さようならの先に
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出かけた帰りだった。
ジュリア王女に招かれ、お茶をいただいてきたところだった。彼女のサロンには別な婦人方もおり、わたしは気疲れをしていた。
着替えに寝室に上がり、化粧室に入った。人を呼んで着替えを手伝ってもらった後で、ふとチェストの懐中時計を見た。日に何度か触れることもあるが、ノアが生まれてから意識が向かないことも増え、手にしない日もあった。
銀の表に刻印のあるそれを取り、ガイとは違い、手のひらに載せてから開けた。ガイはこれを片手で開け閉めしていた。非常にしなやかな手つきで、目が吸いつくように思ったものだ。振り返れば、あの彼の仕草がわたしの恋の始まりのかけら、とも言えなくもない。
アナログの時計が動くのがまず目に入る。蓋の裏側はいつものように曇ったガラスのようになっている。それを指でつるりとなぜた。何の気のない仕草だった。その後でハンカチで指の跡をぬぐう。そのとき気づいた。
曇りが晴れ、鏡に影が映った。いつからか、待ち望んでいた光景なのに、わたしは驚きに悲鳴に似た声を上げた。
まだ部屋にはわたし付きのメイドのアリスが残っており、ぎょっとした顔を向けた。
「奥さま、どうかなさいましたか?」
どう取り繕ったのか。懐中時計をぱちんと閉じた。やみくもに首を振り、もう少ししてから下に降りると言った。彼女が部屋を出るのを待ち、わたしは長椅子に腰を下ろした。
握ったままの懐中時計を再び開ける。やはりそこには影がある。目を凝らせば、人型をしたそれが、徐々に鮮明になっていくのだ。
わたしは息をつめ、その過程を見つめた。
どれほどか後で、影はくっきりとある人物になっていた。男性、もう年配で頭は白髪になっている。目を閉じ眠っているようだ。この時計越しに、こちらの声が聞こえる訳もないだろう。なのに、わたしは唇を手で押さえ、声をもらさぬようにしていた。
一心に見つめるその人が、不意に目を開けた。合わないはずのわたしの目を見ているかのよう。胸が衝撃にどきんと鳴った。
その後しばらくも見ていたが、彼は再び目を閉じて寝入ってしまった。蓋を閉じた。また開ける。それを繰り返し、わたしは立ち上がった。気持ちが騒いで落ち着かない。早くガイに会いたかった。
彼はいつ帰って来るのだろう。
ノアの子供部屋に行き、様子を見た。ガイにはからかわれるが、そうして夕刻まで長く過ごした。階下へ降りると、アトウッド夫人を見つけた。そこでガイの帰宅を訊ねた。
「先ほどご連絡があり、お夕食までにはお帰りとのことでございます」
思いがけず早くに彼に会えることがわかり、ほっとした。それまでの時間を、幾つか手紙を書くことで費やした。
書いた手紙を銀の盆に載せ、ペンを置いたところで彼の帰宅が知らされた。長く不在したのちの帰宅でもなければ、わたしは日々彼を出迎えることはなかった。そうしたことに彼は頓着せず、自由に振る舞わせてくれる。
しかし、この日は部屋を飛び出した。玄関から階段を小走りに降り、車寄せのアプローチで、執事のハリスが開けた車の扉から彼が降り立つのを待った。従僕に帽子とステッキを渡した彼が、わたしの姿に目を見開いた。ちょっと笑う。
「お嬢さん、どうしたの? 今日は僕の誕生日でしたか?」
「…お帰りなさい…」
彼はわたしの腰に腕を置き、歩を促しながら「どうしたの?」と再び問う。ハリスから何もないのだから、邸の嫌な事故や事件ではないと見当はつくのだろう。声にいつもの余裕がある。
