月のあかり
8
 
 
 
隣りで、美咲が寝返りを打つ気配で目が覚めた。
もともと眠りが浅かったのか、彼女が着替えるそんな小さな朝のざわめきも、目を閉じているのに感じられる。
枕元の目覚まし代わりの携帯は、まだ鳴らない。僕は何となく、腕をそこへ伸ばした。
可愛い欠伸混じりの声で、「7時前。もうちょっと寝てたら? 起こしてあげるから」と、降ってくる。
それに僕は携帯を放り出し、半分とじかけた目をまたつむった。小鳥の声がやたらと耳につく。
どれほどかして、また美咲の声で目が覚めた。起き出し顔を洗い、Tシャツにスウェットのまま彼女の用意してくれた朝食を食べる。テレビから朝のニュース番組が天気予報を流し、白猫が飯台に向かう僕の膝に足を掛けた。
「ねえ、今日は遅いの?」
「そうでもない。夕方頃には帰れるよ」
「ふうん。ねえ、じゃあ○○公園に、あじさいを見に行きたいの。どう?」
「いいよ」
小さな約束を交わし合う。そんな似たような朝を、もう幾日迎えたのだろう。
 
ある夜、美咲がこの家に不意に訪れた。
「『一緒に、暮らさない?』って、まだ有効?」などと、冗談のような軽い調子で笑いながら訊いた。けれども、その何気ない問いの底に美咲の辛い声を聞いたような気がした。彼女は思いつきで家を出てくるような人じゃない。
「司と一緒にいたいから」
僕はそれに頷き、彼女を受け入れた。
理由を訊くべきか問わないべきかで、ちょっとだけ悩んだ。彼女の目尻には涙の名残りがあったし、どこか無理をして明るく振舞っているような気配が見えたから。強いて何かを聞き出すことも、そうされることも、僕は大嫌いだ。
結局僕は問いの代わりに缶ビールを渡した。彼女はそれを手の中でしばらく弄び、プルトップを引いた後で、自分から話し出した。それに僕はちょっとだけほっとしたのだ。彼女の抱えるものなら、僕に投げてくれればいい。それは僕の役目だろう。
僕はきっと、煙草でも吸ってやり過ごせるから。
「あのね…」
美咲の話は、なぜか彼女の兄が消えた夜のことから始まった。階下の両親の寝室とは違い、自分の部屋が兄の部屋の隣りにあったこと。不審な音がしたこと。兄の聴くラジオの音が急に止んで、明かりが消えたこと。それらを彼女は廊下で、ドアの隙間から知ったこと。
「寝ていたら、部屋にドアから黒い影が入り込んできたの。カーテンみたいな、からすの大きな羽みたいな…黒い影が見えたの」
そのエピソードに触れるとき、彼女の肩がびくりと震えた。それに、僕は以前彼女と行った公園で、ひどくからすに怯える癖を思い出した。あれは、きっとこのことに起因するのだろう。
その影は、彼女が恐ろしさに目を閉じていた幾ばくかの間に消えていた。そして次の朝、兄の姿が消えていることにつながるのだ。
美咲は、形ばかりにつけたビールの缶をやっぱり手の中で弄び、逡巡するように僕をちらりと見た。
「わたし、誰にも話していないことがあるの」
「え」
彼女は先の黒い影の話を、繰り返し散々大人たちにしてきた。けれども結局、少女の馬鹿な妄想や錯覚とあしらわれ、注意を置かれなかった。そんなことを口走る彼女を、奇異な目で見る者もいた。
だから、黙っていたのだという。言っても、信じてもらえないばかりか、呆れられるのがせいぜいだと。口を噤んでしまった。
「お兄ちゃんは…」
美咲は僕の前で初めて、兄のことを親しい呼び名で呼んだ。それに、ちょっと生々しさを感じた。僕の知らない雅彦という彼女の兄。失踪し、消えてしまった彼は、確かにある期間美咲のごく親しい近い人物として存在したのだ。
それに、僕はこんなとき気づかされている。
「『僕、イクヨ』って、言ったの」
「美咲?」
「その黒い影から、声がしたの。わたしが怖くて目を閉じて、…それから次に目を開けたとき、消える間際の影から、お兄ちゃんの声が聞こえたの」
 
