真実を語る口だけでいい
リング・ピロー 〜エンゲージの眠る場所〜 (30

 

 

 

夢を見ていた。

叔母の顔や、彼女と笑う高見さんの横顔。そして場面が切り替わるように、突然、懐かしくもない元姑の顔がどんと現れる。

「早く産んでおいた方が楽なのよ」と、かつてよく耳にした出産を急く言葉に、夢の中でわたしは、あっさりと答えていた。

「お姑さん、子供は今、マーケットで買えるんですよ。でもデパートの地下に売っている子供は、高いけどやっぱり違うのですって」

わたしの返事に、元姑は甲高い声で「早く、『大丸』へ買いに行きなさい」と言う。言いながら、財布を開け、わたしの胸に数万円を突きつけ……。

 

遠くで音がする。

かちゃかちゃいう金属の触れ合うような音。微かな人声…。

いきなり目の前が白くかっと明るくなり、元姑の声も顔も消えた。

おぼろげに、夢を見ていたのだな、と認識する。

「…聞〜こえま〜すか〜? できたら〜、返事を〜して〜下さい〜」

耳にそんな声が飛び込んできた。女性の声だと、すぐにわかる。

真っ白なほどの眩しい蛍光灯の明かり。その中に濃いブルーや薄いピンク色のユニフォームのようなものを着た人が、数人見える。わたしに大きな声をかけ続けるこの女性は、濃いブルーの方だ。

何度か繰り返す大声に、わたしは「聞こえます」と、ようやく声を出した。喉がひりひりと痛んだ。

ここは、どこなのだろう。

わたしは、一体……。

「あの、わたし…」

わたしの声に、その女性は、わたしが交通事故に遭ったこと。救急車に運ばれ、病院にいること。今怪我の治療中なのだと、流れるように話した。

女性の説明通り、わたしはいつの間にか、固い診察台に仰向けに寝かされていた。カシュクールのブラウスの胸はすっかり開かれている。

そのわたしを囲むように、ピンクのユニフォームの女性が、ブルーの女性の指示に従っている。

きゃっと悲鳴をあげたくなるほど、冷たいものが腹部にどろどろと塗られた。その上を何か器具が滑る。傍らのブルーの女性は、モニター画面を眺めている。

「おなかは〜、大〜丈〜夫です」

聞こえるのに、まだ大声で耳元に話す。それに、聞こえるからと再び言おうとして、急に気分が悪くなった。吐き気がする。

とっさに手で口元を覆うと。

「吐いていいですよ。身体を横にしますね」

身を横向けにされ、あてがわれた金属のトレイに、少し吐いた。

ようやく吐き気が治まったわたしに、「どこか痛みはないか」、「不具合がないか」と訊ねる。

また仰向けになり、「特にない」と答えた途端、くらりと眩暈を感じた。明るく照明の灯る天井が、揺れた。

「眩暈がする…」

「車と接触の際に、脳震盪を起こしたんです。今、頭部の写真の結果待ちですが、まず不安はないですね。眼球の反射も問題ない…」

ブルーの女性の説明に、ふと、自分が大事な約束を持っていたことを思い出した。彼女のブルーのユニフォームで、思い出したのかもしれない。

彼も同じようなユニフォームを着ていたから。

今何時だろう。もしかしたら、とっくに待ち合わせの八時は過ぎたのじゃないか。

どうしよう。

「聡ちゃん…」

唇から出た言葉に、ブルーの女性が何か反応した。化粧気のない、整った眉をした顔を、わたしの耳元に寄せた。

「あなた……、もしかして、薫子さん」

どうしてわたしの名を知っているのだろうと、疑問に思う前に、わたしは「はい」と答えていた。ものを考えることが、今は物憂い。

「柏木くんの彼女の薫子さんね?」

それにも頷いた。

照明が白く眩しくて、それに苦手な消毒の臭いがいっぱいに漂い、頭をぼんやりとさせるのだ。

「柏木先生を呼んできて」

そんなブルーの女性の声が聞こえた。

「どこにいますか?」

「外科に、オペ患者を送って行ったのよ。その後で、今日は上がるって言ってたから。呼び出してくれる?」

「はい」

そんなやり取りを聞きながら、ここはきっと彼の勤務する病院だったのだな、と思い至った。

すぐに、彼と会えるのだ。事故に遭いながらも、彼を待たせることがなかったのだ。

その偶然に、わたしはよかったと、つぶやいた。

「薫子さん、大丈夫よ。今柏木くんを呼んでいるから。すぐに来るわ」

ブルーの女性は、また耳元にささやきながら、わたしの開いたブラウスを直し、顔を拭ってくれた。

そういえば、わたしが見つけたあの子猫は、どうしたのだろう。

 