わたしはそれに、「ええ…」と答えて、彼について邸に入った。
そのまま彼の手を引き、幾らか歩いて一番手近な居間に入った。そこは普段過ごす場ではなく、来客もない日は暖炉に火も入れない。さすがに掃除は行き届き、花も飾られ美しくはある。
照明の場所がわからず、壁を探った。程なく、ガイがぱちんとそれを点けてくれた。「ねえ、お嬢さん」。そうして、脇に手を入れ、わたしを抱き上げる。まるで猫のシンガポアにするようにするから恥ずかしい。
「どうしたの? 僕に何か許してほしいことでもあるの?」
「下ろして」
「ねえ、何か壊したの? それで機嫌でも取ろうとしているの?」
そんなことを笑いながら言う。まだここにきて間もない頃、そういうことがあったのを思い出す。確かわたしが書斎の陶器を割ってしまい、途方に暮れ、彼に泣いて詫びたことがあった…。
わたしには振り返りたくもない過去でも、彼には面白い思い出なのだろう。嫌なガイ。ごく幸せそうに笑う彼を見ながら、手で肩を軽くぶった。
「そうじゃないの、下ろして」
ガイがわたしを床に下ろした。衣装の裾が乱れ、手で払うように直した。それから、小首を傾げこちらを見る彼へ、手のひらの懐中時計を差し出した。
「映ったの。誰か見えるわ」
「え」
彼はわたしの手の時計を取り、滑らかに蓋を開けた。かちっと音を立てて開いたそれに、ガイの目が据えられるのを見た。瞬時彼の瞳は見開いた。しかし、間もなく伏せられ、ぱちんと時計の蓋も閉じられた。
「いつ?」
彼が懐中時計を自分の胸にしまうのを、不思議に思いながら答えた。昼下がりだった、と。ガイは返事をせずに、顎の辺りに指を置き考える風だった。
「ねえ、ガイ?」
彼の手がわたしの背に当たる。軽く押し、外へ促すのだ。「ハリスが探しているでしょう。僕たちがどこに消えたのか」
部屋を出れば、果たしてじきハリスと落ち合う。よろしければ食事の時間であるが、と告げに来たのだ。ガイは当たり前のように頷いた。
食事の時間は懐中時計の件については話せなかった。常に給仕の人目があり、ガイは彼らに下がるようにも言わなかった。ごくありきたりなことを話し合っただけだ。菓子を断り、わたしは立ち上がった。彼を見れば、のんびりとグラスの酒を飲んでいる。
いつもはここではワインの他、飲まないのに。今夜に限って食事の終盤に、ガイはウイスキーを飲んだ。
目が合う。わたしはきっとふくれているのだろう。彼はおかしそうに笑った。からから楽しげに笑い、立ち上がる。グラスを持ったままわたしを外へ促した。
書斎は火が残り、暖かかった。閉じたドアが開き、従僕がお茶を運んできた。そのわずかな間に、廊下の向こうから聞こえる訳もないノアの泣き声が届くような気がした。
暖炉から離れた長椅子にガイは掛け、わたしを誘った。隣りに座れば、彼はわたしの手を握り、空いた手でグラスを持つ。ゆっくり喉にやるのを眺めながら、
「迎えに行かなくてはいけないのでしょ?」
懐中時計に映った影の人物についてだ。ガイはかつて、あの鏡に映ったわたしをこちらへ迎えに来たと言った。そして、わたしをこの世界へ運んだあの深いブルーの列車を思えば、胸が少し痛いほど鳴る。
鏡の中のあの男性は、白髪が多かったが顔立ちや雰囲気は、わたしがいた国の人間に思われる。そのことにも強い興味があった。わたしがかつていた場所の人物だから、わたしが持つあの鏡に映ったのだとしたら…?
