月のあかり
6
 
 
 
その日、美咲の目は赤く、泣いていたかのように涙の跡を引きずっているように見えた。
約束の時間に二十分ほど遅れ、彼女が姿を見せたのは、午前八時少し前だった。その頃には、ぽつぽつと庭の葉をぬらす雨音がし始めていた。
「また降ってきた。雨女なのかも」
雨の音を背景に、自分の腕をやんわりと抱く彼女は笑顔を浮かべていてもそれは上滑りで、まるで出会いがしらの客に向けるようなものだった。「司に会うとき、雨ばっかり」
靴を脱ぎ、屈んで向きをそろえている。白いTシャツの肩から背が、ひどくほっそりと華奢に見えた。
「ねえ、どうかした?」
僕の視線に美咲は、ちょっと照れたように瞳を逸らし、「コンタクトが合わないの…」と何度か瞬いた。
「本当?」
「司、食べてないでしょ。簡単なもの作ってきたの」
僕の詮索を遮り、彼女は手の小さな紙袋を茶の間の飯台に載せた。中には海苔巻きが入っていた。
これから僕の母の墓参に向かうことになっている。混み具合にもよるが、車で往復五〜六時間程度かかるだろうか。順調に行けば、彼女を遅くに帰すことにはならない。
僕は海苔巻きを頬張りながら、餌をねだりにきた猫にキャットフードをやった。台所の隅に置いた皿に、立ったままでばらばらと落とし入れる。幾つか粒が跳ね、その辺に散った。
いつの間にか美咲がいて、不意に僕の背から腕を回した。そのときふわりと彼女の柔らかい髪の匂いがした。背に頬が触れる。
「好き」
つぶやく声が聞こえた。
僕はキャットフードの袋を閉じて床に落とし、口の中の海苔巻きを飲み込んだ。彼女の手を自分の手のひらに包み、指を絡めながら問う。「何か、あった?」
彼女の思いがけない甘い仕草に、気持ちが踊り、そしてどこか不安にもなる。
しゅんと鼻をすするような小さな音がした。
「…忘れていけないのかな…」
「え」
「ひどいのかな、わたし…」
彼女は言葉少なく、先の言葉を補った。僕とのことを親が知り、そのことで注意以上の言葉を受けたという。
 
『もう忘れたの? 雅彦のことを』
『美咲は、お兄ちゃんが可哀そうじゃないの?』
『自分の楽しみばかり』
『お父さんやお母さんの辛い気持ちなんて…』
 
「忘れた訳では、ないの。今だって…」
それらがきっと、彼女が目を赤くしていた本当の訳。
「ひどくない」
どんなことであれ、時がたっていけば薄らぐ。環境が変わり、年を重ね、経験に紛れていく。
僕も母のことを、いつまでも頭に置いたりなどしていない。実父のやりようすら、じめじめと恨んでなどいない。消えずに形を変えて、自分のどこかに残る。そんな気持ちの流れを、敢えてせき止めてこなかった。
それは多分、辛さを忘れたいからだ。違う自分になりたいと望むからだ。優しさや愛情とはまた別種の願望で、それらが生まれることが、酷薄だということにはならない。悲劇に遭った人間は、前を見てはいけないのだろうか。
「ひどくなんかない…」
もっと言葉をつなごうとして、美咲の声がした。「家族なのに」と。
君はひどくない。
結局僕は、彼女の手を強く握ることで言葉に代えた。どんな言葉も的を射ていないように思え、そしておそらく彼女も、僕の気休めの言葉など望んでいないから。
多分言葉では、埋められない。
 
 
祖父の古い型のジープは、シートから澱んだ煙草の煙のにおいがした。散々吸い散らかした祖父と、そして僕のせいだ。
雨は時折激しく振り、また小止みになり墓所に近くなる頃には止んでくれた。
昼食を食べてから、山間にある母の墓に向かった。伸びた雑草があちこちはびこり、ぬかるんだ道は舗装がなされていない。
それでも墓が並ぶ辺りは寺の管理が行き届き、整然として感じる。美咲が選んだ花を、線香と一緒に祖父母も眠る墓に供えた。そして、今年も僕らの遠くない以前に訪れた人の跡がある。まだ色の褪せない赤い花が残されていた。不思議とかち合ったことがないのが、むしろおかしい。
手を合わせた後で、またぱらぱらと雨が降り出した。
駐車場に戻る道、安っぽいビニール傘に二人で入り、「雨女?」と彼女をからかった。
美咲はちょっと後ろの墓所を振り返り、引っ掛かるのか、ちらりと僕の顔をのぞく。
「ねえ、あの赤い花……」
「父だろう。本人じゃないだろうから、その使いの人だと思う」
「ふうん」
「毎年あるよ」
「そう」
ここに来るまで、彼女には母のことを伝えてあった。政治家の緒方恭一と出会い、そしてその妾になり、僕を生んだこと。長くその生活にあったこと。それがため、祖父母からはほぼ縁を切られ、死んでようやく許しを得、生家の墓に入ったこと。
それから、母の死が自殺であったこと。
そのとき美咲はそれらを黙って聞き、ふっと、シフトレバーを握る僕の指に自分のそれを触れさせた。
多分耳にした者が、優しさに言葉を途切れさせてしまうほどの僕の過去。自分ですらやはり忌まわしさが匂うのだ。憐憫を向けられるのも、それを拭うのも面倒で、これまで他人に口にしたことがあっただろうか。
しまい込み、硬く栓をしたはずの僕の秘密は、彼女の存在の前でほろほろと緩む。流れていくのを知る。それは思いがけず心地よかった。
確かに僕の一部をなすパーツを、美咲は言葉にしないで触れることで受け止めてくれた。
『大丈夫』。
声のないそれに、僕は彼女のちょっとだけ低い声を感じた。
美咲に望むものが慰めの言葉ではないことを、きっと彼女は肌で知っているのだろう。
そんなことでわかり合える。
僕たちはどこか、似通っている。
 
