さようならの先に
1
 
 
 
夜更けに目が覚めた。毛布をよけシーツを滑るように寝台から降りた。首を返し見れば、ガイはよく眠っている。
傍の椅子に掛けたガウンを羽織り、静かに部屋を出た。暗く夜に沈んだ廊下を進み、目当てのドアの前に立つ。ノックののち入れば、部屋の中は暖かくやんわりと明るかった。照明を絞ったその影に、あの子が眠っている。
わたしの姿に、子守りの女性が立ち上がって迎える。掛けていた椅子に編み物が見えた。ちょっと前まで編んで時間をつぶしていたのだ。子は、夜中一度必ず乳を欲しがる。それが済むまでは横になれない。子守りは、このハリエットという名の乳母を兼ねた女性で三人目だった。
様子をたずね、それを聞きながら、小さな寝台に眠る子を眺めた。生まれて六か月になる子は、人の気配にびくりと両腕を動かした。それでも起きずに眠り続けている。
「ノア」
囁いて呼び、わたしは身を屈めて顔をのぞきこむ。柔らかい濃い茶のくるんとした髪に指で触れた。背後で、ハリエットが、「お腹を空かせてお目覚めになるのは、もうしばらく後でしょうか」。小さな声で言う。
それに相槌を打ちかけたとき、突然ノアが泣き声を上げた。驚き、わたしはハリエットを見、彼女はわたしを見た。互いに譲り合うのがわかり少しおかしい。まずわたしが抱き、少しあやしてから彼女へ渡した。乳を欲しがっているのだ。
「お母様がいらしたのが、おわかりになるんですね」
ハリエットが抱いたまま椅子に座り、胸を露わにする。ノアに乳を含ませるのだ。張ってふっくらと大きい乳房に子が吸いつくのを、羨ましいような思いで眺める。見慣れているのに。
わたしは乳の出が悪く、ノアのために十分な量を出してやることができない。そもそも、こちらではわたしみたいな立場の女が、自ら乳を与える例はあまりないようでもある。
納得はしているが、母として欠けたものを何か感じてしまい、張りもしない胸が申し訳なさでちくりと疼く。
授乳が済むのを待てば、ノアはもう目が眠りに落ちている。
「もうご満足のようですわ」
ハリエットの声に今度はわたしが抱き、寝台にそっと寝かせる。再び寝入ったのを見てからわたしは部屋を後にした。
こんな風に夜中寝室を抜け出し、ノアの様子をうかがうのは、ほぼ毎日だ。一人目の乳母の怠慢はそれで気づき、二人目になっても一人目のことが頭にあり、よく見に行った。この人は非がなかったが、わたしの行為に息が詰めるとかもらし、自分から辞めていった。
三人目のハリエットは、わたしのこの癖に嫌な顔をしなかった。幼子を介して、穏やかな彼女と気が合った。
寝室に戻り、ガウンを脱ぎ寝台の柱に掛けた。毛布に足をくぐらせたところでガイがこちらを向いた。起こしてしまったのかと、申し訳なくなる。
彼は少し身を起こし、片方の腕でわたしを引き寄せた。何も問わないが、少し笑うのがわかり、恥ずかしくなる。ほぼ毎夜のわたしの日課について、気づいているはずなのに、彼はあまり口にしたことがない。
「ごめんなさい」
起こしたことを詫びれば、子はどうだったかを問う。今の時刻を訊くような、当たり前の声だった。男親には、離れて眠る子がどう過ごしているのか気になることはないのだろうか。不安混じりの興味に目が覚めたりはしないのだろうか。
「お腹が空いたみたいで、泣き出したの。でもお乳を飲んだらすぐに眠って…」
「そう」
「そんなに長く見ていないわ。三十分ほど、四十分かも…」
「あなたの他に、夜はマーガレットものぞくそうだから、あの乳母も気が抜けない」
自分が乳母ならこの邸は勤まらない、と彼はちょっと笑う。
春にあの子が生まれ、慌ただしく季節が過ぎていった。子の張り上げる泣き声に振り回される大人たち。その成長は、何事にも優先するように思われた。来客も少ない静かな主人の邸は、いつしか日々ノアが中心のにぎやかさに包まれている。
秋の始まりに座ることを覚え、あの子は這い出した。しきたりで人に任せることが多いが、わたしも慣れない手で育児に加わりたいのだ。離れて乳母や子守りの子育てを眺めているのは我慢がならない。
ときに手を出し、「あら」という目を向けられてきた。もの言いたげなそれに、何を思われるのか、最初は怯えが出たが、どうしても譲れない。知らぬ振りで無邪気を装い、できるだけあの子に関わっているのが今のわたしだ。
ガイはそれに何も言わず、これまでと変わりなくしている。彼がノアを構うのは、時間の空いたときで、少し抱き遊ばせなどし、程なくわたしや乳母に返してしまう。
