月のあかり
3
 
 
 
シャツを通して伝わる司の肌の熱。
細かな雨が屋根を打ち、辺りの葉に滑り、敷石を叩く。その音がする。
乾いた彼の咳がわたしの頭の上を通り、ようやくはっとなった。身を離し、ちょっと取り繕うように彼の額に手をやった。
不意に訪れた抱擁だった。意図していた訳ではない。けれども、それは確かにわたしたちの距離を縮めた。
「ごめん、突然…」
「熱は測ったの?」
言葉がぶつかり合い、それにちょっとおかしさが込み上げた。
額は熱く、そこに指を触れるわたしの手を、彼が取った。手首を、彼の指が包んだ。それは案外に大きく、強い。
そんなことにひどく頬が熱くなった。
「知らない。ずっと寝ていたから」
「何か、食べた? 薬は?」
司はそれに、どうでもいいとばかりに軽く首を振った。「要らない。食べたくないし、明日には治っているよ」
ここ数日の泊り込みの実験に、疲れただけだと軽く言う。
これ以上何を言っていいのか、何を言うことが許されるのか。わからずに、迷ってわたしは彼の手を離し、ころころと転がった傘を拾った。
「ねえ、美咲さん…」
「うちのお弁当ばっかりじゃ、駄目よ」
「自分の家の店なのに?」
だから言うのだ。大した品ではないのは、売っているのだからよく知っている。
「じゃあ、他にどうしたら会えるの?」
司はあっさりと、わたしが言葉を失くすようなことを平気で口にする。答えを探す中、もう一度彼が「ねえ」と静かに問う。
知っているくせに。
わたしの気持ちも。何を望んでいるのかも。
けれども、それに踏み出すことを恐れる気持ちは、彼にはわからない。わたしが司を知らないように、彼はわたしを知らない。
思いが煮詰まって、夜更けにやって来た。その果てが、結局ためらいと、怯えに行き着くのだ。
だから、言葉が見つからない。
わたしのことを知ったら、きっと彼は背を向ける。冷めて見えるきれいな顔をちょっと歪ませて、何か妙なものでも口にしたみたいな顔をするだろう。そして、吐き出す場所を探す……。
これまでもそうだった。
「知っている。……友人から聞いた」
その言葉に、わたしはいつの間にか落ちていた瞳を彼に向けた。
「え」
目尻へ切れて流れる彼の瞳は、見下ろすようにこんな風に向けられると、鋭くなり、こちらの瞳の奥にあるものを、まるで見通されてしまうように感じる。
「好きだ」
わたしの何を知っているの、と返しかけた。けれどもその言葉は、自分にそっくりと返ってきてしまう。
それでもわたしは、ここにいるじゃないか。
「美咲さん…」
熱い指が頬に置かれた。滑るその指の感触に照れながら、胸をときめかせながら、わたしは彼から瞳を外した。そうしていたら、よくわからない涙で、泣き出しそうだったのだ。
「『美咲』でいいわ。二つしか違わないでしょ?」
それが返事になっただろうか。
司の腕が、背中に回った。抱きしめられるその求められる感覚は、わたしを恋に酔わせていく。
やっぱりそれで、泣きたくなるのだ。
 
 
雨の夜の日が始まりだったとすれば、今日は幾日目になるのだろう。
深く思わないようにしようと思い。そう自分に言い聞かせることが、却ってわたしの中の彼を大きくしていく。
何を栄養に恋は育つのだろうと思う。そして、どこにこの思いは向かっていくのだろう。
これまで乾いていた時間に、そんな物思いは甘く、うっとりと容易く時間が過ぎていく。
会えなくても、その時間で恋を感じられるのだ。まるで少女のように。
乾いた地面にしむように、それを身体が求めていたことに、一日のうち何度も気づかされている。
わたしは恋がしたかったのだ。
 
