さようならの先に
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ガイはちょっと目を見開いた。「どうして?」
初めから、ガイと銀の懐中時計は、密接につながっていたのだ。彼が懐から出し、何気なく蓋を爪で弾くように開ける…、滑らかなその仕草を、わたしは見つめ続けて来た。それはガイの一部に他ならない。
彼が髪をかきやる、顎に指を置く…、それらと何ら変わりがないのだ。ふと、彼の癖を思いつく。ガイは脚を伸ばすばかりで、組むことはしない。今もオットマン代わりに一人掛けの椅子に足を乗せ、長く伸ばしている。
「あなたと一体なのだもの。なぜ脚を組まないの? とは訊かないわ。組まないのね、と思うだけ」
ガイは笑った。「敢えて問わなくても、あなたは気づいていたようだ」
「え」
「何代か前のアシュレイの当主が、これを手に入れたと聞きます。経緯は定かではない。見知らぬ旅の者を泊めたその礼とも、借金のかたともいう。とにかく、我が家に伝わるようになった…」
「誰かを迎えに行かれたのかしら…」
「影が見えなければ、あの列車を呼べないでしょう。受け継いだ者が皆、見えた訳ではないというから、何代かは、楽をして過ごした者もいるらしい。僕などは、オーバーワークが過ぎるというのに」
「じゃあ、ノアは楽ができるのかも」
「あなたも適うから、見えるのじゃないかな。そうであれば、あれには、まず覚えてもらいたい家業ですよ」
「まあ」
「…この懐中時計が伝わった当時です。その頃アシュレイの家は、爵位はあっても並みの貴族で、今のような家格の高い家ではなかったらしい」
「そう…」
「それが、何かがあふれ出したように」家運が上昇し出したのは、懐中時計を手に入れてからなのだ、と彼はいう。わたしは相槌も打てず、彼を見つめるばかりだ。
あるとき、領地から希少な鉱石が大量に発掘された。彼の先祖に当たる当主が、それを元手に、投機で莫大な富を築きもした。他、銀行に多額を出資し、今もその高額な配当が入り続けるのだともいう。
令嬢が王宮に入ることも増えた。ガイの祖母の代では、すっかり権門としてその地位が社会に定着してしまっていたという。
「エドワード王子とジュリア姫のお母上は、僕の叔母に当たる方で、あなたも存じ上げているでしょう。こんなケースは、以前にもあるのです」
この家が王室の外戚であるのは、わたしも知る。そうであれば、政治に絡んだ権力を持つのではないかと思うが、ガイがそのようには見えない。それを問えば、彼は逆に訊く。
「あなたはそういうパターンを知っているようだ。どう、国の乱れの素ではなかった?」
「…ええ、そうね」
「こちらでは、外戚となった家は制約を受けるのですよ。政治への介入は、その最たるものです。令嬢を王室へ入れるメリットは、名誉、そのことのみだ」
そこで、不意にガイは、ある有名な鉱泉地の名を出した。わたしも耳にしたことがある土地で、非常に風光の明媚なところから、シーズンを通して繁華な療養地、社交地として名高い。
「我が家の地所ですよ。知る人は少ないですが」
「え」
「その地代や租税による収入は、月だけで、僕の大学からの生涯報酬など、足元にも寄らない。…そう、あなたは行ってみたい? 人の少ない時期に、連れて行ってあげようか。お嬢さん、あなたの土地だ。せいぜい威張って過ごせますよ」
「威張ったりしないわ…」
「わかってる」
ガイがわたしの頬を、笑みながら指の背でちょんと突いた。「これらをアンが知っていれば、この邸に居座り続けたでしょうね」
「止めて、嫌よ」
「そうだね、口にすべき名じゃなかった。申し訳ない」
わたしは彼の手を取り、話を促すように握った。彼が何を語るのか、その先が知りたいのだ。
「…あの列車とつながるこの懐中時計は、富の鍵なのだと思う。初めてこれを手にした僕の先祖は、その意味を知らなかったでしょう。しかし、受け取ったことで、ある契約がなされた。あの列車で人を運び続ける…。それを請け負う代価が、注ぎ続ける富なのじゃないかと、僕は理解している」
そう語った後で、ガイは、だからわたしは正しい、という。「家名を守り受け、然るべき次代に引き渡す義務を、僕は叩き込まれて育った。アシュレイの家で、それが能う当主が果たすべき義務は自明だ。僕は、あの懐中時計と確かに一体と言っていい」
ガイの驚くべき話は、そう着地する。
ふと、以前相馬さんが、ガイやその祖母、そしてジュリア王女もひっくるめて、「不思議一族だな」と断じていたが、まさにそれに尽きる。
でも、今はそこに自分も含まれていることを、わたしは強く感じる。「ねえ」とガイの顔を見上げた。
