月のあかり
13
 
 
 
母に会うのは久し振りなのに、顔を見るとどうしてだろう、ブランクなどなかったように思える。
いつもと変わらずに弁当屋を手伝い、母の言いつけを聞いていた毎日が、すぐに肌になじむように甦ってくる。
母は寝室の和室に布団を敷いて寝ており、思ったほど加減も悪くなさそうだった。わたし顔を見ると、「お父さんには頼めなかったから」と、ほんの少し気まずい口調で、あれこれと用を頼んだ。
わたしがどういう経緯で、この家を出て司と暮らすようになったのか、母が覚えていない訳がない。その後ろめたさが、やや抑えた口調であり、そして発熱の甘えに逃げるような仕草なのだろう。
受けるわたしにも、わだかまりが残っていない訳でもない。それでも、何でもないような顔で、忘れたかのように振舞うのだ。
こんなところが血の濃さゆえ、なのかもしれない。胸のしこりは、時間と顔を見ることで流せてしまう。
細かなことを話し、母のために動いてやり、数日手の届かない掃除を済ませる。父と母に夕飯を用意し、ついでに一緒に食べて、午後九時ごろには実家を出た。
「何かあったら、また言ってね」
店の外に送りに出た父に別れを告げる。
背を向け、歩を進める。
そこで切り替わってしまう。司のほんのそばにいる、今のわたしの生活に。
普段は声を聞かない。顔を見ない。それでも、両親に何かあれば会いに行ける。それにためらいは、ない。できることなら、してあげたい。
この程度の離れた距離が、多分わたしたちには心地いいのだ。
以前より、優しい気持ちで接することができる気がする。許せることが多くなる。
空いた空間であり、時間、実際の距離。
それらが必要だったのは、わたしであり、そして父にも母にも、同じだったのかもしれない。
 
実家からちょうど半分ほどの距離にあたる小さな河川に渡した橋で、司を見つけた。
背の低い欄干に身を乗り出すようにしている。彼のくわえた火を点けた煙草が、まるで蛍の光のようにちかりと光った。
わたしが駆け寄る間、彼は手の中の紙くずのようなものを、川へおとしていた。目をやると、ちぎった幾つかの紙片の白が、街灯に白く浮き立ってぱらぱらと落ちていく。
「何を捨てたの?」
司はそれに答えなかった。迎えに来たと言い、わたしの手を握る。
彼はいつからここにいたのだろう。問うと、「ちょっと前」と言う。
「お母さん、どうだった?」
「大したことない。夏風邪みたい」
「ふうん」
夜には冷えた風を受けながら、ゆっくりと歩いた。帰る途中で、コンビニに寄って、缶ビールとアイスクリームを買った。司の指に引っ掛けて提げたビニールの袋が、しゃわしゃわと音を立てる。
この日、彼は実父と会う約束になっていた。気が乗らないようではあったけれど、どうしたのだろうか。約束の場所へちゃんと出かけたのだろうか。新田氏にもしつこく請われて、会うことになったという。
やはり気が向かず、連絡もせず、約束を破ったのじゃないだろうか。些細なものだと、会う場所も日時もメモすらとらなかったのだから。
その重要事が彼の中で、日常に紛れてしまうのではないかと、なぜか、わたしの方がはらはらとしていたようだ。もし忘れたのなら、司は新田氏へ確認の手間など取らず、さっさと約束自体を反故にしてしまう。
わたしは司に、彼の父と会ってほしかった。会って、何でも言い何か話し、ちょっとした時間を過ごし、別れる。それだけでいい。そんなことで、通う何かがあるように思えるのだ。
多分それは、血を分けた者にしか感じられないものだろう。距離や時間やそんなものらを越えられる絆。司が失くし、実父が奪い、消え去ったはずのものが、きっとどこかにあるのではないか。
なくても、会うことでそれが生まれるのであったら、いい。
それは、都合がいいセンチメンタル過ぎる感傷であると、わたしもわかっている。司がしまってきた実父への感情は、時間を置き、わたしの想像のできない別の形に変わってしまっている。どうにかなるものではないのかもしれない。
だから口にもせず、胸に思うばかり、願うだけ。
家の前で、司がジーンズのポケットから後ろ手に鍵を取り出した。がらりと扉が開く音に紛れるように、
「お父さんと、会えた?」
司はちょっと振り返り、わたしを見た。「会ったよ」と軽く言い、そのまま顎で下駄箱の上を示し、
「乾電池も買ってきたよ」
「乾電池と一緒?」
司はちょっとだけ笑い、元気だったこと、就職内定の祝いを言われたことらを口にし、
「テレビより老けてた」
「ふうん」
「それだけだよ」
切れかけた浴室の照明の話しに移り、それでその話は終わりになった。彼が終えたかったのかもしれない。
何となく、司の実父は、彼への扶養の義務の終わる、大学を卒業する前に会っておきたかったのかもしれない、と思った。彼が社会に出、今以上につながりの希薄になる前に。
単純に、就職の決まったことを言葉にして、祝ってやりたかっただけなのかもしれない。それはごく自然な心理に思える。
おそらく短く済んだその時間、司は実父に何を言ったのだろう。何を思ったのだろう。
訊くことはないと思い、彼も口にすることはないと思い、けれどやはり、知りたいと思った。
 
