ブランク
〜薫子と聡ちゃんのあれこれ〜
 
3
 
 
 
敏生はわたしの姿を認めても、眉一つ動かさなかった。
ただ少し唇の端を上げ、笑みのようなしたり顔のような表情を浮かべただけ。
その余裕に、かき立てられた驚きの中、わたしは彼の作為を感じた。この再会は、彼が企てたのだ。
ゆかりはきっと前もって、学生時代の友人と会うことを晃さんに話してあったのだろう。『大学の友だちよ。ほら、美保と、理奈と薫子』、そんな風に。そのとき、底意なく補足したかもしれない。『薫子は、あの蒔岡さんと離婚した…』などと。
おかしくない。夫婦なら、そんな予定を交わす会話はあって当然だ。
それを何らかの経緯で、社内で近い関係にある敏生が耳にした。多分そう。違いないだろう。
それで、ここにわざわざやってきたのだ。
敏生は小さな紙バックを、ゆかりに渡した。中国へ出張した際のお土産だという。それを渡しに来たというのだ。そんな物、晃さんに渡せば済む。なぜ、彼がそれだけのために、敢えて足を運ぶ意味があるのだろう。帰りとは沿線も違う。
いつも彼は、わたしの嫌がることを好んでする。こちらの気持ちなどお構いなしに。思いのまま、何だってする。
敏生はリビングのわたしにちらりと、視線を投げた。それを、わたしは頬の辺りに受け、瞳を逸らした。
気まずそうなぎこちない顔をしたゆかりに、申し訳なく、わたしはなるべく何気ない顔色を作り、明日の約束を簡単に交わしながら、他の友人と玄関を出た。
これで終わりだ。外の空気を吸い込んで、わたしは腕にかけたバックの取っ手を、心なし握った。
美保や理奈と共に、ポーチから往来へ出ようとしたとき、バックをかけた方の腕をつかまれた。思わず、振り返った。
それは果たして敏生で、「待てよ」と言う。
待てる訳がない。なぜ待つ必要があるのだろう。言葉すら返す前に、彼は胸ポケットから素早く何かを取り出した。それは紙のような薄ぺらいもので、それを美保と理奈に一枚ずつ渡す。
「それ、使ってくれて構わないよ。悪いけど、ちょっと彼女を借りたい。話があるんだ、どうしても」
二人は顔を見合わせている。敏生が渡したのは、タクシーチケットらしい。
会社から出されたものだろう。
どうしよう、とわたしをうかがう二人に、どうしてだか、わたしは妙な意地めいたプライドを持ち出していた。
別れた夫と旅行先でひょんな形で出くわし、それに取り乱す役柄だけは嫌だった。冷静でいたかった。表面だけでも。
わたしはつかまれた腕を、片方の手で外し、彼女たちに頷いた。
「大丈夫。後で連絡するわ」
「じゃあ、明日ね」
交通量の激しい通りで、タクシーはすぐに停まってくれた。一台に二人が乗った。遠くない美保は、多分チケットを使うのことを惜しんだのだろう。最寄りの私鉄駅で降りるようだ。
彼女たちを乗せたタクシーが遠ざかり、わたしは口を開いた。
「何のつもり?」
敏生はそれに、すぐに答えなかった。肩越しに右側のわたしを見、「ちょっと太ったか?」などと、憎らしいことを軽い口調で口にした。
嫌なことを言う。頬はほんのりふっくらしたような気はするけれど、以前と服も下着のサイズも変わらない。
答えないわたしに、彼は、
「男がいいのかな? 続いているんだろう、あの医者とは」
「セックスフレンドは何人になったの? 増えた?」
車のヘッドライトが途切れなく続き、夜目にも明るい通りに向かい、彼は手を挙げた。タクシーを見つけたようだ。
目当てのグリーンの車体が近づくまでに、こんなことを言った。
「俺に会うのが嫌なら、大阪に来るな。まるで迎えに来てほしいのかと思ったよ」
そう言い、わたしの返事も待たずに手首を強く握った。
「ちょっと…」
抗ったわたしに、あっさりと返す。
「何もしない。ホテルまで送るだけだ」
引っ張られるように乗り込んだタクシーの後部座席で、振り返ってこちらをうかがう運転手の「どちらまで?」という、事務的な問い掛けに、ためらってわたしはしばし口ごもった。
ホテルの前まで行くことに、戸惑いがあった。どこか、その手前で……。
「どちらへ行きましょ?」
重なる問いの声。その後で追うように、敏生が「○○か?」と訊いた。そこではない。旅行者に便利な立地のごく近い場所ではあるけれど、そのホテルではなかった。そこでいい。そのホテルの前で彼と別れよう。
そう考えた時間は数秒だったろう。瞬くほどの時間だ。けれどもその確かな間に、敏生は別の声を運転手に告げた。
「Aホテルへ」
そのホテルの名に、唖然となる。わたしが予約したホテルなのだ。どうして、彼にそれがわかったのだろう。
走り出した車内の中で、わたしは隣りの彼に、ちらりと視線を走らせた。ふとこちらを見た彼と目が合った。
きれいな鼻梁から頬のラインが、車窓から入る明かりに一瞬照らされて浮かぶ。
「大した謎じゃない。『大阪る○ぶ』に載っている。レディースプランがあるのは、あの二つだけだ。好きそうだろう、薫子」
前に座る運転手の小さな笑いが聞き取れた。
確かにそうだ。わたしはゆりに借りたあの旅行情報誌で、適当に交通の便のよいところを選んだ。そしてレディースプランのあるホテルを選んだ。
それをすべて見越す彼が、嫌らしく、そして滑稽だった。
 