どれほどたったのか。

わたしはまたふっと眠るように意識を飛ばしてしまっていた。目が覚めると、彼が傍にいた。

ブルーの女性と同じ色のユニフォームのまま、レントゲン写真を振って、べろんと妙な音をさせた。それを明かりにかざし、何か女性と話している。

「大丈夫よ、心配のし過ぎ」

女性は彼の手からレントゲンを取り、

「でも、今晩は一日、経過を見るのは賛成」

「ああ」

そこで彼が目を開けたわたしに気づいた。手を握り、やや屈む。

「もう〜検査が〜済んで〜、結果も〜、大〜丈〜夫だったから〜」

女性医師と同じように大きな声でゆっくりと話すので、笑ってしまった。

「聡ちゃん、わたし、聞こえるから」

「ああ、そう」

それに彼も笑った。その後で、手足の打撲程度の怪我で済んだのだと言う。

救急車を呼んだのは、わたしをはねたという年配の男性で、小路から出たところで、道路の真ん中にいるわたしとぶつかってしまったらしい。

「ヘッドライトの無灯火で、君に気づかなかったと言っているらしいよ」

それでも、小路から通りに出るところで、徐行していたのが幸いだったという。

「明日には警察の聴取もあるって」

「…うん」

何にせよ、道の真ん中に突っ立っていたわたしも悪い。

救急センターからエレベーターに乗り、階上の内科病棟に移った。歩けるというのに、ストレッチャーに寝かされたままなので、恥ずかしい。

殺風景な個室で、やっぱり消毒の匂いがする。わたしは入院の経験はない。初めての体験に、閉じ込められるようで嫌なものだと感じた。

ベッドに腰掛け、用意された浴衣のような服に着替えた。吐いて気持ち悪かったので、備え付けの洗面台でうがいをした。

ほどなく彼が現われた。ユニフォームを脱いで、ポロシャツとジーンズに着替えている。

喉が渇いたと、さっきお願いしたお茶を買って来てくれた。渡されたペットボトルのそれを少し飲むと、胸がすっとする。

彼は丸椅子を引き寄せ、それに座り、自分の缶のコーヒーを開けた。

「お母さんには、僕から連絡しておいたよ。事故は大したものじゃないって。けど、念のため一日だけ、病院に泊まるからって」

「ありがとう、聡ちゃん」

「お母さん、びっくりしてたよ」

電話の向こうから、三味線の音がしたと彼が言った。夜でも都合で生徒さんがあるときもあるのだと答える。

「ふうん、優雅だなあ。うちなんか、犬の鳴き声と甥っ子の叫び声しかしない」

「たまにおふくろが、韓流ドラマを見て感動してわめいてる」、などと言うから、笑ってしまう。

そこで思い出し、訊いた。

「ねえ、さっきの女医さんが、わたしのことを知っていたみたいなんだけど…」

「今日、薫子がここに来るって、彼女に話してあったから」

以前、わたしと彼がベッドのことで喧嘩したとき、相談したのが、あの女性だったのだ、とつないだ。

「ふうん」

それで、わたしが彼とつき合っている「薫子」だと気づいたのか。

彼とのあれこれを知る女性に診察を受けたのは、何だか、やっぱり恥ずかしい。デリカシーのない彼を、やっぱり少し恨めしく思う。

けれども、

彼が触れた腕に、握る手に、絡む指に。

そんな物思いも、ふわりと凪ぐから不思議で。

嬉しいのだ。久しぶりに彼に会えて、そして触れて。

 

嬉しいのだ。

 

「呼び出しを受けて、センターに戻ったら君がいて、頭が真っ白になった」

「聡ちゃん…」

彼は絡めたままの指を自分の額辺りに持っていく。押し当てるようにし、

「自分に近い人が、患者としてセンターに来るのは、初めてなんだ。怖かった。本当に嫌だった。…ああいうのは、堪らない」

「ごめんなさい。子猫を見つけて…車がないのを確認したのだけど」

そのまま彼が、わたしの胸に身を伏せた。

わたしは彼の肩に頬を乗せる。

「ごめんなさい。聡ちゃん…、わたし…」

「ここに呼び出したのは僕だから、僕のせいだ」

彼のシャツから、髪から懐かしいほどの日なたの匂いを感じる。それに、わたしも泣きたくなる。嬉しくて、愛しくて、泣きたくなるのだ。

しばらくの後で顔を上げた彼の瞳は、ほんのりと赤い。

はにかむように、彼がちょっと笑った。

そんな彼は、ちょっぴり少年ぽくて、どこか可愛い。

わたしを見つめる真っ直ぐな瞳。その中に、わたしの影が宿る。

「聡ちゃん、好き」

 

