ひぃふぅみぃ…(1つ足りない!)
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (31

 

 

 

夕暮れに、日影に、そして朝に、くっきりと季節の移ろいを感じる。

少しずつ、透明に秋色に澄んでいく空気。

『花の茶館』でも、アイスティー、アイスコーヒーが夏の間の旗艦メニューであったのに、いつしかホットティーやホットコーヒーをオーダーする人が、増えてきた。

そんな中、咲子叔母さんが恋人の高見さんと一緒に暮らし始めた。

彼のアトリエには絵を描くスペースの他は、生活のためのごくささやかな空間しかないため、叔母の住まいに引っ越してきたのだ。

「そう言ってもね、紙袋に二三枚、着替えを突っ込んできただけよ」

と叔母は笑う。これまで通り、絵を描くにはあちらのアトリエへ「出勤」となるらしい。

その笑顔に、何かを通り抜け、または乗り越えて昇華した女性のふっくらとした余裕、しなやかさ…。そんなものを傍にいて、わたしは感じる。

叔母は、結婚はまだ決めかねているという。

「それでもいいの。あっちゃんも、急かないし。ゆっくりと考えて、いい時期に二人で答えを出すわ」

そこで、あっさりとのろけるのがおかしい。

「わたしと一緒に暮らすのが、夢だったのだって、あっちゃん。可愛いでしょう?」

「はいはい」

店のカウンターで手を動かしながら、わたしはにんまりと笑みを浮かべ、それを受けた。

また、一歩前進ね。と胸のうちでささやく。

他人には造作のない、歯がゆい変化だろうし、叔母の答えなのかもしれない。

けれど、わたしたちにとっては、真の意味で過去との決別であり、先への大きなチャレンジだ。

幸せになるための……。

くるんと先を巻いた彼女の髪が、肩で揺れる。

弾むように見えた。

 

 

相変わらずなのは、わたしと聡ちゃんだ。小さなことで、あれからもちょっと喧嘩をしたり、すぐにまた仲直りをしたりした。

この日は、彼の車の中にお見合い写真を見つけ、それでわたしがすっかりつむじを曲げたのだ。

だって面白くない。

写真の女性は二十八歳。薬剤師を勤める聡明な雰囲気の女性。もちろん初婚。趣味は学生時代からのアーチェリーで、今も休日には楽しんでいるという。陶芸にも興味があり……。