 
帰りの道は事故車両に巻き込まれ、やや混んだ。
午後七時を回り、空は暮れてきた。またぽつりとフロントガラスを雨粒が打つ。
司は助手席のわたしに、携帯を渡した。遅れることを家に連絡したらどうか、と言う。
「いい、まだ七時だもの。遅くなるかもって言ってあるから、平気」
「そう」
それ以上彼は勧めない。とりとめのない会話を交わし、それがまた途切れる。この日長く二人きりでいて、その沈黙が気楽なことにわたしは気づいていた。
そういえば、と思い出す。以前友人と理想の恋人について話したとき、わたしは「無言でいても、辛くならない人」を挙げていた。沈黙が苦しくなるのは、自分の中のサインのようにわたしは考えていた。互いの空気が違う、相容れないといったようなサインに。
それが思いもよらず、こんな風に叶っていることが、不思議なようで、ちょっとおかしくてやっぱり嬉しい。
ふと、うかがう隣りの司は、真っ直ぐに前を向き、両手をハンドルに置いている。ときにちょっと欠伸をし、小首を傾げて唇を噛む。ときに伸びてきた前髪を、長い指でかきやる。そんな仕草は、そばで見ているだけで嬉しくて切ない。
離れたくない、と思う。
ずっと一緒にいたい、と思う。
そんなことをじんわりと思い知るのは、今朝母になじるような言葉を受けたためかもしれない。
『美咲は、自分のことばかり』
今朝早く起き、両親の朝食と司にあげる海苔巻きを作るわたしが、既に化粧も終えているのを見て、母が言った言葉だ。
母は取立て彼との交際を咎めない代わりに、苛立ったようなあきらめのような嫌な小言を時折降らせた。当たり前に恋をし、それを楽しむわたしが面白くないのだろうし、不快なのかもしれない。
 
『家族なのに』
『お兄ちゃんが可哀そうじゃないの?』
 
こんなことを思うのは、不遜だろうか。嫌な娘なのだろうか。
「お母さん、わたしは、可哀そうじゃないの?」。口にできない、きっとしないだろう母への問い掛け。
これまでも我慢はしてきた。両親の信仰も。以前の彼に放った暴言も。辞めたくない仕事を辞めて、実家に帰ってきたことも……。
許してほしい。
この恋を妨げないでほしい。
わたしには司しかいない。
きっと、司にもわたししかいないだろうから。
だから、帰りたくなくなる。
「ねえ、司…」
「何?」
一瞬だけこちらに瞳を向けた彼の頬に、わたしは告げた。本当は、朝から決めていたのかもしれない。
「今夜、泊めてほしい。帰りたくないの」
ちょっとの間の後で、彼は小さく頷いてくれた。「いいよ」と。
 
司の家に着いたのは十時に近かった。ガレージに車を入れると、随分草を刈っていない庭から、蛙のような虫の音のような音がする。
白い猫のいる茶の間で、「あ」というほど自然に抱き寄せられた。キスが唇から首筋に滑り、わたしの中でそれを阻む気持ちがないことに気づく。
きっと、司に触れてほしいのだ。
抱いて、温めてほしいのだ。
乾いた彼の指がTシャツの中に入り、ブラの上をするすると何かを探す。その仕草がちょっとだけおかしい。ほどなくぽつっとかすれた音がして、ホックが外れた。
彼の手のひらが乳房を包んだとき、恥ずかしさが込み上げてきた。少し身をよじり、わたしは暗くしてほしいと頼んだ。司が手を伸ばし、照明のコードを引く。それで、八畳の束の間の闇ができる。
身を倒した畳の少し湿った匂い。彼が外すバックルの音。やはり庭から虫か蛙の声が届く。生々しく辺りに一瞬散り、溶けていく。
指を絡め、次第に慣れた暗闇の中で見つめ合う。
初めて彼に肌で触れること。抱き合うこと。彼を感じること。つながること。声をひそめ、小さくささやき笑い合う。
「きれい」
「あんまり見ないで」
嬉しいと思った。
それで、涙がにじんだ。
司が好き。
 
少し唇を離し、司がつぶやく。目の前にある彼の唇は小さく動いた。
「一緒に、暮らさない?」



          

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