ブランク
〜薫子と聡ちゃんのあれこれ〜
 
5
 
 
 
聡ちゃんの指が、当てた頬から髪に移る。
緩く波打つ髪筋に、その指が絡んだ。唇を離す狭間、「何か、つけてる?」と訊いた。
「うん」
朝、首に少しなじませた香水が、まだ少し香ったのだろうか。
普段、カフェの仕事があるため、わたしは香りをつけない。けれども、久し振りの旅行であったし、ほんのりとした気持ちの華やぎからか、滅多につけない香水を、昨日と今朝はつけていた。
結婚時代は、ほぼ毎日、習慣のように手首に、首筋に、ほんの数滴あてがうのは日常だった。敏生がそれを好んだし、そうする自分を好きだったのだ。
そんな癖が抜けて、もう随分たつ。
「嫌? 聡ちゃん」
人工的な香水の匂いを、好まない人だっているだろう。特に男性にはそういうタイプが多いかもしれない。
「そうじゃないけど…、何か、珍しかったから……」
会話がきっかけになり、腕が緩んだ。身体が離れる。側を、出庫する車が一台通過していった。運転席のハンドルを握る男性が、わたしの方を、じろじろと眺めたような気がして、窓から顔を背けた。夜の駐車場で抱き合うカップルを、冷やかすつもりか、不審なのか。
恥ずかしさもあり、不快さもある。遠ざかる車体を目で何となく追い、それが料金所を出たところで、携帯が鳴った。
わたしのではない。聡ちゃんのだ。彼は胸ポケットから携帯を取り出し、画面表示に少し唇を噛んだ。
「はい、柏木です」
その後は、「ああ」と、相槌が幾つか続いた。「わかった。ちょっと遅れると思う。11時には入るから」
おそらく、病院からの呼び出しなのだろう。急なことで、医師の手が足りなくなったのかもしれない。
わたしはとっさに車内のデジタル時計を見た。今は956分を指している。移動時間を考えれば、もう、一時間もない。
やはり想像通りで、通話を終えた彼が、勤務先の病院が忙しくなったことで、呼び出しがあったという。救急医療に携わる彼のこんな呼び出しは、多くはないが、そう珍しいことではない。けれども、以前に比べ、その回数が増えている。
「何?」
「高速道路の、事故らしいよ」
詳しくは言わず、聡ちゃんはシフトレバーを動かした。「ごめん、送ったら、病院行かないと…」
「わたしは、いいわ。一人で帰ったって。大丈夫? 時間ないのじゃ…」
「いいよ、それくらいの時間はあるよ」
彼は車を走らせながら、ちょっとばかし病院の愚痴をもらした。上司の医師採用の基準がおかしいという。
「今どき、学閥なんて言ってたら、地方に医者なんて来ないのに」
「そんなの、あるの?」
「採用の担当が、国立系じゃないと、うるさいんだ。能力があれば、どこだって、いいのに。時代遅れの選り好みをするから、現場が迷惑してる」
「ふうん、聡ちゃんが、出世して偉くなったらいいのにね。そしたら、お医者さんが増えるでしょう?」
「無理無理。薫子には悪いけど、僕は出世なんかできないよ。そういうタイプじゃない。仕事を器用にさぼって、要領よく論文読んだり出したり、博士取ったり、僕にはできない」
わたしはそれに、微笑んで応えた。彼の出世なんて、望んでない。たとえば偉くなって、肩書きがたくさんついた彼を、わたしは想像できない。
今のままでいい。優しくて、まっすぐにわたしを見てくれる。デリカシーがないくらいの、鈍いところもある今の聡ちゃんでいい。
彼にこれ以上、何が必要だろう。
「敏生って彼は、出世しそうだね」
不意に耳に入った彼の声に、わたしはまったく虚を突かれた。「え」と彼の横顔を見つめた。
信号待ちに停まるその間、聡ちゃんは助手席のわたしをちらりと見た。「何となく、イメージだよ。大手の商社マンで、押しが強そうだし」
夕べの電話からの流れなのだろうか。だから、こんな話題になるのだろうか。聡ちゃんの頭の中には、わたしの電話に無断で出た、あの不遜な敏生の声が残っているのだろう。
だから、こうして無理して迎えに来てくれたのだ。
「さあ、どうだろう」と、わたしは曖昧にそれに答えておいた。多分きっと敏生なら、器用に巧みに地位を重ねていくのだろうと思う。そつがなく、要領のいい人である。その能力もあるのだろう。思いはするけれども、どうでもいい。わたしには、もう関係がない。
そんなことより、とわたしは聡ちゃんにお土産に買った携帯のストラップを思い出した。デパートのショップにあって、可愛らしくて一目惚れしたものだ。色違いで、自分にも買った。あれを今の代わりにつけてほしい。
他愛もないそんな話をしたかった。この後すぐに別れるのなら、そんな甘いことばかり話していたい。わたしは、「ねえ」と彼の腕に触れた。
「偶然なのかな? 彼。薫子に会ったの、何か、でき過ぎていて」
聡ちゃんの話は、また敏生に戻っていく。気になるのだろうけれど、傷つくようなことはなかった。どうでもいい。
ぽつぽつと降り出した雨に、ワイパーがウインドウを左右に緩慢に動き出す。それを見ながら、夕べのことを軽い口調で話した。
言えないことも、もちろんある。抱きすくめられたことや、無理にキスを浮けたこと。そして、自分に彼につけ入れさせる隙のあったこと。
それは許されないほどの偽りだろうか。懸命に拒んだ。そして逃げた。それ以上関わる意志など、欠片も持たなかった。
だから、もう終わりにしたい。
「ああいう人なの。強引で自分勝手な、ああいう人なのよ」
聡ちゃんは、ふとこちらを見た。ちらりと瞳がわたしをなぜ、またすぐに前を戻す。
「怒ってないの?」
「え」
「やけにあっさりとしているね。もう、許しているの? しつこくされたんだろう? 勝手に電話にまで出て」
「だから、ああいう人なの」
「薫子が、どうしてそんなに簡単に許しているのか、わからない」
「聡ちゃん…?」
じゃあ、どうしていればいいのだろう。「ひどいわ、ひどいわ」と聡ちゃんに敏生の振る舞いを、なじっていればいいのか。
わたしの中ではもう、彼の存在は重さをなさない。その影も、記憶も。一切将来への共通項などない、ただの過去。
そうさらりと流してしまえる自分を、少しだけほめてやりたい。わたしはいつの間にか、こんなに強くなった。
 
