月のあかり
12
 
 
 
「遺恨もあろうが……、頼む」
一度懇願の声を出せば、その値打ちは繰り返すごとにどんどんと落ちていく。
僕は目の前に掛け、両膝に手を置き軽くこちらに頭を垂れる父を、しばらく眺めた。目にいい眺めではない。
煙草をくわえたまま、背後の新田に目をやった。そこには主の姿にかしこまり、けれども僕へ、どこかおどけた視線を送る彼の姿があった。『まあ、ぼっちゃん、そう呆れずに』とでも、僕を宥めるかのような。
それは、父と新田のねんごろな関係の縮図のようだと思った。鹿爪らしく振る舞い、紳士然と装う、政治家緒方恭一。それを影から支え、ずるい主人のしでかした不始末を、拭い続ける新田と。
目を父に戻すと、彼はとうに頭を上げていた。髪筋がはらりと額に落ちている。
僕は目を伏せ、父の視線を避けた。床のカーペットに目をやり、そこに見つけたわずかなしみを何となく見つめる。
その間、実父は、今更僕を自身の息子として迎えることの理由を話していた。ときに、それに新田の説明が混じる。
父の娘、僕の腹違いの姉に当る人間の婿は、次の衆議院選挙に出馬の予定で、父の後継者として準備を進めてきていたという。それが、去年、飲酒運転で人をはねた。
幸い、被害者は軽症で済んだ。実父はあらゆるコネクションを用い、それを表面上もみ消した。多額の補償金を積んだ示談もまとまった。
「いや、昭典さんの件は大変でしたよ。相手方がなかなか頑張りまして。まあ最後には先生のお名前で、何とか…」
実際、事件のもみ消しに当っただろう新田が、さも骨が折れたといった風に補足した。
「昭典は、またやった。今度は女だ」
僕は相槌も打たず、ポケットの携帯を取り出した。電源を入れておく。時刻を確認し、帰りに美咲に頼まれていた、乾電池を買うことを思い出した。彼女には、アルカリ電池とマンガン電池の違いがわからない。
どうでもいい他人の話はまだ続いた。昭典とかいう不肖の婿は、水商売の女性との交際が揉め、その愛人を殴ったのだという。愛人はそれを傷害罪で訴えた。
「あいつは、もう無理だ。何も望めん」
おぼろに、彼らが何を僕に求めているのかを察し、不快になったのと興味のない内容に、下らなく退屈になった。
僕は欠伸の後で、決定的な父の言葉を待たずに、テーブルの煙草を拾い、立ち上がった。
「ぼっちゃん」
ドアへ身を向けた僕へ、慌てて新田が立ちふさがる。「まだお話が…、ねえ?」
何が「ねえ?」なのだろう。ポケットに煙草をねじ込み、彼に構わず歩を進める。その背中に、父の声がかかった。「司、君をわたしの後継者として推したい」
かねてより思い描いていたことだと、つなぐ。しがらみがあり、叶わない夢とあきらめていたが、思いがけず道ができそうだ……。
「近く養子として、迎える。一緒に、わたしと…」
僕は返事にも倦んで、振り返ることもしなかった。実父の考えそうな、自分勝手で都合のいい一時しのぎの夢とやらに、嫌悪感で一瞬吐き気が込み上げた。
じゃあ、あんたが捨てた僕の母の存在は何なんだ。僕を新田の子として戸籍を捏造してきた過去は?
あっさりと拭い取ってしまえるほどのことだと?
彼ら気ままな権力者の抱えたしがらみに、どんな重みがあるのか知らない。知りたくもない。
僕が忌まわしい過去を、自分の中で葬ってこられたのは、時の作用の他、彼らと人生を共有しない未来があるからだ。もう関わりあうこともなく何の接点もない。何十年か経、実父が死に、新田も死ぬ。それで終わり。
何を、今更……。
ざらざらとした静かな怒りが喉元にせり上がってくる。僕はそれを呼吸と共に飲み込み、吐き出した。
「ふざけんな」
やんわりと腕をつかんで静止する新田を振りほどき、そのまま部屋を横切りドアの前に立った。ノブを手にしたとき、追いかけてきた新田の声が背中に聞こえた。
「美咲さんの母親、捕まりますよ、このままじゃ」
「え」
新田の乾いた声に、僕は思わず振り返った。僕より頭一つほど低い彼の、少し歪めた表情がそこにはあった。
「神部美咲さんの両親は、『○×の会』の信者ですね。強引な勧誘と、財産詐取が一部騒がれていましてね。近くあの団体に、詐欺容疑で警察の大掛かりな手が入るようです。美咲さんの母親は女性信者の中では、息子が失踪した特異な境遇もあって、幹部といっていいクラスだそうですよ。母親が実際に詐欺に絡むかどうかは別として、幹部連中はごっそりとやられるっていう話……」
僕は新田の話を遮るように、彼の襟首をつかんでいた。「おい、あんたらが仕組んだんだろう?」
「ぼっちゃん、止して下さいよ」
一瞬泳いだ新田の目が、すぐにいつもの柔和なものに変わる。「選挙前のイメージ戦略ということもありまして、政府の方から捜査に圧力がかかったことはあるらしいですが、まさか…、ねえ?」
また新田お得意の「ねえ?」だ。
「嘘つけ」
彼らは僕が父の申し出を断ることを見越して、美咲の件を用意していたのだ。政府の要職に就く父に、警察の捜査上影響力を行使することは決して難しくないはずだ。おそらく僕以上に、美咲にまつわることをつかんでいるのだろう。
僕は腹立ち紛れに、新田の胸元を持つ手を乱暴に突き放した。
「新田のせいじゃない。どうせあの団体は、元信者からの訴えも多かった。じきこうなった」
ソファに掛けたままの父の声が響く。彼はまだあんな場所に座ったままでいたのだ。悠然と同じ姿勢でいることができるのは、この切り札を持っていたからだろう。
必ず僕が立ち止まると読んでいたのだ。
「可愛らしい娘だったな、美咲という子は。君の隣りがよく似合う」
僕の手から逃れた新田は、ふうと大袈裟に息をつき、歪んだネクタイを直した。
「ぼっちゃん、上手くごまかすこともできますよ、まだ今の段階じゃ。美咲さんの両親を警察側のリストから外すことも…」
「司」
いつの間にか実父が、僕のほんの数歩のそばに来ていた。伸ばした腕で、ぽんと如才のない仕草で肩を叩く。ほのかに口許に微笑が浮いている。
「返事はすぐにはもらわなくていい。考える時間も必要だろうから。な?」
唇を噛みかけ、それが惨めなようで舌打ちに替えた。
新田はその僕のシャツのポケットに、何かを滑らせた。名刺のようだ。
「お気持ちが変わられましたら、いつでもこちらへ。どうせ以前のは、お捨てになったでしょうから。いえ、いいんですよ。携帯を先日、風呂に落としちゃいましてね、買い替えて名刺も刷り直したんですから」
僕はそのまま再びドアノブを握り、何も言わずに部屋を出た。
ドアの隙間から父の声がもれてきたようだったが、構わなかった。
階下へ降りるエレベーターを待ちながら、また舌打ちが出る。やはり来るべきなどではなかった。
断ったつもりの、忘れていたはずの見えない父との血の糸は、確かに僕のどこかに結ばれていて、容易にそれは手繰られてしまう。
そんなことに今頃気づかされ、僕は、視界が曇るような不快さを胸に感じていた。
 
