月のあかり
4
 
 
 
今でもときに、夢を見る。
兄の消えた夜の、不思議で忌まわしい出来事を。
あれはわたしがまだ十二歳の頃のことで、受験勉強中兄が流す低いラジオの音が、隣の部屋からもれていたのを覚えている。
自分の部屋の壁の向うで、がたっと何か倒れたような気がした。それが薄い眠りからわたしを覚ました。
(お兄ちゃん、どうかしたのかな)
ぼんやりとそんなことを思った。何の抗う声もしなかった。ラジオの音はまだ聞こえた。特に気にもならなかったが、喉が渇いたので、わたしはベッドから出た。
部屋を出て、うっすらとドアが隙間をのぞかせている兄の部屋を、何となく目が追った。明かりが消えているのが、不思議だったのかもしれない。
そのままわたしは下の台所で冷たい水を飲み、また階段を上がってきた。そのときは、兄の部屋の明かりが点き、そしてラジオの音が消えていた。
再びベッドに入り、瞳を閉じた。確か枕もとの目覚まし時計は、十二時半を過ぎていたように記憶している。
それからほどなく、部屋のドアが開いた音を聞いた。はっきりと覚えている。目を開けた瞬間、カーテンが通す街灯の明かりに、ドアから滑り入ってくる形のない黒い影が浮かび上がったのだ。
恐ろしさに、声も出せずわたしはぎゅっと、目を閉じた。
朝になり、兄は消えていた。
わたしはその晩のことを、幾度も繰り返し、両親や警察を始め大人たちに話した。そのたびに、ゆらりとした黒い影は、彼らの中で姿を変えていった。
背の高い大人なのではないか。
黒い衣服を身に着けた男。
単独犯から複数犯のグループではないか。
少年の抵抗のないことから、顔見知りの……。
それらにわたしは違うといい続けた。
(そんなのじゃない)
たとえていえば、あれは水に墨を落としたときにできる流れのようなにじみに似ていた。それが、いきなり広がり、目の前に押し寄せてきた……。
けれどもわたしのそんな言葉は、少女の妄言のようにも取られ、信憑性をもたれなかった。両親にも叱られ、夢や思い込みだと片づけられていった。
わたししか知らないのに。わたししか見ていないのに。わたししか聞いていないのに。
まるで重さを持たないのだと気づいたとき以来、わたしはそれらのことを口にしなくなった。
もう多分、二度と言わない。誰にも言わない。
兄は帰ってなどこない。
 
 
司とのことを最初に感じたのは、父かもしれない。母は家事などもあり、店にいないことも多い。
父は病院の時間以外は調理場におり、多くもない客の応対をわたしがこなすのを知っているのだから。
急に増えたわたしの外出に、病気のせいか肌色の悪い乾いた顔を向けるが何も言わない。詮索する気はないのか、好きにさせてくれるのか。
今に始まったことではないけれど、両親の興味は残ったわたしではなく、消えた兄により向かっている。
それを寂しいとも、悲しいとも、恨めしいとも、侘しいとも思わない。そんなセンチメンタルな少女の時間を、とうにわたしは越えてきてしまっているのだ。
大学の帰り、司が相も変わらず日替わり弁当を買いに来たときも、そこで少し交わす会話の後、父はちらりとわたしを眺めた。何も問わないそれに、
「何? お父さん」
わたしは何でもないように返す。司とのことは言わないでいた。隠すつもりもないが、告げるつもりもない。彼のことで、以前あったような耳障りなことを聞きたくなかった。
父が病気になり、仕事を辞め家に帰ってきた。両親のすることに、もう何も言わなくなった。毎日店を手伝っている。すべきことはしている。
だから、自由に恋くらいさせて。        
乾いて色のなかったような日々が、彼との関係で鮮やかになった。自分が潤うような気がする。ひどく嬉しいのだ。
けれど、そんなとき、物言わぬ父の瞳に胸の深い奥がちくりと痛む。忘れた訳ではない。忘れられる訳がない。
けれども……。
(ごめんね、お兄ちゃん)
呪文のような詫びを、わたしはこれまで、幾つ心で唱えてきたのだろう。
 
