月のあかり
10
 
 
 
司が、花と一緒にわたしにくれた言葉には重さがなかった。
それはたとえば、「ちょっと出かけよう」とか、「煙草、見なかった?」といったようなささいな問い掛けにどこか似ているのだ。
ときに指を絡め、ときに抱き合って、そしてときに何時間も話さないときもある。
そんな二人の日常が、いつしかわたしたちの中の空気になっていて、その中に、思いがけない重みのある言葉は不似合いなのかもしれない。それが、わたしへの誓いに似た言葉であっても、彼の気持ちの深さであっても。
驚くほどあっさりと「結婚」を口にする彼が、わたしとの未来を、当たり前に描いてくれているのだとしたら、それだけでいい。
「美咲しかしない」。
司のその言葉を噛みしめるだけで、胸が嬉しさにあふれそうになるから。
わたしにも、あなたしかいない。
司しか、いない。
彼のくれた白のデルフィニゥムは、水に挿し、家の中で日を経て色褪せていった。わたしはそれを捨てられず、花の部分だけを取り小瓶に詰めた。
 
 
配達から帰ったオーナーが、空のバケツを脇に挟んだ帳簿と一緒にわたしに渡した。
わたしはバケツの水を捨て、軽く中を洗っておく、それを店の隅に伏せていると、オーナーの声がかかった。「美咲ちゃん、変なことを訊くようだけど…」
彼はレジ前のスチールの椅子に掛け、顎の辺りを掻きながら、「お宅、またお兄さんの件で、テレビに出るの?」と問う。
この店では、これまで兄や両親に絡むことは、一切訊かれたことがなかった。一度雇われる際に、確認の意味で軽く念押しされただけだ。
不意の意外な質問に、わたしは思わず頬が強張った。とっさに何かあったのかと感じたのだ。
「どうかしました?」
「いやね、家内には黙っとけって言われたんだけど、やっぱり知っといた方がいいと思って言うんだけどね」
オーナーはちらりと奥の方へ視線を向け、様子をうかがった。台所仕事を済ませたいと、一時下がった奥さんが立てる水音が聞こえる。
それを確かめたのか、ちょっと唇を舐め、「いやね…、この間君が帰った後で」と、オーナーが話し出した。
二日ほど前のことになるという。わたしが店を出た後で、客を装い、さりげなくわたしのことを尋ねる男がいたらしい。
「花も買ってくれたし、お客はお客なんだけど、ちょっと様子が違ったんだよ。『ここの店にいる若い娘さんは、神部美咲さんですか?』って訊くから、それだけは「そうですが」と答えておいたけど、『いつからこの店にいるのか』、『誰かの紹介か』と続いたから、これは変だと思って、それ以上は何にも言ってないんだよ。背広を着た勤め人風の男が、昼に花を買いに来るのもちょっとおかしいしね」
聞きながら、わたしは視線が下がり、うつむいていた。自分のスニーカーの先を眺め、「すみません。ご迷惑を掛けて」と詫びた。
「いや、迷惑なんかじゃないんだよ。ただ、前にも何度かお宅は捜索のテレビに出ていたから、それの調査かなんかな、と思っただけのことだよ。きっとそうだろう」
そういえば一月ほど前にそんなことがあった。連絡もなく店に現た強引な取材だったから、彼らがあきらめていないのだとすれば、ここへやってきたのもうなずける。
わたしがもらしたため息にかぶせるように、オーナーはひとり言のようにぽろりとつないだ。
「うちにも大して出来もよくない娘がいる。それでもやっぱり可愛いもんだ。もし、あれに何かあったら、親としてうちもきっと死に物狂いになるだろうと思う。外聞も何も構っちゃいられない。何でもしたくなる。親なら誰だってそう思うだろう」
だから、新興宗教に走り、捜索番組に懲りずに出演したがる両親の気持ちがわかると言いたいのだろうか。当然のことだと、言ってくれているのだろうか。
わたしのため息が、テレビに取り上げられることを恥ずかしく、嫌がっていると見えたのかもしれない。そんな気持ちでいることはないと、暗に諭してくれているのかもしれない。
