月のあかり
9
 
 
 
雨上がりの宵に、美咲が花火をしようという。
専ら寝室にしている十畳間から隣りの続き部屋には、庭に面した縁側があった。そこに水を張ったバケツとコンビニで買った花火を持って、二人で掛けた。
ガラス引き戸を開けると、湿ったそれでも冷えた空気が流れ込んでくる。僕は煙草をくわえ、彼女の手の花火に火をあげたついでに煙草に火を点けた。
ぱちぱちと火薬が色鮮やかに小さく燃え、儚く落ちていく。
互いにそれを見ながら、何かどうでもよいことを口にしながら、二本三本と線香花火を消化していく。僕は彼女の横顔にときに目をやり、寛いで見える頬に浮かんだ笑みが、会話の切れにはすぐに消えてしまうことに気づいていた。
まるで花火のように。
最後の線香花火を、どうしてか、彼女は僕に渡した。「火を点けてあげる」
僕の手の中の花火は、瞬時燃え、あっけなく炭になっていく。
それをバケツの中に落とし、僕は庭に出てその辺にぶちまけた。手のバケツも転がしておく。美咲がそれに文句を言った。
「花火くらい除けたらいいのに」
彼女が転がったバケツを軒下の水場に伏せて置いた。なぜだか、僕はその何でもない行為が気に入らず、つっかけたサンダルの爪先でそれを蹴飛ばした。
「あ」
「去年の花火も、その辺に残っているんだからいいよ」
まるで言い訳のようにそんなことを口にし、彼女の手を取った。何か言いたげで、何にも言わない彼女の顔がすぐにあり、僕はそのまま唇にキスをした。やんわりとした重なりに、強引に舌を滑らせた。
どうかしている。
先日不意にやって来た、実父の使いの新田という男。彼は母と実父をつなぐパイプのような役割をなしてきた。訪れる段取りをつけ、ときに母子のために金を手配し、面倒を処理した。
母が亡くなってからは、僕と実父をつないでいる。年に一度、使い切れない額の固まった送金があり、その際に、新田はごく短い挨拶の電話を寄越す。それだけだ。そのつき合いも、僕が大学を終え、扶養の義務を全うしたのならば、消滅するのだろうと漠然と考えていた。
それが突然現われた。しかも、実父が僕からの電話をほしがっているというのだ。
意味ありげに、さも重要な件であるようにほのめかし、新田は帰っていった。互いの生活が交わりもしない、ただ遺伝子上の親子に過ぎない僕と緒方恭一に、どのような重用事があるというのか。
無論、電話などしていない。
美咲は新田を見ている。あの場に居合わせたのだ。彼女は彼の残した名刺を眺めていた。何も言わず、僕に渡しもせず、状差しにそっと入れた。
それきり何も問わない。
僕が言い出すのを待っているのかもしれない。彼女はどこか僕に似ていて、過去が原因するのか、干渉を嫌うような風がある。他者にも、自分へも。
言ってほしいのかもしれない、僕から。
不意に彼女が、僕の胸を押した。離れた唇が、抱いた力が強く「苦しい」と告げる。
「ごめん」
腕を緩め、僕はもう一度ごめん、とつぶやいた。彼女が家に入ろうと、手を引いた。
絡めた指に感じた。温もりと、その華奢な指先の存在に。
僕が、美咲に訊いてほしいのかもしれない。
 