 
その日は午後遅くから雨が降った。
約束をして、司と会った。取りたて何をした訳ではない。彼が実験の経過がちょっと気になるといい、つき合って大学に一緒に行った。
研究施設が並ぶレンガ建ての建物に司は入っていき、わたしはその前のベンチで彼を待った。
ほどなく彼が戻り、何となくそのまま緑の多い広々としたキャンパスをぶらぶらと歩いた。日曜なのに、人が案外多い。
その途中、司は知り合いの女の子に呼び止められた。何かを訊ねられ、「それ使ったことないな。岡田に訊いたら? あいつ電算室にいたよ」
「岡田くんか…、ん…、ちょっと説明がディープなんだけどな。ま、いいか」
「僕よりまし」
「一ノ瀬くんの方がいい」
「だって、知らないって」
わたしにはわからない話をちょっとだけして、その女の子とは別れた。ふんわりとした髪の可愛い子だと思った。司は彼女の明るい言葉に笑っていた。仲がいいのだろう。それはわたしの知らない彼だった。
同じ大学で、共通の話題があって、共通の友人がいる。きっとそれは司に居心地がいいはず。楽しくて、余計な面倒がなくて……。
きっと、わたしより彼の隣りが似合う。
それから黙ったまま、わたしたちは気持ちのいい陽だまりの芝生に座った。よくやるのか、司はそのまま腕を枕に寝転んだ。
わたしは芝を指でつまんで、それを何となく司の胸にぱらぱらと降らせた。
「ねえ、美咲」
彼が不意にわたしを呼び、今度つき合ってほしいところがあると言った。わたしは彼のシャツの芝をやっぱり払ってあげながら、よく考えもせずに、「わたしでいいの?」などと返していた。
「え」
司はちょっと虚をつかれたように絶句し、それからわたしの腕に触れた。
「どうかした?」
おかしなことを言ってしまったと、恥ずかしくなってうつむいた。まるでさっきの彼女に妬いて拗ねているみたい。
「何でもない」
「ふうん」
司は身を起こし、あっさりと母親の墓参だと告げた。毎年、命日の前後にそうしているのだという。彼の母親が亡くなっていることは、既に聞いていた。
「一緒に来てほしい」
わたしが返事をためらうと、彼は「嫌じゃなかったら」とぽつりと言い添えた。言葉がすぐに返せなかったのは、彼の誘いに驚いたためと、わたしにそれを向けてくれるその気持ちが嬉しかったから。
そして、そんな彼のごくプライベートに深入りしてしまうほんのりとした怖さ。
いいのだろうか。これ以上進んでも、後悔しないのだろうか。
わたしも、それから司も。
どれほどの間があったのだろう。わたしはどこかで迷いながらも、「うん」と頷いた。
 
