さようならの先に
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その日は、空はよく晴れて、気持ちのいい青空が広がっていた。朝にテラスへ出た際、風もなく心地のよい涼しさだと思った。
手紙の整理を粗方終え、ティーテーブルのポットからコーヒーを注いで飲んだ。まだ早い時間、書斎に入ったときからここにあったのに、カバーを掛けてあったため、まだ温かくおいしい。
アトウッド夫人が、昼食の献立を持って現れた。煮込み料理と魚のサラダ仕立て、他スープだ。それで構わないと、頷いた。
「ハリスさんが、お昼食には、旦那さまもお帰りになると申しておりましたわ」
「そう」
廊下へ出ると、従僕が二人、大きなスーツケースを運ぶのが目に入る。午後からの旅支度の準備なのだ。ガイは明日から、十日ほど邸を留守にする。
王子の後見役の軍絡みの任務で、遠方での野戦演習の視察に出ることが決まっていた。半ば形式的な定期の式典行事なのだそうだ。現地では兵のパレードもあり、お祭りムードであるともいう。
スーツケースを見て、やはりちょっと気持ちが塞いだ。こちらに帰って、まだたったの五日なのに…。
旅の準備自体は、従僕やメイドが行うが、最後にわたしが確認して蓋を閉じるのが、決まりのようになっていた。きれいに詰められたそれらのすき間に、嫌なにおいがつかないようにサシェを差し込み、煙草の箱を入れ、彼の読みかけの本を載せるのだ。
それは、昼食を終え、午後のお茶も済んだ頃のわたしの仕事になるはずだ。
ふと思いつき、アトウッド夫人について、調理場へ向かった。コック長のバーナードがいて、既に料理はほぼ仕上がっていると告げた。
「奥さま、後は盛りつけるばかりですが、何か変更いたしましょうか?」
わたしはそれに首を振り、内容はほとんど変えなくていいのだといった。「外で食べようかと思うの。だから…」
赤ワインの煮込みはリエットのように、つぶしてほしいこと。魚のオイル漬けはサラダにせず、薄く切ってほしいこと。つけ合わせの野菜やパンは、そのまま別に用意してくれればいいといった。
それだけでわたしの意図が読めるらしく、バーナードは頷いて用意に取りかかった。「ありがとう」
「給仕はどうしましょう?」
これはアトウッド夫人だ。「わたしがやります。ノアも連れて行くわ。中庭の辺りがいいと思うのだけれど、どうかしら?」
この提案に、あっけにとられた感のアトフッド夫人も、「ピクニックですよ、アトウッドさん。奥さまはそれをお望みだ」
バーナードの声に、ああ、と笑った。
「そうでございますね…。中庭は噴水があってよろしいですが、邸の影になり、お坊ちゃまには少しお寒いのでは? バラ園の隣りが芝も美しく、お昼には陽気もようございますよ」
それで決まった。
敷物を敷いた上に、バスケットに入れられた食材が置かれる。お茶のポットやカップ、皿やフォーク類、ナフキンが載るトレイに傍らに並んだ。
わたしはノアを連れ、外へ出た。ガイが帰るまで待つつもりで、子と一緒に芝生で遊んだ。
わたしが転がしたボールをよたよたと追いかけて、べたんと前にこけてしまう。外で転ぶことがなく、感触が怖いのか、泣き出した。「痛かったの? お顔を見せて」。
「大丈夫よ」
抱きしめた身体は、まだ切ないほどに小さい。顔をゆがめて泣きじゃくる様に、胸が熱くなるほど愛しさを感じた。
泣き止むのを待って、声をかけた。「パパはまだだけど、先に食べていようか? お腹空いたよね」
側に座らせて、彼のために小さなサンドイッチを作った。ゆでた卵を包んだそれを、手に握らせてやる。食べる真似をして見せると、口をつけてくれた。
「おいしいね」
咀嚼しながら、わたしを見て笑う。ひどく可愛い。魚のオイル漬けを砕き、細く裂いたパンで巻きつけた。中のオイル漬けだけ食べて、外のパンはぽろりと口からこぼしてしまう。
好みそうなフルーツを一つ二つ差し出すと。自分で手に取り口に入れる。
べたつくノアの手をぬぐってやっていると、そこへガイがやって来た。
「お帰りなさい」
わたしは彼の手を引き座らせた。お茶を入れ、彼に差し出す。「どうしたの? お嬢さんまでが、野戦演習のつもりなの?」。ジャケットのボタンを緩めながら、ガイが笑った。
ノアがフルーツをねだる。少し取ったものをナフキンに載せて、持たせてやれば、口に運んでご機嫌だ。
パンに野菜と煮込みと挟み、皿を添えてガイに渡す。「どうぞ、食べてみて」
膝に皿を乗せ、ガイがサンドイッチを頬張った。喉にやった後で、「おいしい」とわたしへ頷いた。
オイル漬けに卵を挟んだものを作って、今度はわたしが食べてみた。とても口にあったので、ガイにも食べてもらいたくて、同じものを作った。料理とは言えない簡単なもので、ままごとめいて楽しい。
ガイが食べるサンドイッチへ、ノアが手を伸ばす。人の食べる様子に興味があるのだ。「パパと同じサンドイッチ食べてみる? 作ってあげようね」
ノア用に、小さなワイン煮込みのサンドイッチを作った。やはり、わたしが食べる真似を見せてから、幼い手にそれを持たせてやる。食べなくてもいい。家族で同じものを食べているのだと、少しだけでも感じてくれるのならば嬉しいから。
ほんのりパンに口をつけて、横を向く。「じゃあ、ママに頂戴ね」。ノアの手をやんわり取って、自分の口にサンドイッチを運んだ。「おいしい。ありがとう」
わたしは、ぷっくりと弾む頬にキスをした。
食事に飽きたノアが、小さい子らしくあれこれに手を出す。欲しがるフォークの代わりは、デザートスプーンを手に持たせた。陶器のカップがつかみたいのならば、ロールパンの中身を繰り抜いたものを「あなたのカップ」と渡してやる。
「え、これがいいの? ノアのカップはいいの?」
わたしが手に持つくり抜いた方が気になるらしい。パンのカップは、なぜかガイに突き出している。「パパにあげちゃうの?」
受け取ったガイは、パンのカップを手に、苦笑している。「ねえ、お嬢さん、これはどうしたらいいの?」。
