月のあかり
(5)
 
 
 
司の家にこれまで入ったことはなかった。
少し朽ちた冠木門から玄関までの間、彼の祖父母の手が入ったらしい植え込みが並んでいる。既にばらばらに枝を伸ばしたそれは、雨を受け小さな葉をぬらし、ぷんと緑の匂いをさせる。
司が茶の間にわたしを招き、それからその庭側の窓を開け隙間を作ると、言ったとおり白い猫がするりと中に入ってきた。慣れないわたしをちょっと威嚇する風を見せ、すっと廊下へ出て行った。
「飼っているの?」
わたしは猫の後を視線で追い、彼に訊ねた。司はううん、と首を振り、でも餌くらいはあげると言った。台所の入り口に、キャットフードの袋が見える。
家に上げ、餌を用意する。それでも司は飼っているつもりがないと首を振るのだ。
「あいつの気紛れで、来ない日もあるから」
「ふうん」
あの白い猫に何となく自分の影を重ね、それで不安になった。時間を割きわたしに会い、母の墓参にも伴う。それは彼の中で、どれほどの重きを持つのだろうか。特別などではないのだろうか。
テレビと、茶色のテーブル。その上に乗った吸殻の残るガラスの灰皿。畳の上には新聞とダイレクトメールがちょっと山をなし、隅に追いやられている。そのそばの不似合いに新しいノートパソコン。研究書類らしいものやそれらの本。
「ごめん、言ってなかった。散らかしているって」
ぼんやりと辺りをさまようわたしの視線は、司の声で彼に戻った。
「ううん。男の子の一人暮らしだもの…」
「ねえ」
わたしの言葉を遮り、司が腕を引いた。彼の腕の中の感覚に、わたしはまだなじんでいない。シャツを通して伝わる肌の温度と、彼の匂い。背中に当てる手のひらの大きさ、腕の強さ。
始まったばかりの恋の、ぎこちないほどの触れ合い。
胸の中がぱちぱちと小さな音を立てるように、彼にときめいている。この時間にうっとりとしている。
「僕は、頼りない?」
「え」
その問いに、まったく虚をつかれた。
「年下で、子供っぽい?」
「何を…」
言いかけた声を、彼の唇が塞いだ。初めてのキスが塞ぐ。
唇が離れ、彼がわたしの頬に手のひらを当てた。長い指が髪から耳を緩く押さえる。
子供っぽいだなんて、思ってない。頼りないとか、年下だとか。そんなこと、思っていない。
ただ、わたしがあなたに相応しいのか。そして進み過ぎて、深く入り込み過ぎて本当にいいのか。迷うだけ。ためらうだけ。
 
だって、失うのが怖いから。
 
司の瞳がほんのすぐそばにある。わたしを見下ろすそれは、前髪がほんのり目尻を隠す。
こんなそばにいて、呼吸する胸がまるで痛い。それがわたしに気づかせるのだ。自分で思う以上に、わたしは彼が好きだと。
「僕にできることは、少ないかもしれない。でも、…一人で抱え込まないでほしい」
「……司がいなくなったとき、怖いから」
「いなくならない」
もう一度触れかけた彼の唇を、わたしは顔をやや背け逃げた。「わからないでしょ、…そんな、先のことは」
言ってしまってから、何を言っているのだろうと、ほぞを噛むのだ。好きなくせに、こんなに好きなくせに。今更、どこへ引き返そうとしているのか。
「いなくならないから」
抗い難い力で、司はわたしの頭を自分の胸に押し当てた。額に彼の鼓動が響く。とくんとくん、と。規則正しいそれは、わたしの耳にじかに流れてくる。
「…あげる」
「え」
彼がつぶやいた言葉を、聞き取れなかった。ほどなくそれは、彼が唇を置くわたしの髪に絡んだ。
「僕をあげる」
ぽつりとした司の声は胸に届き、そこで思いがけず大きくなった。水面の輪のように幾重も広がり、しっとりとわたしの中で響いた。
抱きしめる彼の匂い。煙草の香が混じるそれは、この家の空間にふんわりと漂っている。
それに包まれ、わたしを帰りたくなくさせる。このままここにいたくなるのだ。
離れて一人になりたくない。
繰り返すキスの狭間で、そんな自分の恋を思い知る。
 
