月のあかり
7
 
 
 
一拍の呼吸の後で、美咲は「ううん」と緩く首を振った。
身を起こし、膝をそろえ、かき寄せたTシャツを胸に抱き、「ありがとう」とつぶやく。
彼女の返事はわかっていた。多分首を振るだろうこと。頷いてくれないこと。
美咲は僕の頬に指を這わせ、それを耳もとに流した。くるくると指で髪を絡める。
「司のことを信用していないとか、…そういうことじゃないの」
「いいよ、言っておきたかっただけだから」
覚えていてほしいだけだ。彼女の必要なときに取り出して、僕に突きつけてくれたらいい。
僕はついでのように、修士課程を終えた来春、某メーカーの研究所勤務が内定していることを告げた。
そんなことを口にしたのは、彼女に何がしかの安心をしてほしかったのと、いつまでも学生ではないのだからといった、ちっぽけなプライド。そして、自分が頭か胸の奥底で、日々に彼女の存在を求めているから。
「あ、知っている、その会社。洗剤を使ったことがある」
そう言った後で、美咲は小さな声で、少し前まで家を出ていたこと話し出した。それは暗がりの中で庭から届く虫の音に妙に和していて、耳に心地よかった。
「短大を出た後、就職で家を出たの。仕事より何より、本音はあの家にいたくなかっただけ。外に出られるのならどこでもよかった……」
他県の寮のある繊維会社の事務に就き、そこで二年ほど働いた。
「お給料も安くて、寮にいなかったら食べていけないくらいだった。でも、誰もわたしのことを知らないの。兄のことも、両親のことも。それが楽だった。新しい友達も出来たし、仕事も徐々に覚えた。盆暮れに帰省するのが嫌になるくらい、楽しかった」
そんな生活に終わりが訪れる。実家の父親が肝臓の病気で倒れた。彼女の仕送りなどでは生活もままならない。
「信じられないだろうけど、うちの両親、ほとんどの貯金や財産を入信している団体に寄付していたの。幸い、父は持ち直してくれたけど、定期的に通院することになったし、歳もあるし、無理も効かない身体になったの」
それで父親の退職金の残りで自宅を改装し、弁当屋を始めることになった。両親の二人では、慣れない仕事に手が追いつかず、結果家を出ていた美咲が、仕事を辞め手伝うことになった。
そして、今に至る。
すごく嫌だった。と彼女は言った。帰りたくなかった、と。実家に戻れば世間の目は、彼女を奇怪な失踪をした兄に絡めて見、そして新興宗教に妄信する両親に絡めて見る。
「嫌だった……。冷たいけど、嫌だった。実は、その頃つき合っていた彼に、結婚の話をされていたの。でも、両親と会って、それも壊れちゃった。父も母も、彼に信仰の決まりごとを押し付けるし…、他にもあれこれあって、きっとびっくりして嫌気がさしたのよ。」
美咲は膝を抱え、うつむき加減に言葉をつないでいく。彼女が淡々話す過去の出来事は、自虐な色合いが不思議とない。既に彼女の中で傷となって残っていないのだろうか。
それでも声も、その露わな肩も、痛々しい。引き寄せて抱き、
「僕は、違う。知っているから…」
「違うの、そうじゃないの、司」
彼女は僕の胸に頬を預け、「それでも、選んだの。わたしが家に残ることを選んだの」
彼女の声は続く。
「見捨てられないから」
彼女はきっとひどく優しいのだ。色んなことに目をつむり、それでも両親を守ろうとしている。出来る形で、彼女なりに兄のことを悼んでいるのかもしれない。
「それでもいい。また好きなとき、思い出して」
僕は彼女の肩に唇を置き、言い添えた。
「好きだから」
 