わたしは、ガイのようにあの列車に乗れない。その代わりに、彼を手伝いたいと言った。「不思議な家業なのでしょう。わたしも出来ることはしたいの。いつか、相馬さんが言っていたみたいに、ほら、「宿屋の女将」になるわ」
ガイが瞳を細めてわたしを見返す。「ありがとう」。
「そうだね、それが僕たちの役割分担だ」
ちょっと黙った後で、ガイが金の時計を手に取った。「僕が脚を組まないのを、お嬢さんはそのまま認めたでしょう。それでいいのかもしれない。理由も因果も何もかも、そうあるのだから、あるがままでいい、これが全てなのかもしれない」
彼の手のひらで、金の懐中時計は蓋が開き、割れたガラス面が露わになっている。
「僕が、答えの出ないまま考え続けて来たように、祖母もその不思議をきっと思ったでしょう。だから…」
「なあに?」
「これは、祖母が壊したのではないかと思う」
ガイの指は、割れたガラス面をなぜている。わたしは驚いて彼を見た。「どうして?」
「周期なく現れる影を、無視してはいけない。映った人物を迎えに、あの列車に乗らなければならない。別の人物を伴ってはいけない…。タブーばかりだ。それを破ればどうなるのか…。僕だって幾度も考えた」
「え」
けれど、それは不可能だ、と彼は言った。「結果は想定不能で、もしかしたら相手の生死にかかわる事態もありうるでしょう。だから、懐中時計なのだと思う。試したくなる気持ちは、よくわかる」
「鏡は、割れていないわ」
彼はそこで立ち上がった。それで、膝の金の懐中時計が床に滑り落ちる。慌てて拾った。
ガイは何かを探す風に辺りを見回し、生花の温室へのドアを開けた。中に入り、姿を消した一瞬の後に戻って来る。手に何かを持っていた。大ぶりなハサミだった。
「それを」
わたしが金の懐中時計を渡すと、彼が床に片膝をついてかがみ込む。その目的がわかり、怖くなる。彼が時計にハサミを振るうのを見ていられず、わたしは顔を背けた。
耳に金属的な音がした。幾度か続き、それが止んだ。顔を戻せば、ガイが立ち上がっていて、懐中時計を検めていた。
すっとわたしへ差し出す。「鏡が割れない」。ガイが指からハサミを床に落とした。がちゃんと派手な音でそれが落ち、少し離れたシンガポアが、飛び起きて逃げ出した。
ガイは何度もハサミの切っ先で、鏡を打ち付けたはずだ。それなのに、鏡は割れるどころか、傷一つついてはいないのだ。
割れることのない鏡の代わりに、祖母は時計を壊したのだろう、とガイはいった。
ガイの指からするりと金の懐中時計は床に落ちる。ころんと転がったそれを、わたしはハサミと共にまた拾う。興味を失ったものへの頓着のなさが、彼らしくもあっておかしい。
ガイは顎に指を置き、考えていた。ちょっと辺りを歩き、ふと、胸元から銀の懐中時計を取り出す。
それへもまたハサミを振るう気なのかと、わたしは唇に手が行く。「止めて」と、思わず声が出た。
「ああ、そんな無茶はしません」
ガイがわたしの隣に再び座った。「これは」と、銀の懐中時計をわたしに示す。「金が壊れたから、これが新たに現れたのじゃないでしょうか」
「え」
「懐中時計を壊すことなどでは、契約が止むことはない…」
意味がわからない。
「鏡だけでなく時計にも、何らかの意味と作用があるのでしょう。そう、…鏡があるビーコンなら、時計はそれを受けて列車を制御しているのかも…。いずれにしろ、一体に機能しなければ、正しく用を成さない」
今回、わたしを迎えに来てくれたガイは、金の懐中時計を使った。その結果、満月に列車が呼べず、次元の出入り口は小さく変わり、激しく梯子は揺れていた。到着地も定位置の駅ではなく、大学に変わってしまった…。
それらは、時計が壊れていたから?
ガイが指すように、時計が列車をコントロールしているとしたら、合点がいく。
そして、金銀の懐中時計は対なのではなく、新旧なのだとしたら、確かにふに落ちる。なら、これは一体…。
「…どこからやって来るのかしら?」
ちょっと黙った彼が、顎を動かし何かを指した。「そう…」。彼の視線の先にはシンガポアがいた。並んだ植物の鉢の辺りから、またのっそりとこちらへ歩いてくる。
その背に、何か載せているのが目に見えた。何だろう。わたしは立ち上がり、彼女の前でかがんだ。シンガの毛の黒の部分にちょうどそれはある。
手に取れば、黒い左手の手袋だった。それは、ガイのものだ。彼がどこかで片方を落として、それきりになったものだった。
ガイにかざして見せた。どうして、こんな場所にあるのだろう。この温室で、彼が手袋をしていたためしなどないのに。
彼は目の端に笑みをにじませる。
「そんな風に、思いも寄らないところから現れる、のかもしれませんね」




             

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