 
司の家から徒歩で、十五分ほどにある小さな花屋にバイトを始めて、一月になるだろうか。
履歴書を持参で店に行くと、オーナーの中年の男性は、鼻に落ちた眼鏡の奥の目で、わたしを上から下まで眺めた。斜めに履歴書を見、それだけで簡単に採用してくれた。今日からでも働いてほしいという。
「神部さんって、あの…神部さん?」
まずそう問われた。わたしは頷いた。嘘を言っても始まらないし、こんな興味ありげな視線を受けることには慣れている。
オーナーの声に、店舗の奥から奥さんが大声で怒鳴った。「あんた、余計なこと訊くんじゃないわよ」
「いや、ちょっと訊いただけじゃないか。雇う以上知っておかんと…」
ひょっこりと顔を出した小柄でふっくらとした奥さんが、「関係ないじゃないの。本当、野次馬根性が嫌らしい人ね、あんたって人は。だから、バイトちゃんがいついてくれないのよ」
とまくし立てる。
「このおっさんに嫌らしい目で見られたら、すぐに言ってね。フライパンでかち殴ってやるから」と、その身体に似合わない威勢のいい声に驚くが、それにははっきりと優しさを感じた。
「おいおい、セクハラはやばいってくらい、心得てるぞ」
このオーナーにしても、面接の際、わたしの家の問題に気づいているのだ。地元の人を相手の商売で、面倒と思うのであれば、敢えて雇ってはくれないだろう。
奥さんのわたしを見る目も、ものを教える声も、詮索のないごく普通のもので、当たり前のその反応に、しばらく戸惑うほど。
惨めな話であるけれど、わたしの素性を知り、「ああ、神部さんの家の…」と頷かれた後では、このように何でもない人のような態度を取られるのは、本当に少ない。
思わず、涙ぐんでしまうほど嬉しかった。馬鹿みたい。普通に見てもらえることが、こんなにも嬉しい。
毎朝司に前後して、お弁当を持って花屋『ぷち・ふるーる』へ出かけてくる。市場から届けられた花を、奥さんやオーナーの指示で分け、バケツ移す。
お客があればその対応。レジを打ち、ブーケをこしらえる奥さんの手伝い、配達に出かけるオーナーの商品を運んだり、午後三時までの時間は目まぐるしく過ぎていく。
「ごめんね、美咲ちゃん。今どき七百円しか時給あげられなくて。それじゃあ高校生だって来たがらないって、うちの娘に言われたんだけど。不景気でしょ」
などと折々口にする奥さんは、時給を補うつもりなのか、帰りにはもらったと野菜を分けてくれ、作り過ぎたとお惣菜を持たせてくれることもある。
店の規模も儲けもあるだろうけれど、第一花の知識も乏しく、雑用しか使えないわたしには、それ以上の金額をもらう理由がない。
「いいえ、雇ってもらえるだけで。よくしてもらっているから」
それは本音だ。何の誇張も偽りもない。父も母もいない空間に身を置き働けることを、自分はどれほどほしがっていたのかを思い知らされた。
縛られるように両親の望むままあの家にいた。けれど、違う。優しい振りをして、わたしはエゴイストだ。
母の言う通り、確かに自分のことばかり。だから、家から離れられて、あの母の視線の刺さる侘しい弁当屋から出られて、こんなに気持ちが晴れているのだ。
 