いつしか日が暮れている。
どこからかふらりと戻ってきた猫の背を撫ぜると、身をかわすように、するりと台所へ行ってしまう。司はその後を追い、キャットフードを与えた。
「そろそろ、帰るわ」
壁の時計は七時を過ぎている。両親はもう帰っているだろう。食事の仕度もしていない。機嫌を悪くしている母親の顔が目に浮かぶ。日曜の夕飯を作るのは、ほぼわたしの役目になっていた。
「じゃあ、送るよ」
そのまま彼と家を出た。雨はもう上がっており、その後の土の匂いを含んだ湿気が鼻をかすめた。
並んで歩く。腕が触れ、指が絡む。
次の約束を交わし、彼の母親の墓参のことを少し話した。「ちょっと辺鄙なところにあるから、車で行こう」
「運転できるの?」
「フォークリフトも乗れるよ」
ちょっと拗ねた声が返ってきた。いけない、と思いつつ唇が緩む。ちょっとだけそんな司は可愛い。
商店街に戻り、まだ店を閉めない電気屋のショーウインドウに並ぶテレビが、ニュースやバラエティー番組などを雑多に流している。
何気なく、時間の確認のつもりでテレビ画面の一つを見た。NHKのニュースで、与党の大物政治家の顔の上に、七時三十五分とデジタル表示が時刻を示している。
「父親」
「え」
ぽろっと肩越しに上から降ってきた司の声に、彼を見上げた。こちらを見る目は、わたしを通し、その向うのテレビ画面を斜めに見ている。
「あれ、僕の父親」
彼が指差す先に、先ほどの政治家の顔があった。冗談だろうと、もう一度彼を見た。司は少しも笑っていない。きれいな鼻梁を、一瞬、むずかゆいかのようにほんの少し歪ませた。
「司?」
彼は「あの」と、顎でテレビの政治家を示し、
「僕の母親は、『緒方恭一』の妾だった」
そのまま緩んだ歩調を戻し、淡々と告げた。今の姓の一ノ瀬は母方の姓であること。戸籍上自分は、実父の緒方恭一の秘書の子供となっていること……。
「彼は母に、僕の認知もしてやっていない」
司は「金だけはくれる」とつないだ。冗談にしては面白くもなくシビアで、真実にしては重過ぎる。わたしは結局、掛けるべき言葉を見つけられず、黙ったままでいた。
彼の口調に苦いものはなく、何だか、うちの日替わり弁当でも頼むような調子だった。
事実なのだろう。そういったことは、理屈ではなく肌合いで感じる。
「多分、美咲が初めて。こんなこと言うの」
また彼の乾いた声が、ぽつりと肩越しに降った。
 
兄がいなくなってから、これまでわたしがいつしか抱えてきたどこか黒いものは、常に腕の中にあったように思う。ときにそれが嵩張り重くなり抱え切れなくなった。けれども、それはわたしの目の届く腕の中にあったのだろう。だからその意味も中身も、よく知れたものだった。
司はどうなのだろう。靄のような何かでも、おそらく、ないはずはない。なければ、無駄に告白めいたことを口にしたりしない。
きっと彼の持つそれは、わたしのものとは違い、どうしてか背に負うもののように思う。彼の内側とは関わりのない、そして彼には見えないもののように思うのだ。
刻まれた、何か。
どうしてそれをこれまで、少年だった彼は負ってきたのだろうと思う。ときにそれは淡くもなり、また気紛れに重くなり、嵩を増すのに。
「司」
わたしは何とはなしに彼の腕に触れた。そのまま自分のそれを絡める。わたしに打ち明けてくれた彼の優しさも、それほどの近くに置いてくれるその距離も。思いも。
嬉しいから。
一瞬が惜しいほどの、彼との時間を今わたしは感じている。
ちょっと目をやった薄い色の夜空に、小さく光る星が瞬いてきれいだった。




          

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