 
数日たって、母の風邪が治ったというからの電話をもらった。
短い通話は、受話器の向うのお客の声で遮られた。それに、「あ」と思った。
その日は日曜で、いつもなら両親共にそろって入信する宗教団体の会合に出かけているはずなのだ。だから、客の減る日曜に敢えて弁当屋は開けない。
それが、確かに店を営業しているようだった。母の声はしなかったし、電話を代わろうとも、父は言わなかった。母だけが、一人で会合へ出かけたのかもしれない。
父はどうしたのだろう。
入信以来、決まって繰り返す行事だったはずなのに。会に依存し切っているように見えたのに。どうしたのだろう。
日曜に店を開くことが、父の中で何か、変化が起こったことによるものだったら嬉しい。
そんな思いは、髪を切りに行った美容室で、週刊誌を見たことで強まった。
見開きページに大きく両親の所属する団体の記事が掲載されていたのだ。元信者の内部告発や、その人たちの言う団体の卑劣な行い、幾つも起こっているという彼らの裁判のことなどが綴られている。
目にしたくないものだったけれど、興味がないといえば嘘になる。結局最後まで読んで、本を閉じた。
後味の悪さは、ずっと喉元に尾を引いた。
髪を切り、短くなった毛先を指で弄びながら家に戻る。この日の午後から、司は実父に呼び出されて、墓地のあるあの地に出かけている。母親の十三回忌の法要を繰り上げて行うという。
『今日は、多分帰れない』
彼はそう言っていた。ここから遠いのだから、当たり前のことだ。一緒に行ったこともあり、知っている。早い帰宅が無理なのはわかっていた。
司のいない夜を持て余し、実家に様子を見に帰っていようかとも思った。週刊誌の記事のせいと、父の電話で、少し胸がざわめいていた。
けれども、庭の水撒きがあるから、どうしても戻らないといけない。猫も家に入りたくてうずうずするだろう。でも一日くらい、どうでもなるのかもしれない。
家に帰ると、降り出した急な夕立の気配に、干しっぱなしの洗濯物を慌てて取り込んだ。
日の熱を抱いてふんわりと仕上がった洗濯物を畳む頃、近くの雷鳴とびっくりするほどの雨脚が、ガラス窓を叩きつける。
やっぱり自分が雨女だと、ちょっと笑った。彼と会う日はよく雨が降った。こんな日にもやはり降るのだ。

彼のシャツを膝に畳みながら思う。
もう目的地に着いただろうか。
司は新田氏の迎えの車に乗って行った。「フォーマルなんて持ってない」と、いつものジーンズにサンダル履きだった。砕け過ぎたTシャツ姿に、きっちりとネクタイを締めた新田氏は、やれやれと苦笑いをしていた。
「お父上の物をお借りできるでしょう」と言った声に、司は返事をしなかった。黙って、リアシートに乗り込んだだけ。
あんなに無愛想でなくていいのに、と思う。新田氏がすることは、実父にための仕事なのだから、仕方ないのに。
洗濯物を畳み終えても、雨は止まない。あまりの降りに出歩くのが面倒になり、実家へ帰ることも物憂くなった。
雨空に、日暮れ前に部屋が薄暗くなる。実家に届いていた友人の手紙を思い出して、その返事を書き、それから猫に餌をあげた。
それだけでもう時間が余ってしまうのだ。司といるときだって、何をする訳でも、会話も取り立て多い訳でもないのに。

彼とは、ただ一緒に過ごすだけで、それだけで空気や時間の重さが変わる。
ときに酸素のように意識せず求めていたり、ときに焦がれたように存在がほしくなる。
欠伸がもれて、少しのつもりで猫のそばで横になった。
 
電話の音で目が覚めたのは、もう辺りが真っ暗になっていた。そばの猫もいない。電気を点け、古びた水屋の上の受話器を上げた。
それは司からで、法事が父の都合で日延べになったことや、帰りが数日後になることを告げる。
『何してるの?』
猫と寝ていたと言うと、受話器の向うから、吐息に混じった彼の笑い声が届く。
雨のこと、食事のこと。新田氏がぶち犬に噛まれたこと。とりとめのない会話が続く。電話でこんな話をしたことが、わたしたちにはない。
それは不思議な響きを持った時間で、回線がつなぐわたしたちの声を、まるで結ばせるようだった。
『美咲』
「なあに?」
『…何でもない』
「何? 言いかけて止めないで。気になるから」
司はそれに小さく笑って答えをくれず、多分別の言葉を選んだ。
『おやすみ。また明日かける』
通話が切れ、受話器を戻した後で、彼が何を口にしようとしたのだろうと考えた。
単なる気紛れなのかもしれない。言い間違えただけかもしれない。
明日にも電話をくれると、彼は言った。
それを待ち、わたしはここで過ごすのだろう。一人の夜を。
コードを手繰っていた所在のない指が、ふっと、目の前の壁に掛かった状差しに触れた。
彼の祖父母の頃のもので、どこかの土産の品のようだ。一番手前のポケットに入れたはずの、小さな紙片のないことに気づいた。
それは新田氏の名刺で、彼がここに現われたとき、ポストに残しておいたものだ。わたしはそれを状差しのポケットに差し込んだ。
それ以来、触れてもいない。
わたしが触れておらず、消えているのだとしたら、司が持ち出したのだろう。今回の法要のことで連絡を取るため、利用してどこかにやったのかもしれない。
「あ」
何となく、数日前の夜の光景が頭に甦った。わたしを待つ橋の欄干で、司はそこから身を乗り出すように、ちぎった紙のような物を、川へ落としていた。
そのときの彼に、何を捨てたのかと訊いても、教えてはくれなかった。
あれが、今消えた名刺のような気がするのだ。
そのイメージは、わたしの中ですっきりつながり、像を結ぶ。
 
「どうして捨てたの?」
「なぜ、ちぎったの?」
答えのない問いが、唇からもれた。



          

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