実にあっさりとしたその様子に、拍子が抜けるような物足りなさをひっそり感じてはいる。けれども、愛情の示し方など人それぞれで、ガイはそういうことが淡白なのかもしれない。長く一人を好んできた人であるし、騒がしいのが単純に厭わしいのだろう。
子を宿してから勝手に描いた父親像を、わたしはもう捨てるようにどこかにやり、彼のそんな振る舞い方に納得していた。ふと、自分を柔らかな粘土でできた人形のように感じた。ガイがわたしのどこかを指で押す。彼の目に不要に突き出たそこは、程いい加減でへこんでしまうのだ。
彼の腕の中で瞳を閉じながら、さっき見たハリエットの豊かな乳房を思い出す。ノアがその先を口に含めば、ほどなくあふれるように乳がにじんでくるのだ。あの子の小さな唇では追いつかず、それは彼女の着物をぬらすほどだ。
こんなことを思うのは、先の粘土の想像からかもしれない。ガイが要らないと押したのでもないのに、わたしの身体の突き出たその部分からは、子のためのあの乳が出ない…。
何となく指が、胸に触れた。夜着をくぐり、先に指を置いた。ボールをつかむように包み、力を込めた。どれほどかの後で、手のひらが少しぬれた気がした。手を引き、唇の辺りに持っていく。わずかに出た乳は湿しただけのもので、こんなものでは用をなさない。
「何をしているの?」
うかがうような彼の声に、はっとなる。自然としていた行いが恥ずかしく、顔を背け返事を避けた。ガイはわたしの唇に置いた手を取り握った。
何も言わずに胸のリボンを解いた。温かく大きな手がすぐに乳房を包む。わたしがしたのと似たように、けれど力を入れずに優しく弄ぶ。何をしていたのか、ガイは気づいていたのだ。
あ、と言う間に口づけられた。
「ねえ、お嬢さん」
少し残した窓のレースからうっすらとした明りが部屋に射している。彼と目が合う。ガイははだけた夜着からわたしの乳房に触れながら、「覚えているの?」と訊いた。
「え」
「あなたが僕の妻だということを」
「何?」
「放っておいても、僕はノアに何もかも奪われる身ですよ。こんなに早く、あなたまで盗られるのは堪らない」
彼の唇がわたしの乳房をやんわり噛んだ。言葉もその仕草も、わたしをたじろがせてしまう。遅れて、
「だって、ガイの子でしょ。おかしなことを…」
「何もかも奪われる」とは、ノアが嫡子で彼の後継者であることを指す。それにしても妙な言い回しだ。
「父と息子にはそんな相克があるんですよ」
言いながら、その言葉の終いは笑みがにじんでいる。どこかで彼もふざけているのだ。不意に始まった触れ合いに、わたしは恥じらいながらときめいた。
以前、こうしたときより随分と時間が開いた気がした。ちょうど先ほどノアがハリエットの乳房にかぶりついていたように、ガイが乳の出ないわたしの乳房にそうしている。おかしな相似に喉の奥で笑いが生まれた。
「何がおかしいの?」
脱いだガイの胸に触れながら、「だって…」と返した。わたしの答えに彼はやや黙る。気を悪くさせたのかと思った。
「ごめんなさい、変なこと言って」
「いや」
愛撫に温まったそこから、要らない乳がほのかにこぼれるような気がした。肌を彼の手がたどる。うっとりと、ガイにすべてを委ねていくわたしへ、
「思い出した?」
問いはさっきの話の続きだった。わたしがノアにばかり目が行っているという、ちょっとしたからかいだ。
ガイを忘れてなどいないのに。あなたの子だから、あなたとの間に授かった命だから、どうしても愛おしいのだ。
「あなたにこうするのは、僕だけでいい」
彼はわたしの胸に唇を当てる。ちゅっと何かを吸うような音がした。それはきっとわたしの乳だ。
「ほら、僕も可愛いでしょう」
そんなことを言う。おかしくて、でもやはり恥ずかしくて。わたしは言葉が返せない。「もう…」と意味のないことを言ったのみだ。
お互いの肌の温かさ、抱き合う心地よさに、ゆったりと溺れていく。今、抱いてくれる彼を嬉しいと思った。
「ガイが好き」
愛している。
この世界に来て、五年ほどが過ぎた。そこでわたしは幾つもの出会いと経験をし、彼の側にいる。見えなくても、つないでいるかのような彼との手はそのままでありながら、わたしは別に小さな手を携えている。
それがノアだ。
ガイとわたしとの間に生まれた、男の子。名は彼がつけた。




           

『さようならの先に』ご案内ページ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪
ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