月のあかり
11
 
 
 
バイト先の『みち・ふるーる』に現われた奇妙な男のことを、わたしは、敢えて司には話さなかった。
多分、ほとんどの割合で、わたしのことを尋ねたのは、司の実父に絡む人なのであろうと思う。兄の件でのテレビの取材なのであれば、やはりわたしにコンタクトを取るはず。けれど、それもないのだ。
司は、容易に実父の存在を思い起こすだろう。
話して、彼が少しでも嫌な気持ちになるは避けたかったし、それで眉を寄せる、彼のちょっとむずがゆいような不快なときの癖を、見たくはなかった。緒方恭一という父を、忌んでいるから。
どういう経緯があれ、血の通った父子なのだ。離れていれば、その暮らしぶりを知りたいと考えるのはごく自然で、そして司のそばにいるわたしに興味を持つのは、当然のこと。大したことではないと思った。
血の絆は、断ち難い。意識しなくとも、何かのきっかけに必ず自分と辿られてつながれている。
普通であれば温かみのあるそんなことにも、不快さを覚え、忌まわしく感なくてはいけない司を、やっぱり可哀そうだと感じる。
そんなときは、彼を抱いてあげたいと思う。背に腕を回し、鼓動を感じられるほど近くに。
わたしも、あなたの気持ちを感じることができるから。
 
 
その夜は二人で、近くに河川敷で見れる花火大会を見に出かけた。
気紛れな梅雨空のことで、むっとした湿った風が、途中雨に変わった。小雨から本降りに強まる気配を見せ、拡声器が花火大会の中止を告げた。
それに大勢の客が三々五々散っていく。並んだ夜店も、慌てて片づけを始めている。
手をつなぎ、取立て急ぎもせずに歩いた。人波で、急いてもそう進めないのだ。肩も髪もぬれ、それをしのぐ傘もない。
汗ばむほどの気温だったから、却ってそれが涼しく心地いい。子供っぽく妙にはしゃいだ気分にもなり、互いのしずくを垂らす髪がおかしくて笑った。
川べりからアスファルトの道路に上がり、そこでなぜか司が、自分のシャツを脱いだ。アンダーウェアのTシャツだけになる。シャツがぬれて気持ちが悪いのだろうか、と眺めると、ぐっしょりとぬれた脱いだそれをざっと絞り、わたしの肩から覆うようにかけてくれた。
「うちまで我慢して」
「何? 寒くなんかないのに」
かけたそのシャツすらぬれているのだ。防寒にもならない。司は肩越しにわたしをちらりと見、ぽつりと小さく告げた。
「見えてる」
「え」
何が見えているのかわからず、彼を見上げたとき、街灯の明かりの下、司のシャツの白がぺったりと腕に張り付き、うっすらとその肌色までも透けさせていることに気づいた。「あ」と思う。
目を胸もとにやると、自分のTシャツのそこに露わなブラの線を見た。司はこれに気づき、シャツを羽織らせてくれたのだろう。
そんな彼の優しさが、嬉しい。
一緒に住む前にも、彼はこれに似た優しさを見せてくれた。公園でからすを見て気分の悪くなったわたしを、落ち着くようにやんわりと抱いてくれた。