そのオーナーの言葉に、思いやりと優しさを感じる。こういう夫婦だから、わたしを雇うことをためらわなかったのだろう。ありがたいと思う。こんな目で見てくれる人もいるのだと、嬉しくも思う。
当たり前にそう感じはする。けれど、それは神部の家の外側への慰めでしかない。
兄が消え、十五年の月日が流れた。その中で失ったもの、壊れたもの、それがための思い。そんなものらが幾つもあり、絡まってしこりのような凝ったものになってしまっている。
それは、両親とそしてわたしにしか見えないのだ。もしかしたら、司だけは感じてくれているかもしれない。
奥から足音が近づき、それにオーナーは声をひそめた。いつの間にか水音も消えている。
「家内なんかは、きっと美咲ちゃんがえらい資産家にみそめられて、若奥さんに迎えるその調査なんだと言ってきかないんだ」
最後に彼はそう笑い声に紛らして話を終えた。
わたしは「まさか」とそれに笑って答えた。
奥さんが店へ顔を出し、わたしは言いつけられた用をこなす。その最中、先ほどのオーナーの軽口が引っ掛かっていることに気づいた。
「あ」
もしや、と思う。
けれど、言っていたではないか。不意に司の前に現れた彼の実父の秘書を務めるという新田氏が、わたしを胡乱気な目で見ていた。
そして「調べるのは造作もない」と言っていたのだ。
わたしは店を終えた後、何となくそのまま足を実家へ向けていた。気持ちがどこかざわめいたのと、オーナーの言葉に、後ろめたさを持ったためかもしれない。
見慣れた筋を通り、目を瞑ってもわかる商店街の並びに、両親の営む『サンサン弁当』はあった。新しいメニューが出来たのか、店のガラス戸にポスターが貼られ、幟がはためいている。店先に置いたプランターの花は萎れていた。母が水をやらないのだろう。料理などは得意であるが、植物などにはあまりまめな性質ではない。
はっきりと曇りの見えるそのガラス戸の奥に、父の姿を認め、わたしは歩を前へ進めていた。会うつもりはなかったのに、自然と身体は店に前に立ち、そしてガラス引き戸を引いていた。
わたしの姿に、店番の父が立ち上がった。広げていた新聞をカウンターに置き、「どうした?」と問う。
「通りかかったから」
簡単にわたしは、今仕事をさせてもらっている花屋のことを話し、「お母さんは?」と訊いた。
父は顎で奥を指し、「呼ぶか?」と言う。
わたしは首を振り、カウンターの中に入った。その足もとには以前わたしがここに立っていたときのように、ジョウロが隅にある。それに水を満たし、店先の花に水をやった。
そのわたしの背に、父は「何かあったら、いつでも帰って来い」と声をくれた。その言葉は、わたしに小さくない動揺を与えた。
「…うん」
わたしはうなずき、何でもないように空のジョウロを父に返した。
「ちょっと顔を見に寄っただけだから、…行くわ」
「そうか」
「じゃあ」とそのまま身を返し、いつもより早足で歩く。歩きながら、なぜ会いに行ったりしたのだろうと悔やんだ。
唇を噛み、目にたまりつつある涙をやり過ごそうとし、瞬きを繰り返したことが、却って涙をあふれさせた。
視界をにじませ、ほろりとそれは頬を伝った。
初めて父を憎いと思った。
どうして今頃、あんな優しさを見せるのだろう。『何かあったら、いつでも帰って来い』。どうしてあんな言葉が、今更言えるのだろう。
これまで、わたしが辛かったとき、一言も口にしてくれなかったのに、どうして今になって……。
いなくなって、やっと娘の存在に気づいたのだろうか。それで思い出した?……。
自分の中の黒々とした思いに、はっとする。けれども、その思いを敢えてきれいに取り繕ったり、消そうとも思わないのだ。
腹立ちや怒りの底で、やはり両親の幸せを願う自分がいるのを、わたしは知っているから。
それで救われている。
 
