彼女のレシピ
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薄く作ってもらった水割りを、彼女は舐めるように飲むから、全然減らない。酔いもしなかった。
重い間接照明の店内は、低いブースで区切られたゆとりあるボックス席が、十ほどもあった。テーブルのそれぞれに豪奢な生花のブーケが飾られている。派手やかなスーツを身にまとった男性が、彼女と連れの女性を取り囲んでいる。女二人に店の男性が五人も付いた。
その席で、場持ちの上手なホストの手腕で、彼女の連れはよく飲んだ。醜態は見せていないが、程よく酔いのまわった様子で、男性の言葉に笑い転げている。静かなマヤを見ると、
「この子にも飲ませて楽しませてあげて。すごいのよ、この子。こんなおとなしそうでも、『紅天女』なんだから! 神々しいったらないの、鳥肌立つくらい。何度見たか知れない、あの舞台」
「×子さん、そんな…」
「舞台を降りたら、こんな可愛いのにね。きゃはは」
×子の声に、男性はマヤへ幾度目か、酒を勧めた。減らない水割りを見て、種類を変えようか、他に欲しいものはないかを細々聞いてくれる。
こういったきらきらした男性にちやほやされる習慣がない彼女には、物珍しくちょっとぼーっとなってしまう。楽しんでない訳ではない。相手は話し上手で、彼女のどんな返事もすくって話を広げてくれる。それに、びっくりするくらい何でも褒めてくれた。ただ、慣れない場所で、居心地が悪いだけだった。
×子とは前に共演したテレビの仕事で連絡先を交換し合った。マヤが演じる『紅天女』のファンであり、年齢と風貌に似ない数々のキャリアを踏んでいる彼女に、一目置いてくれているようだった。久しぶりに復帰したテレビの世界では、×子の何気ないバックアップで彼女は自分の仕事やり遂げることができている。恩のある先輩であった。
「何でも頼んでね。わたしが無理言って連れて来たんだから! 遠慮しちゃ、駄目よ。怒るからね」
気のいい×子に言われ、ホストに見つめられ、彼女は甘いものはないかと訊いた。
「ありますよ、もちろん」
種類の豊富なメニューを広げられ、その中で目を引いたベリーがふんだんに乗ったフレンチトーストを頼んだ。夕飯らしいものも食べずにここに連れて来られたから、お腹も空いていたのだ。
程なく届いたフレンチトーストは、期待以上のおいしさだった。厨房にはちゃんとしたシェフとパティシエが常駐しているのだとか。
「へえ」
ぱくぱく食べた。彼女の食べ方が最高にキュートだと男性は褒めた。昔のハリウッド女優にそう言った食べ方をする人がいたと、その男性は言った。何となくその彼と目が合った。「『紅天女』はわからないけど、マヤさん、あなたはとびきりのミューズだな」。
ハヤトと名乗ったその彼は、彼女の唇付近に指を伸ばした。フレンチトーストのかけらが付いていると笑う。
(ミューズって何だろう)
彼女は思った。昔CMしていた、薬用せっけんのことかな、とハヤトの仕草をぼんやりと許してしまっている。
「僕はハヤトです」
それはさっき聞いた。
彼女はフレンチトーストを頬張りながら、「ハヤトさん…」。
NO! ただのハヤト。何の修飾語も要らない。ただのハヤト」
さん付けは礼儀であって、修飾語ではない。彼女はぽかんとなりながらも、咀嚼に忙しい。ちんまり見えたがクリームたっぷりでボリュームがある。食べる彼女をずっとハヤトが見つめ続けるので、頬が赤くなる。が、余裕で食べ切った。
そこで、ホストが一人増えた。スーツの男がつかつかとテーブルに歩み寄る。
「新入り? こっち座んなさいよ、早く」
×子が隣りの男を押しのけて場を作る。「失礼します」と、新入りはそれを請けて空いた場所に腰を下ろした。×子の差し出した煙草に、新入りは火を点けてやる。そこで、×子が気づいた。「え、やだ、大都の速水社長!」。
「こちらのレベルの高いホストに間違えてもらえるとは、光栄です」
笑みを含んだ声で彼が言う。
「今夜は、うちの北島がお世話になりました」
ハヤトに手相を見られていた彼女も、遅れて気づいた。ぎょっとなった。
(何で、速水さんが…)
×子の隣りの彼は、見慣れた仕立てのいいダークスーツを着て、きちんとネクタイを結びんでいる。ちょうど自分の煙草を胸元から取り出したところだった。そのとき彼女と目が合った。