考えれば、ほろほろとそんな優しさは思い出からこぼれてくる。
「ありがとう」
その返事はない。代わりに、少し早まった自分の歩調をわたしに合わせてくれるのだ。
どうしてだか、不意に彼の母親のことを思った。どこか繊細な彼の面立ちに、きれいな人であったのだろうとぼんやりと思う。そしてきっと司は、その母に優しかっただろう、と。
帰り道に、彼の友達の陣野くんに会った。彼女らしい女の子を連れていて、ちょっとだけ話してすぐに別れた。この辺りに住むという彼に、おそらく司はわたしのことを聞いたのだろう。『止めておけ』とでも、忠告されたのではないか。
何の腹立ちもなく、どうでもいいけれど、ちらりとそんなことを思った。
帰ってすぐに、髪を拭う前に抱き寄せられた。彼の雨を受けた腕が、ひんやりと肌を包む。
そこは、夕方わたしが洗濯物を取り込んで畳んでおいた四畳半の部屋で、障子の奥の窓ガラスを打つ雨音の中、ほのかに日向の匂いがする。
「拭かないと」
手のバスタオルを彼の髪に乗せようとした。どうでもいいとばかりに、わたしの手を、彼が抱きしめることで封じた。畳の上にタオルがふわりと落ちる。
「さっきから、ずっと抱きたかった」
「え」
「ねえ」
ねだるようでもある司の口調が珍しく、ちょっと可愛いのだ。そしてそんな言葉に、わたしの心の奥もほんのり熱を帯びてくる。曖昧にうなずき返し、それはすぐに始まるキスに、いつからかつながった。
明かりだけを消し、畳の上で重なり合う。ぬれて冷えて感じた肌は、繰り返す愛撫にすぐに温もりに代わる。
少しだけ強引な彼の行為は、その分わたしを肌でやるせなくさせるのだ。
「ごめん」
触れ合い、感じ合った後で達した彼が放ったその声に、わたしはううんと首を振り、彼の背を撫ぜることでやり過ごした。
これまでのセックスで、避妊をしなかったことはなかった。当たり前のように司がそれをしてくれたし、わたしも望んだ。
この日、避妊をしてくれる気配がないことが、わたしにわからないはずがない。気づいていた。けれども、彼の力に押され、自分も気持ちに流され、わたしは言葉を飲み込んだのだ。
「大丈夫、きっと……。生理から随分経つし」
「ごめん」
わたしにやんわりとうつ伏せる司の髪を、指に絡め、「ううん」とわたしは返した。「どうして?」とは問わなかった。
腕の強さであるとか、キスの深さ、貫いた際のそんな力。それらに、普段の彼とは違う匂いを感じていたのに。何かに苛立っているのだろうか。肌で紛らわせたいようなことが、あった?
訊けないわたしと、その理由を告げない司。
抱き合った後の気だるさに、二人の間のその濃密な空気と距離に、こんなにも寄り添って気持ちを寛がせているのに。
どうしてわたしたちは、互いの気持ちを探ることに不器用なのだろう。
「愛している。僕のそばにいて、美咲」
「うん」
 