 
いまだ顕微鏡に向かう残りの仲間に帰りを告げ、僕は研究室を出た。
人気の少なくなった研究棟のフロアから、薄い試薬の薬品臭と金属臭がする。嗅ぎ慣れたにおいであり、僕のどこかにもそんなにおいが染みついているのではないかとも思う。
階段を降り切ったところで、不意に声がかかった。「一ノ瀬」と呼ぶその声は、僕の所属研究室の助手を務める人のものだ。足を止め、声の方へ目を向けると、裾の汚れた白衣をなびかせ、こちらへ早足で高階助手やってくる。
一瞬、面倒な実験でも頼まれるのかと、少しげんなんりとなった。彼は学生使いが荒い。上にまだ学部生も残っていたことを頭に浮かべ、そうであれば、彼らに適当に振り分け、押し付けてやれと考える。
高階助手は、まとまりのない髪をかきながら、意外なことを告げた。僕に、電話がかかっているのだという。
それは事務室あてにかかり、たまたまその場に居合わせた彼が、研究室に戻るついでに僕にそれを告げにきたらしい。
訝りながらも礼を言い、僕は正面脇の事務室に入った。帰り支度の見知った職員が、僕に保留のままの電話を示した。
「じゃあ、悪いけど、後で消灯して、鍵を閉めて戻しておいて下さいね」
最後の仕事にそれを言い、彼は帰っていった。
スチールデスクの並ぶ明かりを絞った事務室内で、相手を待つ電話が、保留のランプを点滅させている。
きっと把握しているだろう研究室の番号にかけず、敢えて事務室にかけてきたのか理由がなぜか、わかるような気がした。
居留守を使うか何かして、上ではきっと僕は出ない。多分それを考えたのだろう、だから、人を介し、離れたところへ呼び出すのだ。どうでも、受話器を上げさせるために。
この回線の先の人物など知れている。こんなことを深読みするのは新田だろうが、実父が出るのではないかとも思う。
結局、意志に関わらず、引き出されるように電話の前に立たされている。その苛立ちと、そこまでして今更何を僕に告げたいのかと、ふっと湧く興味が、受話器を上げさせた。
「はい」
僕の声に、『お出になりました』と新田らしい男の声が聞こえた。その様子から、実父につなぐようだ。
ほどなく、耳に『司か?』と声が届く。
低いそれは、電話回線を通して更につぶれ、微妙に色合いを変えている。テレビのニュースなどでは、彼の声は甲高く響くときもあるのに。
「何の用?」
『就職が決まったそうだね、おめでとう』
僕はそれに返事をしなかった。おそらく調査済みだろうと感じてはいた。だから、彼がそれを知っていることに驚きはしない。
けれど滑稽なのは、僕が内定を得たのは去年の話だ。
『君がこちらに電話をくれなかったことを、責めるつもりはない。新田の告げ方も悪かったのかも知らん』
それに和すように、『先生、それはひどいですよ。お目にかかってちゃんとお伝えしました』と、合いの手のようなおどけた新田の声が混じる。
僕の指がフックに触れていた。ちょっとだけそこへ圧力を加えれば、この面白くもない通話は終わる。
『なあ、話がある。重要な話だ』
その湿った声に、僕は声を出さずに少し笑った。権力を持った人種は、自ら告げる言葉にはさも特別な意味でもあると、信じて疑わないのだろうか。
『重要』なのは彼にとってだけであって、僕には何の重さもない。いつそれに気づくのだろう。どうでもいいことであるけれど。
僕が返事を返さないでいると、不意に何を思ったのか、奇妙なことを口にした。
『今年、千賀子の命日に墓参りへ言ったとき、君の姿を見た』
「え」
『若いお嬢さんと一緒だったな。ガールフレンドか?』
嘘だと思った。分刻みのスケジュールをこなす彼が、そんなセンチメンタルな行事を行う時間などない。意味を見出す訳がない。新田など適当な側近に墓参の代理をさせているはずだ。その知らせを受けたに過ぎない。
僕の気を惹くため、その場しのぎのでまかせをしゃあしゃあと告げるその厚顔さに、僕は舌打ちをした。
それは受話器の向うの彼にも当然伝わったはずで、鼻白む様子の沈黙が返ってきた。知るか。
フックの指へ力を加えかけたとき、また声がした。
『話がある。君にとって、決して悪い話ではない』
「それはあなたの側の判断でしょう?」
それには意外な返事が返ってきた。
『頼む』
それに僕は図らずも絶句した。キャリアのある政治家なら、こんなことを口にするくらい容易い。相手の心を左右するために、ためらいなく言うだろう。
そんなことは、経験と肌で知っている。この男は、母が自ら命を断ったあの夜、保身に走り、スキャンダルを恐れ、関わることを避けて逃げた男だ。
何を……、今更?
『頼む』
繰り返されえたそれに、僕はやはり言葉を失うのだ。母の死から七年。金だけが僕と彼をつないできた。会うこともごく稀で、それ以上でも、それ以下でもない。
憎しみは薄らいだ代わりに、ほのかに抱いていたはずの『父』という影も消えた。
なのに、なぜ?
育ちか環境か、彼の言葉の語尾にやはり傲然とした臭いが鼻につく。この男が、かつて僕や母に己の弱さを見せたことがあっただろうか。
『会いたい。会って話がしたいんだ』
不遜な語尾にやや震えの混じるのを、きっと僕の感覚の一番鋭い部分が捉えた。
その、見せない弱さをのぞかせた男の顔に興味を感じたのは、僕の可虐性だろう。一瞥し、その憐れな様を目に捉えてみたいと思った。嗤ってやりたいと思った。
そして、何を僕に今更話したいのか。その理由への好奇心と。
何度目かの男の懇願に、僕は短い返事を告げた。
「わかった」と。
それだけを言い、相手の息を飲む気配もうるさく、指のフックに力を入れた。



          

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