ついっと彼はそれを逸らした。
(速水さん、怒ってる)
一口タバコを吸い、当たり前のようにホストの一人に酒を作ってもらっている。口に運ぶ振りで、彼が飲んでいないことが彼女は見てわかった。
「どうなさったんですか? 男の方がこんな場所、お嫌いでしょ?」
酔いも醒めた様子で、×子が問う。所属の社長とは違っても、彼は業界では権力者であり有名人だ。
「マネージャーから連絡をもらい、北島の迎えに来ました。ちょっと、穏やかでないことを聞き及んだので…。ついでにお知らせしようと」
「え?」
彼は×子の耳に何かを囁いた。途端にその顔色が変わる。マヤはどうしたのかと、様子を見守るしかない。
×子は煙草を吸いつけ、ふてくされた顔つきでまた酒を呷った。「人の弱みにつけ込んで、あることないこと…」
小さく吐き捨てたその声を、彼が拾い、
「まったく。似たような身です、気持ちはよくわかります」
彼の相槌に、×子はくすっと笑う。彼のマスコミを賑わせた醜聞は、あまりにも有名だ。
「…大都芸能では、社長自ら女優を迎えにいらっしゃるんですか? 随分お優しくて、びっくりします」
「いえ、まさか。普段は仕事に障りなければ、お構いなしです。ただ、彼女は今度某国王族・各国大使を招いた、『紅天女』の特別講公演の話があり、社としても身辺に慎重になっているところなんです」
「まあ、悪いことをしたわ。暇だって言うから、こういうところも勉強だって、引っ張ってきたの。わたしのせいです。お詫びします」
「いえ、とんでもない。お相手をありがとうございました」
×子はまだ煙草が長いまま、煙草を灰皿に捨て、傍のホストへ「裏口は?」と訊く。問われたホストは、お客様がホストをお持ち帰りするために専ら使われる、通称『楽園へのエスケープ』なる非常口があると言う。
「参りましょうか? 楽園へ」
「馬鹿な子ね、逃げるだけよ。そこに十分後にタクシーを呼んでおいて」
どうして×子が裏口からタクシーに乗るのかわからず、マヤはハヤトを見、ハヤトはあらぬ方を見ている。
そこで、初めて彼が「マヤ」と彼女を呼んだ。立ち上がり、やや倦んだように彼女へ手を差し伸べた。彼に手を取られ、彼女は×子を振り返った。
相変わらず彼女はグラスを手に、煙草を唇にあてがっている。そうしていても目に染むほどきれいで、こんな美人を振った男の気持ちはどんなだろうと、ふと思う。
「ごめんね、マヤちゃん。ややこしいときに、巻き込んで。また埋め合わせさせて」
「いえ、そんな…」
「せっかくの場に、水を差しました。ここは大都の方で…」
「止めて下さい、速水社長。マスコミにまたえぐいこと書かれるところを救ってもらって、大都の社長に男遊びのお代まで持ってもらったら、恥ずかしくって明日から仕事ができません!」
きっぱりと言う×子に譲った形で、彼が軽く頭を下げた。「では、ごちそうになります。ほら、君も。旨そうなものを食ってたじゃないか」と、彼女の背中をぽんと叩いた。
「×子さん、ごちそうさまでした。ありがとうございます」
慌てて頭を提げた。二人の話の流れで、やっと彼女にも、×子がマスコミ避けのために裏口からタクシーに乗るのだとわかった。×子目当ての記者が付近にいることを、彼が忠告したようだとも。
彼は彼女を促して店を出た。見送るホストに返して、彼が「北島が面倒をかけました」と会釈するのに、ちょっといたたまれなくなった。
(ごめんなさい)
自分のために気づかって、あれこれ頭を下げてくれるのがわかるから、彼に、つくづく申し訳なくなる。引っぱたいて手を引っ張ってくれば済むところを、北島マヤの評判を慮り、角を立てず、ただ緩やかに彼女を店から連れ出した…。
「水城君が心配してたぞ、後で礼を言っておけよ」
「あ、はい…」
頼りない声で、彼女は答えた。そして、彼がここに現れたのは、水城秘書の計らいなのだと知った。マヤは夜遊びを念のためマネージャーに連絡していた。そこから秘書に報告がいき、次いで、彼へつながった…。
それにしても、と。
罪悪感の影で、ある疑念が湧いてくる。
彼が帰って来るのは明日ではなかったのか。聞き違えか 勘違いか。
ただとぼとぼと彼に従い、彼女は停めた車に乗り込んだ。




          


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