滅多にあることじゃないと彼は言った。彼だって数度経験しただけだと。一番近いものでわたしの約五年前になる。それ以前からの期間からと、どれほど開きがあるのか、ガイからは詳しく聞いていない。だとしても、彼の年齢を考えれば、亡き祖母から受け継いだ神秘的なこの役目のスパンは、妥当なのかもしれない。
前に彼は言った。鏡に映った人物をこちらの判断で無視してはいけない、それがルールの一つだったはず。
彼はグラスを置き、わたしを見た。
「そうしていると、あなたは本当に獲物を目にした猫のようですよ。これから僕が言うことが気に入らなければ、引っかくつもりでいるでしょう?」
どんな目で彼を見ていたのか、ちょっと恥ずかしくなった。気が急いてもいるし、変な緊張もある。ふと彼から顔を逸らした。
自分の存在意義を示すものであるのに、ガイとこういう話を深くしたことはないように思うのだ。一度あちらへわたしを返すことを告げた彼から、聞いたことはあるが、それはただ、彼の話を怖々耳に入れていただけのものだ。考えや意見などなかった。
彼が敢えて避けていた節もあるし、わたしも求めはしなかった。ガイの側にいられることのみが重要で、他に知識は必要なかった。
今もそれは変わらない。なのに、こうして鏡に影を宿した懐中時計を認めれば、心が静かではいられなくなるのだ。どうやって、かの地からわたしを含めた人々は訪れるのか? 何のため? 何を思って? 選ばれたその理由は?…
「よろしいですか?」
声に顔を戻せば、ガイがわたしへ煙草の火を点ける、いつもの断りだった。好きに吸ってくれて構わないと、いつだって思う。言葉にして言いもした。しかし、彼は必ず許可を取ってくれる。隔たりでもなく、それはガイの優しい癖なのだ。
わたしが頷けば、薄茶色の細い筒の先にすぐに火が灯る。これはガイが作らせている好みの煙草だと知ったのは、そう過去ではない。苦みや渋みなど、煙草の味わいを彼が選んで調合させ、それを業者が邸に届けているという。
もう目になじんだ彼の一部だ。不思議な懐中時計と同じように。
わたしは運ばれたお茶にようやく手を付けた。カップを皿に置いたとき、ガイが言った。「次の満月に」。そうだ。あの列車は、満月の夜を待って走るのだ。不意に、自分があちらで現れはしない列車の姿に焦がれ、満月を幾度も数えた記憶がよみがえった。
苦いそれを、彼の手に触れることでやり過ごした。
ガイは胸から懐中時計を取り出し、蓋を開けた。鏡を少し眺め、「もう十日ほどでしょう」。
なぜわかるのか不思議だった。ガイは月の満ち欠けを把握しているのかもしれない。
わたしはそんなことに意識も向けなかった。ただ鏡を毎日のぞいて磨いただけだ。自分がこの人物を迎えに行きたいと望むのに、こんなにも気構えが足りない。
「空を見れば何となくわかりますが…、ほら、見て。薄く光っているような気がしませんか?」
ガイが指で鏡を指した。鏡の明度が満月の近さを示すのだという。そう聞き、じっと見るがわからない。昨日とどう色が違うのか。
「お祖母さまがおっしゃっていたの?」
「いや、僕の勘です。感覚ですよ。祖母はこれを見なくてもわかったはずだし…」
そして、彼はこの人物のことを少し話した。年齢も高めで、環境が変わることを受け入れてもらえないかもしれない、と言う。
そういえば、彼はこちらに残った人を、わたしともう一人しか知らないと言っていた。「居心地の悪さか、または郷愁か。どうでしょう…」と。わたしのように、すべてを失くしたに近い者や問題を抱えた者だけが選ばれるのではない、とも。
「あなたには一々頼むことではありませんが、親切にしてあげて下さい。この彼がどう選択するのかはわからないが、優しくしてあげてほしい」
「ええ、もちろん。できることは何でも」
わたしには珍しくきっぱりとした声だった。自分でそれを感じ、ふと涙がこみ上げた。喉の奥が熱くなる。
ガイにはこんな話をしてもいい相手はいなかったはず。だから、誰にも告げずにわたしを迎えに来た。彼は他者と確認し合ったのではなく、当たり前に自分の意志で、わたしに優しく親切にしてくれたのだ。
あんな始まりから…。
それにどんなに自分が嬉しかったか、癒されていったかを、思い出してしまう。泣きたくなんてないのに。
いつも途方に暮れるような頼りないわたしに、一度だって彼が、意地の悪い目を向けたことがあったか。冷たい扱いを受けたことがあったか…。振り返る必要もなく、すべての瞬間、彼はわたしにただ優しかった。
あなたが優しかったおかげで、何の疑問もなく、わたしはこの世界を選べた。だから、今ここにいられる。