帰りには粒の小さな雨が降った。
駅に降り、いつものように商店街を歩く。日曜の五時を過ぎ、閉めてしまっている店もある。うちの弁当屋などは、日曜は店すら開けていない。通勤客が見込めないのと、両親が入信している宗教団体の集まりにそろって出かけるためだ。
シャッターの下りたうちの店の前に、はっきりと買い物客とは違う二人の男性の姿があった。独特の機材を肩に、既にカメラを回している。
間違いなくどこかのテレビ局の撮影だろう。これまで数度失踪者の追跡番組に出た経緯で、ごくたまにその後の問い合わせもあった。
通りの人も、何だろうという目で見ている。
嫌なときに居合わせたと思った。司と一緒のときに、彼らに会いたくなかった。
両親のいないときにどうして彼らが来たのだろう。二人が留守なのならば、話も聞けないだろうに。
わたしは店の少し前で、「ここでいいから」と、司と別れた。
「え」
「ごめんね、また…」
急なわたしの言葉に驚いたのか、司は返事をしなかった。
彼に見られたくない。テレビカメラを向けられている自分の家や、それを遠巻きに胡散臭そうに眺める人の様子を、彼には見てほしくなかった。
わたしは「ごめんね」ともう一度言い、ちょっとだけ司に微笑みかけ、そのまま背を向けた。
おかしな女だと思っているだろう。彼は頷くことも、わかったとも、さよならとも、何とも言ってくれなかった。
わたしは小走りに店の前に行き、鍵で店の扉を開けた。
「ああ、神部さんのところの娘さんですね? よかったぁ。あなたを待っていたんですよ」
カメラを持たない方の男性が、テレビ局の名を告げた。ポロシャツのポケットから角の折れた名刺を取り出し、わたしにくれた。ある報道番組の製作者らしい。
「その番組内の十分ほどの枠なんですが、雅彦くんが失踪後の神部さんのお宅のそれからを…」
「どうぞ。中でお願いします」
わたしは彼の話を遮り、店の中へ彼らを招じ入れた。カウンター前の待合のベンチに座ってもらい、両親が留守のこと、撮影の連絡を自分は受けていないので、後日改めてこちらからテレビ局に連絡すると伝えた。
テレビに兄のことを出すことに、わたしはもう何の希望も持っていない。けれども両親はたまにあるそういった申し出に、ありがたいと、まるで急くように応じていたのだ。
その気持ちは、娘としてやはり痛々しい。
「申し訳ありませんが、今日はお引取りを…」
わたしの詫びを遮って、ポロシャツの男性はなぜかわたしを指差した。「ご両親のお話はいいんですよ。あなたを撮りに来たんですから。前の担当に、神部さんの娘さんはえらい美人だって聞いてたんだけど、誇張がないな。こういうのもインパクトですからね、視聴者にどんな形であれ訴えかけた方が勝ちです」
「え」
男性は、今回の撮影の趣旨は兄の行方を云々という追跡ではなく、兄の消えた後のその後の我が家を撮りたいのだという。以前の撮り溜めたものと、今日のわたしの話をつなぎ、形を作ってしまうのらしい。
わたしはそれに嫌な気持ちがした。わたしは何も知らされていない。
両親の話を聞かないというのなら、今回の撮影は、彼らは連絡も寄越さずいきなりやってきたのではないか。
今後のこともあるだろうと、ちょっとだけ迷い、顔を上げたとき、既にカメラが回っていることに気づいた。
「ご近所の方にお聞きしたんですが、ご両親はある宗教に入られたんですね? かなり篤く信仰されていると聞きました」
「どうしてそんなことお聞きになるんですか?」
こちらの顔を狙うカメラが気になり、わたしは顔を背けた。「関係ないと思いますけど」
「関係ない訳ないと思いますよ。やはり雅彦くんのことで心痛があり、そういった形での何がしかの癒しを求められたのでしょうか。どうでしょう? 美咲さん」
「さあ、両親に訊いて下さい」
「あなたは何か、そういったものを必要とされていますか? 心の傷を癒すような何かを」
どうしてそんなことに答えなければならないのだろう。兄を失った痛みに、父や母が何に癒しを求めているのか、なぜ人に言わねばならないのだろう。
だから、どうしたというのだ。
耐えられないくらい嫌だと思った。質問を続ける男性の膝にはボイスレコーダーがあった。それがつぶさにわたしの声を拾い、彼の背後のカメラがわたしの表情をすべて映すのだ。
それが、どれほどの人の目に入るのだろう。
気分が悪いほど嫌だった。わたしは顔を伏せ、「もう、止めて下さい…」
そのまま立ち上がり、カメラのレンズ辺りを手で覆った。「勝手に写さないで」
「ちょっと、何するんですか? 取材中ですよ」
カメラを押さえるわたしの手首を、ポロシャツの男性がつかんだ。
「写さないで」
そこへ、カーテンで目隠ししたガラスの引きドアが引かれ、思いがけず司が店に入ってきた。
彼はいきなりポロシャツの男性の胸倉をつかんだ。それに、わたしの手首が自由になった。
「彼女に何した?」
「何にもしてない。君こそ何だ? 我々はテレビの取材に…」
「嫌がってただろ」
わたしは司のシャツを引き、「もういい」と言った。ほどなく彼が相手を放し、
「何なんですか? れっきとしたテレビの取材ですよ。また今のような行為があれば、傷害罪で告訴しますよ」
「ふざけんな」
司の言葉に顔を赤くした男性に、わたしは「帰って下さい」と繰り返した。テレビに兄の名が流れるせっかくの機会だったのかもしれない。ご破算になって、両親はがっかりするだろうか。冷たい表情でわたしを見るだろうか。
けれども、どうでもよかった。あれ以上取材を受ける気持ちには、とてもなれなかった。思いやりがなく、意味のある番組内容とも思われない。
男性たちが帰り、司はわたしの顔をのぞき込んだ。「大丈夫? 顔色悪いけど」
わたしはそれに首を軽く振って答え、彼に訊いた。
「帰らなかったの?」
「気になったから」
「…平気。ありがとう」
再びガラス戸が、今度はおずおずといった様子で引かれた。現われたのは先ほどの彼らではなく、隣家のおじさんだった。司をじろりと眺め、それから柔らかな口調で話し出した。
テレビの人たちは帰ったのかと訊くので、それに頷いた。「雅彦くんのことで、あんな連中にあんまり関わらん方が、わしはいいと思う。テレビ用に、お宅のことを面白おかしく作るだけだろう」
前置きのようにそんなことを言い、ズボンのポケットからチラシを取り出した。その広げた紙に、気持ちが一瞬で暗くなった。
両親が入信している団体の勧誘のチラシだった。それが、この当たり一帯にポストに入れられていたのだという。
また……。
 