 
ほどなく連絡があった。
家に電話を寄越してきたのは新田で、それに出たのは美咲だった。遅い時間で、僕は風呂の後で缶ビールを飲んでいた。テレビではスポーツニュースが流れていて、見るともなしにそれに目をやっていた。
「新田さん」
受話器を渡す彼女の目は、ただアーモンド形につぶらなだけで、何の色も見えなかった。
電話に出ると、聞き覚えのある声が、『夜分にどうも、申し訳ありません。おやすみじゃなかったでしょうね?』
「何ですか?」
『何ですかじゃ、ないですよ、ぼっちゃん』と、作ったような笑い声が届く。彼の声を僕は幼い頃からよく知るが、それが作り物めいて聞こえなかったことは一度もない。
先日彼らが大学にかけてきた電話で、僕は実父の用件を聞き、それに返事をしただけで通話を切ってしまった。それを軽くなじり、その後で会う段取りの連絡を寄越したのだと言う。
美咲は僕が通話を始めると、猫を抱き、台所へ餌をやりに連れて行った。
『そちらの県の○×ホテルをご存知ですか? 駅に近い。選挙応援に絡めてそこに、今週末、先生はいらっしゃる予定です』
「選挙?」
「ご冗談でしょう? 来月にあるじゃないですか。報道でうるさいほどやっているでしょうに?」
選挙の公示くらいは知っていたが、「ふうん」ととぼけておいた。それに、「いやはや、象牙の塔にいらっしゃる方は…」と、新田の大袈裟な呆れ声が続く。どのみち僕はそれほど政治に関心がなく、実父の正確な肩書きどころか、今の内閣の官房長官の名すらも知らない。
『ぼっちゃん、申し上げますから、控えて下さいよ』
「ああ」
そう応えながら、僕は空いた手で耳の後ろを掻いた。ホテルの名と日時。メモを取るほどの内容でもない。もし忘れたとしても、それはそのときだ。僕はきっと、確かめに新田に連絡などしはしない。
電話を切り、煙草をくわえ、またテレビを眺めた。それからしばらくして美咲がまた猫を抱いて戻ってきた。僕の隣りに座り、
「この子、前脚にちっちゃい棘が刺さっているみたいなの」
どうでもいいことを口にした。
美咲のその詮索を好まない性質は、僕に似て心地いいが、ときには焦れて感じることもあった。あっさり瞳を伏せるばかりでなく、疑問を突きつけてほしいときもある。
たとえばそれがこのときで、たとえばそれは、彼女に断りなく避妊を省いた夕べのことだ。
尾を引くその微かな苛立ちと不快が、実父の声と新田の電話に原因しているのは明らかだった。そして、やり場のないべたついたそんな感情を彼女にさらし、何らかの形でぶつけていることは、単なる甘えに他ならない。
いつから僕は、彼女にこんな風でいたのか。痛々しいような美咲を、僕が守りたいと願うのに。
不意に肩に感じたものは、こちらへ頭をもたれさせた彼女の頬の柔らかさで、洗い髪のしっとりした甘い香りだ。
それに、ふっと気持ちが凪いだ。肩にかかるほんのりとした重み。僕に預けるその重さに、美咲の思いに触れた。
『いつでもいいから』とつぶやく、彼女のちょっとだけ低いそんな声を、耳にしたかのような気になるのだ。
彼女は、僕を待っていてくれるのだろう。告げるのも、答えを出すのも。ゆったりと、決して焦れることなく……。
「今度、父に会う」
そう前置きし、僕は粗く、実父から会いたいと電話を寄越してきた経緯を話した。
美咲は「そう」と相槌をしただけで、膝に抱いた猫の背を撫ぜ続ける。
その後で互いに黙り、沈黙が続く。僕らの間では、生活のあらかたがこんな静けさで、それはいつの間にか二人の空気になった。
何かの折りに、その密度が濃くなり、また薄らぐ。それだけのこと。
不意に、美咲が言った。
「不安?」
「え」
「久し振りだから」
「さあ」
僕は首を振る。
美咲は先日、実家に立ち寄ったときのことを話した。バイトの帰り弁当屋に顔を出すと父親がいて、彼女にこれまでにない優しい言葉をかけてくれたのだという。
「腹が立った」と美咲は言った。言いながら、彼女は「今更…」とつなぎ、ほろりと涙をこぼした。
「うん」
僕はくわえた煙草を灰皿に捨て、彼女の頬の涙を拭った。瞬きをした瞳から、また涙の粒がふっくらと生まれる。
それでも彼女はその泣き顔の奥で、芯では父親を許しているのだろうと感じた。そして、気にかけて、愛している。
じき恥じらった笑顔に戻った。僕はその裏のない面差しをきれいだと思い、ちょっと見惚れた。
頬に指を這わせ、髪を絡める間に、僕の中で実父との約束は、忌まわしいだけでなく、面倒な厄介ごとになり下がっていく。
僕にとって彼の重要事など、どうでもいい。端から約束を破ってしまおうか、と捨て鉢な迷いが生まれてきていた。
 