 
外泊の翌日、早朝に帰宅すると母はひどく機嫌が悪かった。わたしはそれに取り合わず、エプロンを着け開店の仕度を手伝った。
店の調理場ではご飯を炊き出しており、その炊き上がりを知らせる釜のブザーが鳴った。父も日替わり弁当の仕込みを始めている。今日はだしまき卵に筑前煮と煮豆のようだ。そばに行き、筑前煮の材料を炒め出した。
ぷんと辺りに香る油の匂いと、香ばしいご飯の匂い。その中で無言で作業を進めるわたしの背に、母がきつい声で文句を言う。
嫁入り前の娘が外泊なんかしてみっともない。いつからそんなにふしだらになったのか。男に夢中になった破廉恥な娘には嫁の貰い手がなくなる……。
以前両親二人して、わたしの結婚を潰してしまったことなど、記憶にもないのか。
わたしは煮汁の味見をした後で、「お嫁になんか、きっと行けないわよ」と言い返した。
「嫌な子、美咲は。男のことしか頭にないんでしょ? 辛いお母さんの気持ちなんて、ちっとも…」
母の声がややヒステリックに響き始め、わたしはうんざりした。最近はいつもそう。母の言葉に耐えかねて反論すると、甲高い声で、その何倍もの嫌味に似た叱責が返ってくるのだ。
内容は大して変化がない。司とつき合い出したわたしを、ふしだらだとか、みっともないと罵り、必ず辛いお母さんの気持ちをわかってくれないと続く。
「なんて嫌な子。反省もしないなんて」
言葉自体がもちろん耳にいいものではないけれど、一番嫌気がさすのはその声音だ。低くまるで題目を唱えるようなものから始まり、最後にはきんきんと甲高く響く。あれは聞いて、背筋が寒くなるほど嫌だ。
母も参っている部分があるのだろう。けれども、このままではわたしも参ってしまうのじゃないか、と怖くなる。
わたしは、それほどひどい行いをしているのだろうか。そこまで罵られるほどの、何をしたのだろう。
「おい、電話だ」
不意に、父がわたしを叱る母に声をかけた。奥の家の方を顎で示す。それに母も言葉を切り、奥へ消えた。
父は何も言わなかった。ただあまり上達しない卵焼きを丸めるのに懸命になっているようで、わたしの方も見ない。
奥の間からは、同じ信仰の仲間からなのか、母のよそ行きの声が届く。
筑前煮を炒り上げ、火を止める頃、ぽつりと隣りの父の声がした。
「母さんの言うことは、気にするな」
「え」
その言葉に、わたしは父の顔を見た。下を向き鍋に注意を向けているだけの硬い頬。
あたった髭にやや白いものが混じる父の横顔。
それを見ながらわたしは返事もできず、見つめるばかりでいた。父は無口で、母の声にこれまで何の反応もしなかった。わたしは無意識に、父も母とそう変わらず、同意見でいるのだろうと思っていた。
失った兄がまずあり、残ったわたしを慮る余裕などないのだと思っていた。少なくとも、見せてはくれなかった。
何が変わったのだろう。
何が……。
嬉しいような、そして泣きたいような気分でいたのだ。
 
 
司がくれた言葉は、真に嬉しかった。耳で聞きそれは胸が捉え、しっかりと心の奥に届いた。
『一緒に、暮らさない?』
何でもないかのように、当たり前のようにあっさりと口にしてくれた。思いが、そして決して押し付けず、わたしのことを考えてくれるその気持ちが嬉しいのだ。
彼の辿ってきた過去。その甘くない輪郭を知り、あのどこか冷めた表情を見せる癖の根っこの部分に触れたような気がした。
どう乗り越えてきたのだろう。ごく普通に、司は過去を肩に乗せている。
辛くない訳はない。あの切れ長の瞳が、涙を湛えたことだってあるに違いないのだ。
一人で、どうやって通り抜けてきたのだろう。
どうやって……?
不意に悲しさが甦ることはないのだろうか。一人が怖くなることは……。
そんな疑問や思いは、彼への恋に裏打ちされ、放っておけない気持ちにさせる。
身体を重ねて、気持ちに触れ、過去を見た。わたしはきっと司の少しだけ奥にいるのだろう。
それにどこか安心している。わたしは彼の特別でありたい。
 
どこかに無意識に発端を作ったのは、本当は自分の方でないのかと、ほんのりと勘く自分がいるのだ。だから、母を恨めない。
夕飯の後の後片付けで、ちょっとした母の嫌味と苦言が癇に障り、つい言い返した。
それに母が、これまでのように何倍もの皮肉と叱責を返す。居間の方から父の流すテレビの野球中継の音がした。
誰かのホームランが放たれた歓声。その後で、今まで聞いたことのない母の言葉に手の皿を流しに落とした。
 
「まー君じゃなくて、美咲がいなくなればよかったのに」
 
それは二度続いた。わたしが声を返さないと、更に甲高く続いた。その剣幕に父が放っておけずに台所へ顔を出した。
「何を言っているんだ?」
わたしは流しっ放しの蛇口を止めた。それに一瞬沈黙ができた。
母の言葉は、慣れたわたしでも、それでも頬を思い切り張られたような衝撃だった。しばらく言葉もなく、わたしは押し黙り、そのまま床にしゃがみ込んだ。
「美咲が、いなくなればよかったのに」
「おい、何てことを言うんだ」
ここにいたくないと思った。
それだけが頭を占めた。
 
堪らなく、司に会いたかった。
母の言うように、わたしは嫌な娘なのかもしれない。




          

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