「前にもお願いしたはずだ。こういうものを配らないでくれと。お宅さんがどんなものを信仰しとったって構わん。それにこちらを巻き込まんでほしい」
六十ほどのその小柄な男性は、美咲にチラシを渡し、彼女が首をやや垂れ、頷きつつ聞いているのをよしとしたのか、
「わしのとこはまだ構わん、無視して見なかったことにすることもできる。けど、そうもいかん家もある。こういったことを、虫唾が走るほど毛嫌いする家もあるんだ。わかるだろう?」
「すみません、両親にはよく言っておきます」
「頼んだよ。まあ、お宅は特殊な事情のあった家だから、わしなんかは理解しとるつもりだ。しょうがない、と家内にも言ってある。けど、三軒先の加納先生のところはこうはいかん」
僕は話を聞いていて、頭にきてしょうがなかった。この親父は一体美咲に何を言いたいのだろう。
「困ったもんだ。まだわしだからいいようなものの」
親切面して、よくわからない嫌味を、言い返さない美咲にぶつけているだけじゃないか。それほど困っているのなら、どうして美咲の両親に直に言わないのか不思議でならない。
僕は後ろを眺める振りで携帯を取り出し、壁に貼った弁当のメニューに載っていた店の番号に電話をかけた。当たり前に、レジのそばの電話が鳴る。
「すいません、おじさん。父にもよく言っておきますから」
「ああ、よく頼んだよ。ほとほと困っているからね」
「すみません」
親父が出て行き、美咲がカウンター越しに受話器を上げたところで、僕は携帯を切った。それをジーンズのポケットに戻す所で彼女に見つかった。
「司なの?」
僕はそれに答えず、彼女の腕を引いた。シャツの胸を彼女の頬がぽんと打った。
「ねえ、時間ある?」
「何?」
「うちに来ない? 猫がいるかもしれない」
ぷっと僕の言葉に彼女が笑った。
「猫で気を引くの?」
「嫌い?」
彼女の目が、迷う風にちょっとだけ泳ぐ。その後で幾度か瞬いた。
僕が見つめる彼女の瞳は、その長い睫毛がいつしかふっくらとした涙の粒を弾かせた。
「嫌なことばっかりあったから…」
 
彼女の泣き顔をきれいだと思った。
僕のシャツに、彼女の涙がすべて移ればいいと思った。



          

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