写真に添えられたプロフィールを読んで、わたしはむっつりと黙り込んだ。しまった、といった彼の表情を、わたしは見逃さなかった。

「関係ないから、それ」

「別に……、その人と結婚すればいいでしょう」

デートの帰りで、わたしをちょうど家に送ってくれるところだった。

「保険の勧誘に来たおばちゃんが持って来たんだよ。知り合いの女の子だって言って。僕の三つ上の先輩から回ってきただけ。僕も次に興味のある誰かに回すんだよ」

「じゃあ聡ちゃん、興味あったから回ってきたのね」

「違うって。独身だから勝手に、寄越されただけ」

わたしは横を向いて、窓の外を見た。既に花滝温泉街に入り、渓流の音がガラスを通しても、さやさやと聞こえる。

ちょうど、彼に初めてプロポーズを受けた場所だ。

彼がその見合い写真の女性に、真に興味があるとは思わない。タイプとはきっと違うだろうし、軽薄な人でもない。

けれども、わたしの目に付くだろう場所に、それを不用意に置く彼の無神経さが嫌だった。それを見たわたしがどう思うかも、考えてくれない。

聡ちゃん、やっぱりデリカシーがないじゃない。

返事も返さないわたしに焦れたのか、彼は路肩に車を停めた。ぎっとサイドブレーキが引かれる音がする。膝に置かれる彼の手。

「薫子、ねえ」

渡そうと思い、机に置き去りにしていたこと、別の書類と一緒に車に持って来てしまったこと。そのまま忘れたこと。写真の女性には、全く関心のないこと…。

そんな声を耳の後ろで聞きながら、わたしは流れる川を見ていた。その音を感じていた。

いつしか些細な怒りや勘違いなど、彼の声の急くような連なりに、胸からふわりと消え、流れていく。

きちんと耳で聞き、嬉しく思いながら、返事もせずに、虫の音も届く、きれいな初秋の宵だと思っていた。

「薫子だけだから」

「ねえ、聞いている?」と問いかける、焦れたときの彼のちょっとかすれる声がした。

黙ったままでいると、彼の手がふとわたしの膝から離れた。車を車道に戻す気配がして、ちらりと瞳だけで眺めると、真っ直ぐに前を向いている。

わたしがずっと返事もしないで拗ねているので、それで怒ったのだろうか。

自分が悪いくせに。

謝ってくれてもいいのに。

やっぱり「初婚」の文字は、わたしには目に痛いのに…。

わたしは黙ったままでいた。

車が自宅に着き、彼がいつも通りに玄関の傍に停める。わたしは無言で車を降りた。

これまでだったら、「ありがとう」や「またメールする」など甘いやり取りが、幾つかある。今夜はわたしも、自分からそんなことを口にする気になれない。

聡ちゃんから言ってくれないと、嫌。

子供っぽい拗ねと意地が、またも懲りずにひょっこり顔を出すのだ。馬鹿みたい、と知りながら、それでもほんのりふくれて…。

ばたんと彼がドアを閉じる音がした。不意のそれに振り返ると、後ろから彼が車を降りた。

伸ばした右手でわたしの手を取る。

「聡ちゃん…」

彼は何も言わずに、がらりと玄関の引き戸を引いた。中に入り、たたきに立ったまま、大きな声を出す。

「すいません、お母さん、僕です。柏木です」

「聡ちゃん?」

わたしは意図がわからず、彼の手を引き、顔をのぞき込んだ。

奥からテレビの音に混じり、母の「はあい」と言う声、その後で、ぺたぺたとした足音共に浴衣の母が現われた。

「いつもありがとうね、聡ちゃん。薫子を送ってくれて」

のんきに礼を言う母に、彼は、

「僕たち結婚する気でいます。お母さんには、了解してもらいたくて」

「え」

薬の説明でもするみたいに、そんなことをすらすら言うのだ。

わたしは全く慌ててしまった。

プロポーズをされたことも、期限を決めないでわたしがそれを受けたことも、母知らないのだ。「あ」と言ったきり口を開け、ぽかんとしている。

「聡ちゃん…」

彼は驚くわたしの顔を見て、笑う。いつものように癖のない笑顔だ。照れるのか、ちょっと唇を噛んだ。

「僕の気持ちを、君がわかってくれないから」

「もう……、馬鹿」

嬉しいのに、ときめいて胸が騒ぐのに。わたしは、はにかんでうつむいて、そんなことを言う。

意地っ張りは、やっぱりわたし。彼は真っ直ぐに、わたしへの気持ちを行動で表してくれる。

つないだ手の力が、強くなる。わたしの指を、彼の長い指が包む。

そんな彼と初めて、結婚したいと思った。将来、この人の子供を授かりたいと思った。

家庭をつくり育んで、ずっと一緒に、一番の絆を持ちたいと、心の深い奥で感じた。にじむように、その思いは湧き出してくる。

「あら、出戻りでよければ、どうぞどうぞ」

母はおかしそうに笑う。

「お母さん、変なこと言って…」

そうふくれて、母を軽くにらんだ。そうしながら、母の明るい声音に、嬉しいのだと気づいてもいる。

「でも、返品は止してちょうだいね」

母の言葉に、今度は彼がぷっとふき出した。「聡ちゃん」とそっちをにらむと、彼が、ごめんと言い、それでも笑う。

「結婚早めようか? お母さんも賛成してくれてるし…」

笑みに紛らし、そんなことを言い出す。

気持ちは逸りつつも、曖昧にして返事は避けた。

それでも、自分の心が、背を押され、または風を受け、何かに乗ったような…。そんなふわりとした実感を、確かにわたしは受け止めている。

 