 
帰り間際、ふらりと店に司が現われた。この日は、来春から勤務予定の会社のセミナーがあるとかで、珍しくスーツを着ていた。朝、シャツにネクタイを結んであげたのはわたしだ。
いつ外したのかそのネクタイは首になく、それがジャケットの右のポケットからはみ出している。
彼はわたしに、「花を売って」と、きょろきょろ辺りを見回した。
「どれが好き?」
「え」
エプロンを外しかけた手を止め、彼を見る。
「どうしたの?」
「美咲にあげたいんだ」
「そろそろ上がる時間じゃない?」
奥で帳簿をつけていた奥さんが、店に顔を出した。時間が合うと、たまに司はわたしを迎えにきてくれた。それで奥さんやオーナーは彼を知っている。
「あら、司くん、美咲ちゃんのお迎え?」
「ええ」
司はどの花がいいのかと、わたしに再度問う。互いの誕生日でもなければ、何かの記念日でもない。どういう気紛れかと訝しく思いながらも、そんな優しさも嬉しく、わたしは白いデルフィニュウムを選んだ。
「あら、プレゼント? いいわねえ」
奥さんがしきりににやにやと冷やかすのが恥ずかしく、手早くセロファンで束にし、バックと共に抱えた。
挨拶もそこそこに、店を出た。
「なあに? 司」
彼は肩越しにわたしを眺め、ちょっとだけ笑い、すぐに目を前に戻した。空いた手をつなぐ。
そう広くもない商店街の通りを、子供たちが互いに何かをはしゃいで喋りながら、スピードを上げて自転車で通り過ぎた。
司がそれをちらりと目で追った。その後ですぐに何か言った。わたしは声が聞き取れなかった。
「…てほしい」
「え」
「聞いて」
それに、わたしはある予感がした。彼が何を告げようとしているのか、ちょっとした確信めいたものを持ったのだ。
果たしてそうで、司の話は以前現われた新田氏のことについてのものだった。彼が司たち母子との、これまでの実父との橋渡しを務めてきた経緯を教えてくれた。
「ふうん」
「それだけ?」
司の声はどこかからかう色合いを含んで、耳に軽く明るく届いた。
どうして自分は、彼にこの数日間、あの疑問を問いかけなかったのだろう。問いたいことはあった。知りたいと思った。
けれども、それをためらわせたのは、司の冷めた横顔であったり、わたしを見る視線であったりした。
彼のその姿勢は、わたしと距離を置くのでもなく、気持ちを閉ざしているのでもない。ただあの疑問だけを見えない箱に入れ、ぴたりと封をしたかのような感じだった。そして彼がたまにやるように、どこへでも行けと靴の腹で蹴飛ばすのだ。
そんなように、わたしには見えた。
だから、知るときが訪れるとして、それはわたしからではなく、司からわたしに打ち明けてほしかった。閉じた箱を開けるのは、彼でないと。そうでないと、意味がない。
わたしは司の問いに、指先を絡めて応えた。手の花を、顔に近づくように抱き変えた。
「司は、何の用だと思う?」
「彼に新種の遺伝病が見つかったとか…。それで、医者が僕のサンプルもほしがっているとか…」
「もう、何だと思うの?」
司はそれに首を振った。「わからない」と。
その仕草と声に、わたしは彼の微かな迷いを見つけた。司は頭のどこかで決断をためらっているのではないか。連絡をほしがっているという実父の希望を、蹴りやってしまう、彼の中では当たり前の判断に、迷いがあるのではないだろうか。
たとえばそれが司の胸に芽生えていたとして、そして何に由来するにしろ、自然な気持ちの流れだと、わたしには思える。わたしだって、兄の生存を百パーセントに近い数字であきらめている。けれども、持ちたい気持ちは捨てられない。どこかに生きていてくれる可能性を、無事でいてくれる願いを……。
思いの矛盾は、過酷な現実に上手く折り合いをつけるため生まれる。
どんな形であれ、司にとって、実父とのある接点に違いがない。
司がそれを望むか、そうでないか。それにしか答えはない。そして彼にしか決められない。
わたしはつないで手の指を、もう一度強く絡めた。そばにいるということを知ってほしいためと、感じてほしいため。
そして司のそれを、わたしも感じたいがため。
彼は答えを告げなかった。まだ今は決められないでいるのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
心を詰めてわたしはそれを知りたいと思い、問いの言葉の代わりに、彼の気配を表情からうかがう。
見慣れない紺のジャケットと白いシャツのせいか、彼の横顔はいつもより澄んで見えた。冷めた表情が癖のそれが、大人びて少しだけ厳しいものに見える。
その彼の頬がふっと緩んだ。
始め視線だけをわたしへ流し、それからちょっと小首をこちらへ傾げた。
「君のいいときでいい。結婚しよう」
司はそう言って微笑んだ。
それを言いたかったのだという。
そのための花だったという。
「美咲しかいない」
わたしはそれ以外の答えを知らない。うん、とそのまま頷いて、何となく花束に頬を寄せた。



          

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