 
ホテルを出た足で、僕は大学へ向かった。
図書館に入り、過去の新聞を改めた。地方紙の幾つかに、三面記事の小さな扱いで、緒方恭一の婿の事件が載せられていた。傷害事件の方は見当たらなかった。
次は美咲の両親が入信している新興宗教の件をネットで検索する。数多くヒットし、その中に著名な週刊誌の過去記事を見つけた。ざっと斜めに読み、実父の口にしていたことがまずは事実らしいことを確認した。
被害者団体のホームページも見てみたが、あらかた週刊誌の記事を主観的に掲載したようなものだった。そこにちらりと、美咲の家のことが書かれており、団体内では広告塔に順ずるような扱いを受けているように表現されていた。
新田が言ったことは、はったりではないらしい。
図書館を出て、その前の噴水の辺で煙草を吸った。迷うほどのことでもない。そう思いながらも、やはり僕は迷っている。
美咲は僕が父の要請を蹴ったことで、彼女の母に司直の手が伸びたとしても、僕を恨みはしないだろう。ただ、悲しむだけで……。
迷うことじゃない。
思考に決断の天秤があるとして、僕のそれは、かたりと拒絶に皿が振れ切っている。再考のしようもなく。
ただ……、嫌な後味を感じるだけだ。
美咲への罪悪感めいたそれと、僕自身の中の漠とした形を成さない何か。
慣れたはずの煙草が、口の中に苦く残った。
「おい、一ノ瀬、何ぼんやりしてるんだ?」
声に顔を上げると、友人の陣野がそばに立っていた。手に何冊かのラベルを貼った書籍がある。僕と入れ違いで図書館から出てきたらしい。
「いや、別に…」
僕は彼を見上げ、屈託なく浮かべる朗らかな表情に、いつかの彼の言葉を思い出していた。
『彼女は、…止めた方がいいと思う』。
何を今更……。どうかしている。
僕は赤いペンキの剥げた錆だらけの灰皿に煙草を押しつぶし、立ち上がった。神野は用がないなら昼飯につき合ってくれていう。
「え」
それに噴水のそばの時計塔を見た。三時に近い。昼前に実父に会いに家を出た。ホテルで携帯の時刻を確認した。それきりで、時間の経過をちょっと忘れていた。
そういえば、昼も食っていない。僕は急に空腹を感じ、陣野にうなずいた。
 
家に帰ったのは、夕刻を過ぎていた。
夏に向かい日が暮れるには早い。この時間、いつもなら美咲が、庭の手入れのなってない花に水を撒いてやっている。そして鍵のかからない玄関の引き戸を引くと、ほのかに彼女の作った夕食の匂いがする。
いつしか彼女は僕の一部になり、それにひどく依存している自分に気づくのだ。
誰かのいてくれる存在に。一人ではないことに。
この日、水を撒く彼女の姿はなかった。玄関の扉も、鍵がかかったままで開かない。鍵を取り出し、自分で開ける。
何でもない、少し前まで自分が当たり前にやっていたことにすら、違和感がある。
茶の間の飯台の影に白猫が寝ていた。メモがある。
 
父から連絡をもらって、母が風邪を引いたというので様子を見てきます。
遅くなるかもしれないから、夕ご飯作っておきました。
冷蔵庫に入っているから、温めて食べてね。   
美咲
 
僕は立ったままそれを眺め、それから指でつまんだ。筆圧の薄いその文面を、覚えるほど読み返し、飯台へはらりと落とした。
メモは空気の抵抗でゆらゆらと揺れ、そして不思議なほど元あった場所に近く落ち着いた。
気持ちが揺れた。
美咲の母が逮捕されるようなことがあれば、美咲はきっと泣くだろう。辛いときの癖の、どこかがひどく痛むような、うなだれるたおやかな仕草が、目に浮かぶ。
きっと泣くだろう。
振り切ったはずの天秤が、蹴りやったあちらへ重みを持って傾いでいく。
僕は、胸のポケットから新田の名刺を取り出した。




          

『月のあかり』ご案内ページへ


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