彼はわたしに、ベッドに横になれとうるさい。

渋々身を横にする。時間も早く、ときどき睡眠を取ったためか、もちろん眠れる訳がない。

「僕がついているから。明日、送ってあげるよ」

「聡ちゃんは?」

寝なくていいのかと訊くと、ごく軽く、うたた寝するから大丈夫と言う。こんなのは夜勤などで慣れているからと。

「大丈夫? ごめんなさい」

「あれは、ショックだった。頭にも来たし」

話が噛み合わない。

わたしは今晩の付き添いのことで詫びたのに、彼は別のことと取ったようだ。齟齬に気づくのか、瞳を瞬き、ちょっとびっくりしたような顔をする。

「君の『さようなら』メールの話じゃないの?」

「ああ…」

あのメールの話か……。彼はそれにひどく怒ったようだけど、あれはあれで、そのとき必死に考えて出した結論なのだ。今とはその答えは異なるけれども。

わたしの頑なな気持ちも、ほぼ溶けてしまっている…。

「ごめんなさい。勝手に別れを決めて……。聡ちゃん、結婚をしたいのだと思ったの。年だから、一人暮らしも飽きているのだろうし。早く家庭がほしいのだと思ったの」

「年は余計だって」

彼は笑った。「一人暮らしには、確かにもう飽き飽きだけど」と前置きの後で、

「でも、薫子だから結婚したいんだよ。君と家庭を持ちたいんだ。他の誰でもなく、君じゃないと。……でも君は、僕を全く信じてくれない。その上あっさり『さようなら』だろ、それで頭に来た」

あっさりなんかじゃないのに。

すごく苦い思いで、決めたことなのに。聡ちゃんの気持ちに添えないから、そう決めたのに。

わたしは横になったまま、彼の手を取った。乾いた大きなその手に触れ、指を握る。

「前の結婚で、すごく、傷ついたの。……大事にしていたものが、簡単に壊れて、メッキが剥げて…がらくたみたいになったの。「一生君だけだ」と誓ってくれた人が、掌を返したように裏切るの…」

それに心がひどく痛んだこと。

そんな敏生とあなたを、一緒に見てしまったこと。

だから、聡ちゃんを信じられなかったこと…。

「ごめんなさい、怖かったの。また裏切られるのが。それで傷つく…」

彼はわたしの声を遮り、両手で、わたしが彼の指を握る手を包む。

「僕は君を裏切らないよ」

「……うん」

「僕も、君を独占したくて、早く自分だけのものにしたくて、……思いやりが足りなかった、ごめん。……僕も、君を失うのが、怖かったんだ」

彼は重なる手を強く握る。

その手の強さに、「あ」と、彼の心の傷跡を感じる。過去の恋のつけた傷だ。

それは癒えたように見え、やっぱりときにわたしとの関係の小さなほころびに、うっすらと顔を出すのだろうか。

それで、不安と痛みを感じるのだろうか…。

「信じてほしい。僕は、君だけだから。他は目に入らない」

そこで、重ねた手を外し、ちょっと鼻の頭を指でかいた。ぱちりと瞬いた後で、告げる。

「僕だけを思ってくれる君なら、ずっと大事にして、愛していける」

「聡ちゃんだけよ。他の誰かは嫌」

彼がこちらに身を伏せた。軽いキスの後で、すぐに吐息を感じるほどの距離で言うのだ。

「ねえ、実現は急かないから。約束だけして。将来、僕と結婚するって」

十分それで、急いて聞こえるのだけれども。

わたしは笑いを、喉の奥で押し込めた。それでも、おかしみと嬉しさの混じる笑みが頬に上る。

彼の声の切実な強さと、くれる甘い熱に、わたしはじゅんと心の中の何かが溶け去るのを感じるのだ。

間違えないでいよう。

彼は別の人。何もかも、敏生とは違うものを持った人なのだ。声も、髪も、きれいな横顔も。シャツに香る日なたの匂いも。

自分で心に檻を作るのは止めたい。

それは、目を塞ぎ、何も見えなくするから。

こんなにも真っ直ぐに瞳を向けてくれる人の声も。その胸に迫る愛情も。

見えなくして、信じられなくしてしまう。

わたしは頷いた。

「聡ちゃんの、お嫁さんにして」

「ありがとう。僕は薫子だけだから、信じてほしい」

始まるキスに、重なるその狭間に、思いつくまま、わたしはあれこれと彼に注文を出す。結婚するのなら、本城さんの住んでいたあのマンションは嫌なこと。家具も家電も全部変えてほしいこと…。

鉄は熱いうちに打て、のたとえじゃないが、面倒くさがりの彼こと、絶対のお願いは、早い方がいい。

またわがままが始まったと、嫌な顔をされるかも、とうかがえば、思いがけず、

「いいよ」

と、笑いながらも彼は、簡単に願いを聞いてくれた。ベッドの件で懲りたのかしら…?

「大好き」

優しい聡ちゃん。

真っ直ぐで、嘘のないきれいな瞳の聡ちゃん。ちょっとデリカシーがなくて、意地っ張りなところもあるけれど。

皆好き。

「僕も、薫子が大好き」

 

消灯の時間になり、明かりが落とされる。窓からの外灯の光がもれ入る薄暗い病室で、彼はわたしの手をずっと握ってくれている。

ぽつりぽつりと何か会話があり、眠さで瞼が重くなるに従い、それが間遠になる。

ずっと後の遠い将来に、わたしはこの夜のことを思い出すのだろう。

彼に、二度目のプロポーズを受けたこの夜のことを。

きっと、眩しいものとして思い出すだろう。

そんな未来の幸せを、眠りに落ちる瞬間に胸に描くのだ。




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