「おかしなお嬢さんですね、どうして泣くの?」
彼はわたしの肩を抱き、引き寄せた。彼の腕にもたれ、少しだけその優しさに甘えた。とめどなくなりそうな涙を、何とか抑え、ほんの側の彼を見た。
「思い出したの、最初から…。ガイはいつもわたしに優しかった。ありがとう、それが嬉しくて…」
「あなたはかわゆらしいハチドリのようだった。僕は思わず、ポケットに入れたくなった。あなたは知らないだろうけど」
軽口めかしてそんなことを言う。わたしの涙を指でぬぐってくれ、頬と唇にキスした。目を閉じてそれを受け、「まるで、煙草と懐中時計みたいね」と微笑んだ。
「彼が滞在する理由を何か作りましょう」
「どう言ったら、皆におかしく思われないかしら?」
「あなたの父親のフィッツ博士の縁者であるというのが、通りがいいか…」
「ええ」
ガイはわたしに、その旨をアトウッド夫人に伝えるように言った。わたしからの方が却っていいと。それに頷き、彼女の手を借り、あの男性を迎え入れる準備をすることを話した。
「まだ十日あるけど、十日しかないかしら…。居心地よく思ってくれるといいけれど」
「さっきも言いましたが、選択は委ねて下さい。促すのもいいし勧めるのもいいが、選ぶのは相手です。忘れないで」
「それは…」
わかっている、返そうとして返事に口ごもる。わたしは自分と同じ境遇の人間が現れることが嬉しいのだ。単純に仲間が増えるような気分でいるのかもしれない。
忘れてはいない。ガイが丹念にわたしの意志を確かめたことを。
「気持ちを決めるまで待つ。そして手助けだけでいい」
ぽんとわたしの腕を打つ。「わかるでしょう? お嬢さん」。
繰り返すのは、ガイは訪れたその人が、帰ることを選んだ場合、それが多いという、そのときのわたしの落胆を既に読むのかもしれない。
そうだ、妙な期待は止めよう。わたしにはその権限も力もない。ただ、出来る限り親切でありたい。そうしよう。ガイがかつて示してくれたように。
ひっそり決意し、わたしはガイへ目を上げた。
「…ねえ、ガイ」
あの、と言葉が止まる。迷いに、視線がちょっと下がった。彼の視線を感じた。息を吸い、それを吐き出すのと一緒に、
「わたしが迎えに行きたいの、いけない?」
返事の前に彼が短く嘆息するのが知れた。笑みをにじませた声が、「そう言うと思った」。
「ジュリア王女がいいのなら、わたしもいいでしょ?」
「ジュリア姫は特殊な方です。あなたも知っているはずだ」
声は優しいのに、許可するつもりのない意志が匂うのだ。気持ちが沈むのを感じつつ、でも、と言葉をつないだ。
「ガイはそうではないでしょ? お祖母さまから懐中時計を受け継いだから、でしょう?なら、わたしも…」
「お嬢さん、僕がいつ、あなたにあの不思議な役目を受け渡したの?」
彼の言葉に口ごもる。でも、ガイはわたしに懐中時計を委ねてくれた。好きにしていいと。わたしはそれを喜び、大事に眺めて暮らしていた。しかし、今、彼の言葉にそれを振り返れば、外に持ち出さないからと、宝物を借り受けていただけのように思えた。
確かにガイは、懐中時計について、わたしに何の約束もしてはいない。
彼にもたれた身体を起こし、俯いた。
「わたしではいけないの?」
ガイは返事に困るようだった。しばらくして、
「もし、あなたが迎えに行き、そのときあの彼がこちらに来ないと拒否をしたらどうしますか?」
「…わからないわ。わたしには」
首を振る。ガイが言うように、わたしは何も知らない。あの列車に乗り、迎えに行けば、それで完了するように思われたのだ。ジュリア王女だってそうしていたように見えたから。
「悪かった。嫌な言い方をしたね。怒らないでほしい」
ほら、僕をつねっても引っかいてもいいから。彼はそう言い、わたしの顔をのぞく。黙ったままのわたしの頭を抱き、
「拗ねているの? 僕がひどいことを言ったから」
彼の顎がわたしの結った髪に置かれる。自分を、気に入りのおもちゃを取り上げられてしょげた猫のようだと思った。それをガイになだめてもらっている。
彼の指がわたしの頬をなぜた。とても優しい仕草だ。そうしながら、
「あなたに咬みつかれても、これは譲れない。迎えには、僕が行きます」
はっきりと彼は言った。こんな風に、きっぱりとわたしに何かを突きつける彼は珍しい。気持ちが決して覆らないのを感じ、わたしは少し唇を噛んだ。自分では無理だとわかっているのに、物足りなかったのだ。




             

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