店の休みの日に、司は会おうと言ってくれた。いつかのように駅前で待ち合わせ、どことも大して予定を決めずに向かう。
彼はブルーのシャツに、ジーンズ。それが癖のようで、気づくと右の親指を後ろのポケットに入れている。
わたしはいつものジーンズではなく、仕事をしていた頃のスカートをはいていた。三年も前のものだけど、膝丈の形もオフホワイトの色も無難で、やっぱりその頃のバレエシューズに合わせてきた。
司はわたしの姿が珍しいのか、ちょっと首を傾げて眺めた。似合わなくておかしいのだろうかと恥ずかしく、久し振りのスカートが素足に触れるのがこそばゆい。
何駅か過ぎたところで降り、空いた車内のチラシにあった公園の菖蒲園を見に行こうと歩き出した。駅前から緩く公園に向けて傾斜になっている。菖蒲園を目指すのか、人通りも多い。ここには小さな頃、家族で訪れた思い出がある。
途中、彼が自動販売機でペットボトルのお茶を買ってくれた。
共通の話題など、ほとんどない。どうでもいい近所のぶち猫の話や、彼の難解な研究の話。弾まないそれらは、ふつっといきなり途切れてしまう。
言葉の代わりに彼の左の指がふっとわたしの指に絡んだ。
濁った水の中で群れて咲く紫の菖蒲を眺め、それに飽きると、空いたベンチで休んだ。傍らに灰皿があり、司はポケットから煙草を取り出してくわえた。
「僕の母親は、今の季節、菖蒲の束を風呂に入れていたよ」
「花を?」
随分優雅な家だと思った。
「ううん、葉の部分。束を紐で縛って湯船に入れるんだ。病気にならないとか、そんな意味があったよ。地方の風習かな」
「ふうん。いい匂いがしそう」
「どうだったかな、薬草臭くて嫌だったかな」
司の吐く煙が、ふわりと風に流れてきた。不意に、何も言わず彼が立ち上がり、わたしの前に立った。何だろうと思うが、それが煙をわたしの顔に当てないためにしているのだと気づくのに、それほどかからなかった。
煙草の煙くらい、どうだっていいのに。けれども、そんな彼の行為は、肌にひりりとするほど照れ臭くて、そして嬉しい。
手持ち無沙汰にペットボトルをいじり、少しそのお茶を飲んだ。
「お母さんは、じゃあ今もお風呂に菖蒲を入れているのね」
彼はわたしの言葉に、何でもないようにゆらりと首を振った。「母は、もう死んでいる」
彼が言葉を失わせるようなことを言うのは、何度目だろう。あっさりとしたそれに、わたしはしばらく後に、「そう、ごめんなさい」と返した。
彼は「別に」と首を振った。
ほどなく、彼がわたしに差し出した手のひらに、ペットボトルを載せた。彼はそれに平気で口をつけ、またわたしに返した。
再び歩き出し、公園内を回った。雲間から日が差すと、それはまぶしいほどに緑を光らせる。子供の上げる甲高い声や、親の注意の声。しゃわしゃわと葉が風に立てる音。
そんな中、手をつなぎ、取りたて話しもせずに歩いた。
そこで突然、公園の濃く茂った木々からからすが一羽、こちらへ滑空してきた。羽を広げ、何を目指すのか、耳障りな鳴き声を発し、真っ直ぐに突き進んでくる。
嫌だ、と感じたときにはもう既に、耳に届くばさばさという生々しい羽音が、肌を粟立たせていた。
思いの他大きな黒い羽を広げた姿に、一瞬で嫌な思い出が頭に甦った。
あの、兄の消えた夜の黒い影に、どこかでつながるのだ。わたしの目の前をさっと過ぎって消えた、忌まわしい色の影。
嫌だ。怖い。
わたしはいつの間にか、両の手のひらを顔に押し当てていた。いつそうしたのかも、わからない。
「美咲?」
声に手を外すと、やや背を屈めわたしの顔をのぞく、司の瞳があった。「どうかした?」
尋常ではない。いい大人がからすを見たくらいで怯えている。馬鹿みたいな姿だろう。わたしは何でもないと首を振った。
「嫌いなの? からす」
「……うん」
どうしてだろう。彼が大きな手のひらをわたしの頭に当てた。そのまま自分の方へ引き寄せるのだ。煙草の匂いのする、彼のブルーのシャツ。それに頬が当たる。
「顔が青いよ」
「司くん…、人が来る」
「くんは、要らない。司でいい」
肩に回った腕に、彼のシャツの匂いに、気持ちが緩んでいく。目の奥の黒い影は、幻のように淡く、消えた。
気分の悪くなった彼女を介抱するようにも見えるのか、通りかかった夫婦連れが、大丈夫かと訊ねてくれた。それほどわたしは蒼ざめた顔をしているのだろうか。
大丈夫だと返し、それから彼の身体を押した。
「平気だから」
司はわたしに、自分はカマドウマが嫌いだと言った。見つけたら、気味の悪さに固まってしまうと。
「正直怖い」
すらりとのっぽで冷めた顔をした司の、そんな様子を見てみたいと思った。そして、優しさでそんなことを口にする彼を、好きだと思った。
当たり前のように、彼はその後でわたしの右手を取った。つないで、緩く指を絡め、また歩き出す。
恋をしたかった。
それはわたしの心と身体が求めた、芯からの欲望だろう。
けれど、わたしは司と恋をしたかったのだ。


きっとそう。



          

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