きみに拒絶されたら、僕はどうしたらいい?
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (2)

 

 

 

『悪いけど、残業になるよ。メシ適当に済ますから、構わなくていいから』

「そう、わかった」

いつもの午後7時ごろの敏生からの電話。

遅くなるとか、もう帰れるのだとか、夕飯はいらないとか。食事の仕度があるから、連絡してくれるように頼んである。

それは、結婚してからのわたしたちのルールだ。彼がそれを破ったことは、一度だってない。

彼からの電話に、わたしは夕飯の仕度を一切放棄した。一人の夕飯に手間を掛けるのは面倒で、買い置きのインスタントで済ませよう。おなかの空いたときに。

第一、食欲もない。

マンションの若い奥さん連中と一緒に通う料理教室。そこで最近習ったイワシ料理を考えていたけれども、冷蔵庫のチルドに入れたまま。

この陽気では、明日に回せないかもしれない。悪くなっているかもしれない。

きっとそれを、わたしは臭わないように何重にも包み、ビニールに入れ、生ごみへぽいと捨てる。何事もなかったかのように。

けれど、

けれど、彼の裏切りはそうできない。簡単には捨てられない。

何もなかったように包むことなど、まずできない。

きれいに消すことなど、絶対にできない。

「どうしよう……」

やはりわたしはソファに座り、そんな言葉をもらしている。

彼への憎しみより、怒りより、驚きが大きい。いまだにわたしはどこかで、事の次第にぼんやりとしている。

結婚して三年。

彼に不満などない。恋人時代と変わらず優しい。お給料もよく、子供ができるまでは好きにしていいと、自由をくれる。

週に一〜二度のセックス。

長い休みには二人で旅行に出かける。

わたしの誕生日や記念日には、必ずほしいものを贈ってくれた。誕生日のネックレス、ピアス、結婚記念日の靴……。

不満など、なかった。

折りにかかる彼の実家からの電話。義母からの直接的な子供の催促だ。「早くに生んでおいたほうが、先が楽なのよ」、「難しいのなら、薫子さん、あなた病院に行った方がいいんじゃない? 今はそういうの、全然珍しいことじゃないのよ。聞いたんだけど、梅田のクリニックで…」。

それらにうんざりとして、彼にぼやくと、

「ママは俺の孫が見たいんだよ、早く」など、さりげなく母親の肩を持つ彼に、ちょっと苛立ったこともあった。

けれど、そんなものは些細なこと。

「薫子の旦那さんは、顔よし、育ちよし、稼ぎよし。全部揃ってる」。友人からのそんな声に、わたしは内心大いに頷きながらも、

「そうかな、あれで結構マザコンなんだけど」

などと言ってみたりした。

不満など、なかった。

理想に限りなく近い人だと思っていた。

けれど、

 

けれど、彼には、わたしへの不満があったのだろうか。

 

何か足りなかったのだろうか。

聞きたい。

敏生の答えが聞きたい。

 

彼と出会ったのは、わたしが女子大の四年生の頃だ。

小さな貿易会社への就職も決まり、のほほんとしていたとき、友人の誘う合コンで知り合った。

馬鹿みたいにありきたりな出会い。

大手の商社に勤める敏生は、スーツの似合う、大人に見えた。ちょうどわたしの七つ年上で、物慣れた感じもスマートで、すぐに惹かれた。

どちらかといえば白い肌にすっとした目もと、何だか歌舞伎の世界の人のようで、上品な雰囲気があった。

「実家は料亭をしているんだ。母親が女将で、姉貴が若女将をしている」。

聞けば、友人も知る老舗の名料亭だという。

わたしの何を気に入ってくれたのだろう。合コンの後で、とんとんと簡単に交際が始まった。つき合いは順調に喧嘩もなく、不思議なほどするすると続いた。

(上手くいくときは、こんなものなのかな)

これまでのしっくりいかずに終わった幾つかのつき合いを思うと、敏生との仲は、驚くほどに落ち着いていたのだ。

大学を卒業して、一年仕事をした。

その後で彼のプロポーズを受け、すんなりと結婚。

実家の母は、「敷居が高そうなお家」と、彼の家が大きな料亭を営んでいることに躊躇した。「世界が違うんじゃ」と。

わたしも敏生の母に若干の権高さは感じてはいた。でも、それを敢えて言葉にせず、「こちらの引け目」だ、と母へは笑って返した。そんなことは、結婚をためらう、何の支障にもならなかった。

そして、結婚と同時に買った千里のマンションの多額の頭金を、ぽんと出してくれたのも、彼の実家だ。「態度に出すけど金も出す」などと、内心舌を巻いたのをよく覚えている。

わたしは同じような境遇のマンションの奥さんとつき合い、二人きりの楽な家事をこなし、料理やケーキを習う…。

そんな生活をほぼ三年送ってきた。

悩みといえば、そろそろ義母の薦めるクリニックを受診しようかと考えていること。または、ちょっとしつこいマンションのある友人との付き合いに、やや倦んできたこと。フルセットで揃えた化粧品が、いまいち肌に合わない気がすること。

そして、趣味の絵本を描くことを、もう一度始めてみようかと、思い出したこと…。

そんな他愛もない、贅沢ともいえる屈託ばかり。

多少仕事の経験もあるので、自分の置かれた環境が、どれほど恵まれているか、言われなくともわかる。

自分という、別にこれといって取り得のない二十六歳のわたしには、これ以上望めないほどの幸せだと知っている。

きっと手放したら、次はないほどの。

 

 

敏生が帰って来たのは、午後十時を過ぎていた。

彼はいつものように、ジャケットを肩に掛け、バックを提げていた。

少し飲んでいると言う。

「薫子、風呂入るよ」

「うん……」

明日は早朝の企画会議があり、今夜は早くに寝たいという。

欠伸をもらしながらバスルームに向かう彼の背中に、わたしは胸に溜めていた言葉をぽつりと投げた。

「ねえ、敏生、浮気してる?」

どれほどの間があっただろう。彼がバスルームのドアを開けるときまで、それは続いた。

その沈黙の間が堪らずに、わたしは見つけたピアスのことや、クレジットの利用明細の件を話した。急くような言葉で、並べ立てた。

振り返った彼が、ちらりとわたしを見た。

「ごめん、してる」

わたしはそれにすぐに声が出せなかった。判っていたはずの答えに、言葉が返せなかった。

どこか意外そうな声で、

「とっくに薫子が気づいていると思ってた。気づいて、許してくれるんだろうと思ってたんだ」

 

え。

 

大きなボールでも、不意に投げつけられたよう。愕然と、わたしは悪びれない敏生の言葉を不器用に受け止めた。

隠したともいえない痕跡の訳が、こんなところで腑に落ちる。「浮気に気づき」、更に「許してくれる妻」の目を、それほど気にする意味が、彼にはないのだ。

彼がシャツのボタンをすべて外し、脱いだ。癖で、それをランドリーのバスケットに入れない。床に無造作に捨てる。

習慣的にわたしはそれを拾い、腕に抱えた。彼の使う、うっすらとした香水の香りがした。

ベルトのバックルに手をかけ、敏生はちょっと笑う。

 

「他の女とした後で君とすると、新鮮だろう?」

 

この人は何を言っているのだろう。

どうして笑うのだろう。

衝撃に、シャツを握り締めるばかりのわたしの前で、彼は「出て」と言った。風呂に入るから、と。

反射的に、わたしは数歩下がった。

目の前で、ばたりと閉じられたバスルームのドア。

その向こうに、穏やかにシャワーの流れる音が聞こえる。

 

そして、わたしの知らない彼がいる。




  
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