水槽の魚がこちらをみてた
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (1

 

 

 

積み上げたものが崩れるのは、ほんの一瞬。

あっけないほどのそれに、わたしは息を飲む。

 

彼のシャツからほのかな香水の香りがしていたのを、わたしはかなり前から知っていた。

特に気にも留めなかった。

尋ねても、きっと敏生(としき)はこう返すのだ。

「会社の女の子だよ。飲み会で、ジャケットを掛けてくれたんだよ、確か」

とか、

「新人教育を任されててさ、コーチしたとき、ついたんだろ?」

何でもないかのように、きっとそんな風に言うはず。

さらりとしたいつもの彼の口調、振る舞い、そんなものを信じていた。

変わらない日常。

変わらない生活。

ちょっと退屈ではあるけれど、新築の分譲マンションに夫と二人で住む、恵まれた環境。

毎日きちんと化粧をして、おしゃれを忘れない。いつの間にか出来上がった、近所の似たような有閑妻たちとのお付き合い。馴れ合い。

そんなものが、これからずっとわたしを取り巻くと疑わなかった。

ううん、自分に関わるおかしな変化が起きることなど、決してないと信じていたのだ。

あるのならばきっと、彼の長期出張。ちょっとした出世。昇給。マンションのローンの金利のアップ…。「そう」と、軽くいなせる、程度の変化だ。

きっとそう。

胸の中の、頭の中のそんな確信がぐらりと揺れたのは、彼の浮気を知った日から。目の前に靄がかかったように、淡くなり、何も考えられなかった。

 

敏生が浮気をするなんて……。

 

けれど、わたしの掌には、彼のシャツのポケットから出た知らないピアスが載り、そばには不可思議なクレジットの利用明細までがある。

東京に出張と出かけたはずの日に、どうして京都のホテルに泊まるのだろう。

この日付けの夜、「出張」から帰宅した彼は、何食わぬ顔で、わたしに東京土産だとケーキをくれた。

「それ、空港で買ったんだ。同期の奴のお薦め。薫子(かおるこ)、好きそうだなと思って」と。そんなことを言って、ネクタイを緩めていた。

何でもないかのように。

ちょっと笑って。

これまでと変わらない、彼らしいどこかおぼっちゃんな様子で。

それから、わたしに触れたのだ。

誰とも知らない女をきっと抱いたその腕で、わたしの髪をなぜ、そしてキスをした…。

めまいのするほどの虚脱感。

何もする気になれない。

友人にメールをするのも。下のフロアの二階堂さんのところへ、約束のお茶にお邪魔するのも、気が重い。

わたしは、バルコニーに取り込み残した洗濯物が風で揺れるのを、リビングのソファから、ただぼんやりと眺めた。

届いたクレジットの明細など、仔細に見なければよかった。彼のシャツのポケットなど、探らなければよかった。

当たり前の普段の行為で、わたしは当たり前の日常を壊した。

そして、

 

どうして、敏生はわたしの目から、それらを隠さないのか。

 

微かに酸素の音を立て、涼しげに揺れる水面。その中で回遊する熱帯魚だけが、楽しげに幸せそうに泳ぐ。

虚ろなわたしを見ている。




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