「食べないで。後でほしがるかも」
「…あなたは、いつからそんなに母親が上手になったの?」
「上手なんて…」
ふと、ガイと別れて過ごしたあちらの世界で、小さな子供に囲まれて日々を送ったことが、頭に浮かんだ。乳もやれず、ノアを産んだだけの母親のわたしは、あそこで母親になるほんの触りを学んだのかもしれない。
「あなたが、ノアに僕を「パパ」と呼んでみせるのが、何だか…」
「…嫌?」
「そうじゃなくて、ちょっと照れ臭い。そんな風に呼ばれる自分を、想像すらしたことがないから…」
ガイは言葉を途切れさせ、皿のサンドイッチを食べた。はにかむように目を伏せた。「こっちもおいしいですよ。ありがとう」
ノアがわたしの膝の上で、眠り始めた。「どれ、僕が代わろう」。ガイがわたしの膝からノアを抱き上げて、自分の片脚を枕にして寝かせた。ジャケットを脱いで、ノアに掛けてやっている。
温かい日差しの中で、お茶を飲み、簡単なサンドイッチを食べながら、寛いで過ごす。今を、とても豊かに思った。
明日は何時頃に出立になるのか、そう問おうとして、止めた。後でいい。午後のお茶の時間でも、夕食の時でもいつだっていいのだ。
食事の後で、ガイがそのまま寝転んだ。腕を頭の後ろに組み、「止めにしました」という。
「明日の演習行きです。行かない」
「え」
急遽そのような予定になったのだろうか。わっと心が浮立つが、口にするのは理由がわからないままでは憚られた。邸へ目をやる。「…そうなの。早く誰かに言わないと。準備を始めてしまうわね」
「ハリスには伝えたから、あなたは放っておけばいい」
「そう」
「嬉しくないの? 夕べは泣いていたのに…」
「それは…」
ガイは顔を向け、わたしを見る。
帰って来て翌日には、わたしは、ガイからこの旅の予定を聞かされていた。途端に胸が重くなったのを覚えている。
たった十日…。自分にそう言い聞かせ、そのことを頭から追い出すようにして、今日まで来た。このままごとのような昼食だって、気晴らしを求めての発想に違いない。
夕べ泣いたのは、ガイが遅く、寝室に一人でいて、不意に抑えた寂しさがこみ上げてきたからだ。
まだ長い別れが終わっていないかのように。ふっと中断していただけのように。そんな錯覚が襲い、感情が揺れ惑った。
努めて涙は堪えなかった。そうして気持ちを外に出すのが、胸に風が通るようで、心地よかったから。ひとときの激情を、それでやり過ごそうとしていた。思いの外長く続き、帰宅したガイにも知られてしまった…。
「…わたしが泣いたから? それで、行くのを取り止めてくれたの?」
「そうだったら、嬉しいの?」
ガイが目尻にほんのり笑みを浮かべる。いつものわたしをからかう冗談のような口調だ。否定しないまま、彼が言う。「僕がその気になれなくて…」
今朝も彼は、明日からの視察の件で軍に出向いていたのだが、そこで予定をキャンセルしてきたといった。こんな急な予定変更は、彼にはとても珍しい。
地位のある彼の行動は、多くの人を巻き込む。今回の視察であっても、大勢が携わり、長く練られた計画であろうに…。
そんなことを、彼が知らないはずがないのだ。彼の身勝手な翻意に、わたしが戸惑った。
ちょっと冷たいほどに、自分を律することに慣れた人だ。わたしの涙などでは、彼がそれを曲げることなどない。
ふと、心配になり、彼の頬に手を置いた。指の背でなぜる。「具合が悪いの?」
「いや。至極元気ですよ。表向きは、体調不良でとても長旅に耐えない、となっていますがね」
小さくあくびをもらす。「長の演習視察には、去年も行ったし、一昨年も行っている。僕は飾りものなのですよ。しかも、そんな飾りを見るのを誰も喜ばない。恋しがってくれるのは、お嬢さん、あなただけだ」
「まあ」
「それでも、飾りには飾りの意味がある。…少し、そのあり方を考えたいのですよ。王子の名代で行うものと、僕の名で通す場合の二つがあって、重複することも多い。いかにも無駄じゃないですか」
ガイがそこで身体をおこした。「ナフキンを」と、手を出す。彼へ渡せばそれに、ベストのポケットから取り出したペンで、立てた膝を台に何か書きつけている。
それを眺めながら、彼は考えがあって、今回の視察をキャンセルしたのだとわかる。出席しないことで、彼の中で重複する「無駄」が浮き上がるのかもしれない。
書き終えた後で、わたしへ差し出す。粗い字がナフキン一杯に流れていた。少し目で拾うと、それが欠席した演習視察での閲兵の挨拶文だとわかる。わたしへ、清書して他の手紙と一緒に、彼の名で出してほしいといった。「あなたは、僕より巧く僕の字を書く」。
「模擬野戦の勝利側には、僕から何か贈ることにしましょう。本部からメダルと剣の下賜はあるから…」
「…ワインの樽を幾つか…、どうかしら?」
「そうですね、それを添えて下さい」
彼のペンを借り、ナフキンの余白にメモした。
「ありがとう」
彼の指が、わたしの垂らした髪をすくう。ガイは、わたしが髪を下ろすのを好む。だから一部を結うことや、まとめ上げるときも、髪が両の耳に辺りで緩く輪を成すように結うようにしていた。
わたしの髪から手を外し、代わりに手を取った。唇に運び、指を当てる。「そう、あなたは、僕にもう一度妻に選んでほしいと言ったでしょう?」
彼の言葉に、わたしはある夜を思い出し、羞恥に顔を背けた。鮮やかにそのシーンが甦る。自分がどう振る舞ったか、ガイがどう応えてくれたか…。
「なら…」
指の違和感に背けた顔を戻す。
「え」
わたしは、彼に贈られた伝来の結婚指輪が指のサイズに合わず、直すのもためらわれ、それを中指にはめていた。その隣りの薬指に、新たなリングが納まっているのに目を奪われた。不意に現れたそれは、銀の華奢なもので、けれども中央部分に花の蕾のような石が、幾つも華麗に輝いていた。
「どうして?」
「僕も新たに贈りたくなった」
ガイはリングの手を取りその甲に口づけた。そして、囁くのだ。
 