 
約束の日、僕は緒方恭一の待つホテルに向かっていた。ここに来ることを、直前まで反故にする気でいた。
それでも来ることにしたのは、数時間前の新田からの強引な念押しの電話があったから。どこで仕入れたのか、彼は僕の携帯番号までも把握している。
実父の思惑が何にせよ、今回をパスしたところで、また次回を狙ってくるに違いなく、約束したことは棚に上げ、僕は意志に反して引き出される不快さに、少々むかっ腹を立てていた。
駅のそばに立つ指定のホテルでは、ロビーに何の会合か人が多く群れていた。大抵が男で、暑っ苦しいスーツを身につけている。
僕はジーンズの素足にサンダル履きで、予め新田が教えたフロアへエレベータに乗り向かう。
降りた高層階では、別にフロントがありロビーも設けられていた。ちらりと辺りに目をやると、ロビーの窓の隅には警備らしい人間もいる。
僕の場に不似合いな砕け過ぎた格好に、フロントのホテルマンが声をかけた。
「失礼ですが、お客様。こちらにご滞在のお客様とお約束がおありでしょうか?」
それに返事をする前に、「いいんだ、いいんだ。こちらは」と知った声がした。果たしてそれは新田で、気持ちが悪いことに僕の腕をつかんだ。僕の登場が遅く、よほど焦れていたのか、
「さあ、お待ちかねですよ」
と急ぎ足で先導する。僕は約束に、連絡もなく二十分遅れた。煙草が切れて、それを買いにコンビニに寄り、スポーツ新聞をついでに立ち読みしたせいだ。ちなみに携帯の電源は切っておいた。
特別の客のためのフロアなのだろう。客室のドアの間隔がひどくゆったりととられている。それだけで、階下のような部屋数がないことが知れる。厚く敷かれた絨毯の床を奥に進み、ドアの前に立った。インターフォンで新田が僕の来訪を告げる。
ほどなくドアが開き、驚いたのは、それを開けたのが実父自身だということだ。
中に招じ入れられる。室内はベージュを基調にした落ち着いた設えで、大きな会議用のテーブルと、椅子。それとは別にL字にソファが置かれている。ひどく広い部屋だった。
そこに実父は窓を背に立ち、敢えて笑顔も作らず、ただ手を差し伸べた。握手のつもりなのかと思ったが、その手のひらで僕の肩をぽんと叩いた。
「よく来てくれた」
「何の用?」
「そう、急ぐな」
新田は後ろに控え、「何かお飲みになりませんか?」と声をかけた。僕は首を振り、久し振りに目にする実物の父を眺めた。
少し白いものが混じる髪を後ろになでつけ、ネクタイを緩めた姿は、テレビで見るより若干老けて見える。額から頬の辺り、そして痩身な性質。それらは確かに僕に似ている。
そして、いつしか自分が彼と同じほどの背になっていることを、ぼんやりと思う。
父は先にソファに座り、前の席を手で指した。
要らないと断ったのに、新田はローテーブルに、僕のコーヒーを置いた。手持ち無沙汰だったのかもしれない。
「掛けなさい」
勧められてソファに腰を下ろした。ジーンズの後ろのポケットから煙草の箱を取り出し、構わず、折れかけ歪んだ一本を口にくわえる。
新田が後ろから差し出す火を、僕は避け、自分の百円ライターで火を点けた。彼に火をもらういわれはない。
父は何も言わず、僕が吐き出す煙を眺め、「わたしは三年前に、医者に止められてやめたよ。動脈硬化を加速させる直接の原因になると、随分脅されたよ」
「何の用?」
二度目の問いを口にした。僕は、喫煙の害について講釈を受けに来た訳ではない。
それにすぐに答えはなかった。新田へ実父が流した視線。それに返したものか、彼の軽い咳払いがする。
ガラス製の灰皿を腰を浮かせて引き寄せ、それに長くなった灰を落としたとき、父の声がした。
「息子として、正式に認めたい」
僕は思わず顔を上げ、彼の表情を見た。やや目を眇めて僕を見つめる父は、もう一度声を低く和らげて、同じ内容を繰り返した。
「認めさせてくれないか、頼む」



          

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