ドレスも要らない。

ブーケも要らない。

 

互いがあればいい。

そばにあなたがいてくれたら、それでいい。

真っ直ぐな瞳を、わたしだけに向けてくれたら何も要らない。

それだけで、わたしは幸せ。

花嫁になれそうになる。

 

聡ちゃんが帰った後で、母からのにやにやとした詮索を逃れるため、ふいっとお風呂に入った。

上がって、髪をタオルで拭きながら、冷蔵庫から缶のビールを取り出す。茶の間の母もほしいと言うので、もう一本取り、渡す。

三味線の会のチラシを眺めていた母が、ビールを一口飲んで、「あ」と手を打った。

「忘れるところだった。聡ちゃんの件で、びっくりして」

「何?」

母は棚の上に置いた小さな包みを、わたしに差し出す。宅配便で、今日の昼に届いたのだという。

送り主が『マキ トシコ』となっている。住所は東京で、全く心当たりがない。

気味が悪いものの、開けてみる。封を解いて、わたしは「え」と声がもれた。

それはベルベッドの可愛らしいちょうどジュエリー用の小箱で、深いブルーの地に金の刻印で有名ブランドの名がある。このブランドのバックは結婚時代に買い、持っている。

「何?」

蓋を開けると、ふっくらとした白い絹の上に、見覚えのあるブレスが入っているのだ。ゆりとおそろいで買った淡水パールと色石のブレスだ。

失くしたと思っていたあれが、どうしてここに…?

ブレスを取り出すと、その下に小さなカードが見えた。やはり有名ブランドの刻印の入るそのカードには、

 

『愛を込めて
というと重いかな?
またきっと会えると信じているよ。

 

敏生』

 

カードをつまむ指が固まる。

あの人…、一体……。

そういえばあの『マキ トシコ』の名前……。わたしの結婚時の旧姓は、蒔岡だった。彼は敏生。それを適当にもじったものだ。

このブレスは、彼と共に千里のマンションに行った際に、きっと落しか何かしたのだろう。

それを彼は、わざわざこんな大層な包装を施して送ってくるのだ。

自分でしたとは思えない。多分、そのブランドのショップに赴いて、顔見知りの店員に、何かのついでかに頼みでもしたはず…。

「あの人って…」

呆れるわたしに、母が追い討ちを掛けた。「花も一緒に届いたのよ。バラよ。傷むから、箱から出して座敷に置いてあるの」と。

「え」

座敷の襖を開けると、むっとするバラの芳香がすぐに鼻を突いた。

母がしたのだろう、水を張ったバケツに入ったそれは、まだ透明なフィルムで包まれていた。わたしの好きなクリーム色のバラの蕾が、幾輪もある。

ブレスは元々がわたしのものであるし、花はすぐに傷んでしまう。どちらも返しようのないものだ。

彼はそれを見越して送ってきたのだろう。

皮肉っぽく唇を歪め面白がる、どこかお坊ちゃんな敏生の、あの顔が浮かぶ。

よりによって、聡ちゃんとの結婚を意識したこんな夜に。まるで見計らったかのように。

なんてタイミング。

「おかしな人、敏生って」

つぶやくわたしの唇が、ふっとほころぶのだ。彼への憎しみ、こだわり、そんなものがすっかりと溶けてしまっているのを感じる。

「おかしな人」

あなたとの誓ったこと、絆。それらの壊れた破片は、胸にざらざらと、ときにちくりと残る痛みを呼んだ。

それが消えたとは思わない。形を変え、今もきっと、それはある。

けれど、確かにひっそりと眠っているのを感じるのだ。胸の扉を閉めた深く深く奥で、眠っている。

傍にある人の優しさと未来、またはわたしが手にした強さで、扉の鍵は開かない。開けない。

 

そして開かない。

 

わたしはバラのふっくらと優美な蕾をしばらく眺め、それから背を向け、襖を閉めた。














長らくおつき合いを下さりまして、誠にありがとうございました。
感謝申し上げます。

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