「優しいね、やっぱり…」
彼の声は焦れを含み、低く唇からこぼれた。それはわたしが優しいというだけの、いい意味ではないだろう。ニュアンスに、ほんの間に、誰でもない敏生だから、わたしが彼の無礼な振る舞いを許しているのだという揶揄がにじんでいる。
だから、「やっぱり」と聡ちゃんは言う。きれいな横顔を見せたまま,真っ直ぐ、前を見て。
「何を、言っているの?」
「どうあれ、彼は特別なんだよ。多分、薫子には」
「おかしなこと言わないで。もう関係のない人なのに」
だから、どうでもいいのに。だから、関心がないのに。
聡ちゃんは、まるでわたしが敏生と何かあったかのように勘繰ってでも、いるのだろうか。彼のわたしへの興味は、変わった執着でしかない。愛情などではない。
もしかしたら、結婚時代でも、そうだったのかもしれない。わたしが勝手に、互いが必要とし、愛し合っていると、幻想を見ていただけなのではないか。愛情があれば、傷つけまいと浮気くらい隠してくれる。詫びてくれるはず。敏生はそれすらしてくれなかった。
彼の中ではわたしは都合のいいだけの妻で、対等ですらなかったのかもしれない。
そんなことに思い至り、じわりと今頃傷ついている。憎しみはない。ただ、そうだとしたら、自分が哀れだと思った。
わたしが陥った、ほんの束の間の闇。
「僕なら、きっとそうだから」
「え」
聡ちゃんは短く告げた。自分なら、別れた配偶者は『特別』だろうと。
「それが、どんな意味でも」
返す言葉を見つけられず、わたしは、黙り込んだ。
嫌な話題で、言い合いになるのを避けたかったためと。ふと会えたのに、すぐにくる別れのタイミング。その間の悪さと。
離婚したことなどないくせに、どうしてそう決め付けられるのか。偉そうに言わないでほしいと、憤りがわいたためと。
それらがない交ぜになった戸惑いが、柔らかな返事の接ぎの穂を摘んでしまう。
聡ちゃんからも言葉がない。言いたいことを言い終え、満足したのかもしれない。既に仕事のことを考え出しているのかもしれない。
車内のデジタル時計が、1030分に近い。自宅も近く、別れがすぐ目の前に迫っている。
なのに、意味ある会話もなく、肌に心地の悪い沈黙ばかり。約束もなく、わたしたちは馬鹿みたいに、こんなことで手間取っている。
静かに重く、時間だけが流れていく。
そして、ひっそりとわたしは胸の奥でひやりとしている。
どこかで彼の言葉を否定しきれない自分もいるのだ。結婚という過去を、間違いなくわたしと敏生はある時期共有した。
確かにそれは、誰とでもない、彼でしかない。
 
「面白くなくて、苛々していた。ごめん、変に絡んだ」
 
心なし左の窓に視線を向けるわたしに、聡ちゃんがぽつりと言葉をくれた。
「うん」
わたしはそう頷きを返し、膝の手を外し彼の腕に触れた。
それだけで、わたしたちには伝わるものが、幾つかある。



        

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