宿泊するホテルのエントランス前に着き、わたしは財布を開けかけた、それを遮り、敏生が、例のチケットを取り出して清算してしまう。
「ちょっと、あなたも降りるの?」
「ああ、明日早朝に出社しないといけないんだ。ここなら会社まで近いから、俺も泊まるよ」
さあ、さあと、押し切る彼に促され、わたしは車を降りた。どちらにしろ、降りない訳にはいかないのだ。
「他のホテルにして」
「わかった」
明るいエントランスから、開店ドアを彼はわたしの肩を抱くように中へ導く。ロビーにはいまだ人目もあり、みっともない言い争いは避けたい。そんな気持ちを彼はきっと了解しているに違いない。その上で、強気にこんなことを仕掛けてくるのだろう。
フロントでチェックインを済ますと、背後に立った敏生が、「同じ階で、空いてないかな?」などと、ホテルマンに問いかけている。
睨むわたしを意に介した様子もなく、彼は空き部屋のあるという言う返事に、頷きながらさっさとチェックインを始めてしまうのだ。
呆れるほどに、押しが強い。
ざわつく胸を抱え、一方で、こんな人だったかしら、と首を傾げる。彼が中心の毎日だった頃、わたしにはそれはきっとスマートな挙措に写ったのだろう。
彼が変わったのではない。わたしが変わったのだ。
部屋へ案内するという声にも、「自分で行くから」と、あっさり断りを入れ、背を押すように、わたしをエレベーターへ促した。
「止めて。他のホテルにしてって、言ったのに」
「いいだろ? 希望通り部屋は別なんだから。何もしない。そう邪険にしないでくれ。落ち込むから」
「信用できないわ」
「そりゃよかった」
ちっともよくない。渋々と、まるで導かれ、ここまで連れてこられたかのように、広めのエレベーターに乗る。外国人の年配カップルが、閉じかけたドアに乗り込んできた。
男性の方が、英語で大阪城は遠いのかを、わたしに問うた。とっさに答えができず、それを敏生がまずくない英語で返した。この程度のことは、何でもないのだろう。
この人は何でもそつがない。
自分の持っているものをきちんと理解し、それを使いこなしている。置かれた立ち位置だとか、容姿や外見。そして能力。
ちんと、ささやかな音でドアが開いた。目指すフロアに着いたのだ。
 
ずらりとドアが並ぶフロアからは、物音がしない。しんと静まっている。わたしは自分の部屋へ向かう足を止めた。
「もう、ここでいいでしょう? さようなら」
敏生がどの部屋を取ったのかは知らない。けれども、彼がそちらへ向かうのを見届けてから、部屋に入りたかった。『何もしない』と言う彼の言葉は、やはり信用できない。敏生は当たり前のように、いつも卑怯だ。
「君が部屋に入るのを見てから…」
彼が言いかけたそこで、電子音が鳴った。そのメロディーは、わたしの携帯の着信音だ。
バックを探り、手のひらに小さな携帯を握った。取り出したその瞬間、敏生がその手をつかんだ。
「嫌、何するの?」
彼は痛いほど力を込め、わたしの手から、鳴り続ける携帯を奪った。そのまま、片手で両手首を捕らえた。手をつかんだまま、もう片方の手で器用に画面を開く。
「返して。何するの? 人を呼ぶわよ」
「呼んでみろよ」
つぶやくように言った後で、呼び出し続ける携帯を耳に当てた。「はい。どちら様?」
ふざけた声で応じている。誰からの電話なのだろう。この時間なら、母からだろうか。でもなら、敏生はきっと出たりしない。
じゃあ、誰?
「ちょっと、敏生…」
手を外そうと抗う。そのわたしの頭に声が降ってきた。
「薫子なら、手が離せないようです。ご用なら伝えますが」
そのまま耳から携帯を離し、ぷちりと通話を切った。わたしのバックに電話を突っ込んで返し、ようやくつかんだ手を解放した。
やや赤くなった手首を、わたしは交互にさすりながら、彼を睨んだ。
「誰? 人の電話に勝手に出ないで」
それに敏生は、頬を緩めた。何がおかしいのだろう。面白いのだろう。目にかかった髪を指でつまむようにかき上げ、
「医者の彼だったよ。俺が出て、びっくりしているようだった」
とっさにわたしの手が、彼を打とうとした。
ひどい。聡ちゃんからの電話に出るなんて。
その頬に近づいた手を、容易く彼は再び封じた。
腕が引かれ、抱き寄せられる感覚。「あ」という余裕もなく、わたしは彼の腕の中にいた。
「嫌」
胸を押し、離れようともがくわたしの背を、彼は廊下のアイボリーの壁に押し付けた。肩を強く押され、腕が上がらない。
足を動かし、何とか逃れようと身をよじるわたしに、敏生は軽い笑みを浮かべた。射るようでいて、楽しげにその切れ長の瞳は、目尻にすっと笑みを含んでいる。
「離して」
「嫌だ」
その声のすぐ後で、唇が押し当てられた。頬に、そして唇に。
懐かしくて、忌まわしいキス。



        

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