「僕はあなたに、変わらぬ愛情と誠実を奉げる」
 
二度目の誓いの言葉は、わたしを再び彼の花嫁にする。嬉しさにはにかんで、彼への思いに胸をときめかせるのは、あの頃のわたしではない、今のわたしだ。
「ありがとう」
「あなたとノアが、僕に属していることを奇跡のように思う。お嬢さん、やはり、あなたは僕に何もかもくれる。愛情も、幸福も、優しさも、美しさも…」
「ガイ…」
言葉の代わりに、浮かぶのは涙だった。瞳をあふれ頬を伝う。ガイの指が涙をぬぐってくれながら、わたしを引き寄せた。ちょっと笑う。「指輪の石が小さかった?」
「嫌なガイ」
以前と同じはず。なのに、同じ言葉がより重く胸に響く。
彼に選ばれた、その喜びだけに酔ったあのときのわたしは、彼の言葉を咀嚼もせずに、ただ聞いていたに過ぎない。
まるで、希有な幸運がわたしに降り注いだかのように、ありがたがっていただけなのだ。わたしが出来る術で、彼へ喜びを差し出そうと、一心に思い決めていた。それなのに、何が、彼を幸福にするのかすら、考えずにいられた。
わたしは、子供のまま彼の妻になってしまっていたのかもしれない。
ふと日が陰った。風が冷たさを増した気がする。「中へ入りましょう」。わたしの声に、ガイがノアを抱き、立ち上がった。
落ちた彼のジャケットを拾い、腕に抱えた。それで、わたしは彼に少しだけ遅れた。すんなりと伸びた背を目で追う。彼がふと振り返った。わたしへノアを抱かない方の手を差し伸べる。
自分の手のひらを彼のそれに重ねながら思う。素直に、そのままを見つめればわかること。
わたしがガイを幸せにしている、と。
 
 
 
 




長らく物語におつき合いをいただきまして、まことにありがとうございます。



             

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