
秘書は一瞬だけ息を飲み、すぐに応じた。
「かしこまりました。何かありました、何なりとご連絡下さい」
「ありがとう」
秘書との通話を切り、彼は目を閉じた。遅めの昼食を兼ねた会議で、夕食はまだ食べていない。空腹ではあったが、数日の疲れであまり食欲がない。帰って、軽く飲んで寝ようと思っていたのだ。
なのに、もう一仕事できた。
疲れたと思った。




     

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