『僕、イクヨ』。
 
それ以上の声は聞けず、そのまま影と共に消え去った。
彼女は缶を畳に起き、両の頬を指で押さえている。照明に彼女の白い顔は照らされ、そして頬はやや朱色に紅潮していた。
「兄は…自分から、消えたの。『イクヨ』がどこかへ向かう『行く』なのか、死の『逝く』なのか、わからない。その理由も訳もわからない。けど、自分から……」
だから、
「お兄ちゃんは、もう決して帰ってこないの」
美咲はそこで涙をこぼした。頬の指でそれを拭い。「知っていて、言わないの。父にも母にも…、ひどいでしょ? わたし、ひどい…」
「言っても、信じてもらえないんだろう? そう思ったんだろ? だったら、しょうがないじゃないか」
僕は膝を抱えた彼女を抱きしめた。
「ひどいわ、わたし。お兄ちゃんの最後の言葉を…自分だけのものにして…、だからお父さんもお母さんも、おかしくなっちゃって、ばらならみたいな家族になって…、壊れちゃったの」
「変わらない。美咲が話していても、変わらないよ」
彼女の両親は、消えた愛する息子の存在が忘れられずに、苦しみ続けているのだ。その果ての信仰であり、残った美咲を縛ることなのだろう。たとえ彼女の告白があったとして、どれほど事態が好転したか。
「どこかで恨んでいたのかもしれない、わたし。ちっともわたしに気をかけてくれなくなった二人を、やっぱりどこかで、憎く思って…、だからお兄ちゃんの言葉を独り占めしたのかもしれない…。言ってなんかあげないって…、馬鹿みたいに」
「美咲は優しいよ」
確かに優しい。そうでなければ、独り立ちした後は、寄り付きさえしないだろう。それを彼女は、父の病気の際に敢えて『見捨てられないから』と帰ってきている。多少憎しみを感じていたとしても、それは自然な心理だ。何も感じない方がどうかしている。
「君は優しい」
恨み過ぎると、存在すら忘れる。自分のこれからの人生と交わることすら嫌うようになる。約束どおり、ただ金だけくれればいい。
後は母への愛情を、ちょっと問うてみたい。毎年の命日に墓に手向ける花の意味を、知りたいと思うばかり。壮年を過ぎたインテリ男のセンチメンタルなのか、ポーズなのか、何なのか。
もし知ったとして、僕にはどうでもいいのではないか。
美咲は僕の腕の中で涙を納め、「ごめんね、変なこと言って……」と、照れた声で言った。
「父には断ってあるの。許可ももらってあるし…大丈夫。ごめんね、司に迷惑を掛けて」
「迷惑なかじゃないよ。僕が言い出したことだよ」
「うん…、ありがとう」
華奢な彼女の温度が、薄いシャツを通して、僕に伝わる。それに嬉しさと同時に彼女の儚さや痛々しさが伝わり、強く抱きしめたくなるのだ。
そして寄り添うことに、僕は何だか、ちらりと自分の中の足りなかったものを埋められていくような、そんな気持ちを覚えている。
恋や性だけではなく、彼女がそばにいてくれることが、ひどく僕を癒してくれている。
それに、僕はいつ気づいたのだろう。
 
 
あじさいを見た帰り、そろそろ暮れかけた夕景に、近所の開け放した窓から、夕飯の仕度の匂いが漂う。
家のすぐ手前で、司はサンダルの足をふっと止めた。それまではとり止めもない話をしていた。彼の友人との飲み会の話や、それにわたしを連れる気でいること、今夜の夕飯の話に流れ、わたしが新しく始めた花屋のバイトの話に落ち着いた。
家の前のそう広くない道路に、グレーのセダンが駐車している。ハザードを点けたままのそれは、エンジンを切っていない。
「司?」
傍らの彼を見上げると、自分の驚きに「あ」とでも言うように、また歩を進めた。家の冠木門の前で、玄関から戻ってきたらしい紺のスーツ姿の男と鉢合わせした。
小柄なその中年の男性は、司に慇懃に挨拶をした。
「お留守かと思って、名刺をポストに入れたところですよ」
「何か用ですか? 新田さん」
その声音に、わずかな棘を感じてわたしは司の顔を見た。ちょっと苛立ったかのような、彼の頬の強張りを感じた。
ジーンズのポケットに手を入れ、緩く小首を傾げながら、スーツ男性の言葉を待っている。
新田と呼ばれた彼は、「まあまあ、そうおっしゃらず」と物慣れたように応じ、わたしに視線を向けた。「どうもどうも、わたくし新田と申します」。
わたしはそれに返せず、やっぱり司をうかがった。
「こちらのお嬢さんは? 坊っちゃん」
新田氏は小さな目を丸くし、軽くからかう色を見せて司に訊ねる。それに司はわたしの手をいきなり握り、自分の背後に押しやるようにし、
「あなたに関係ない。だから、用は何?」
「まあ、調べるのは造作もないことですがね…、坊っちゃんがそうおっしゃるのであれば、まあ、よしとしときましょう」
司の仕草に面白そうに顔中を笑みで埋め、すぐにそれをほぼ消し、まだわずかに残る口許の微笑をそのままに、
「近いうち、お電話をいただきたいとのご意向です」
「どうして?」
司の問いに、新田氏は、「さあ……、よんどころないお話のようです。わたくしの口などからより、直接お聞きになった方がよいでしょう」などと、まるで煙に巻くようなことをさらりと言い、また丁寧に礼をすると、司の背後のわたしへも目礼をした。
「では」
彼が車に乗り遠ざかる前に、司はわたしの手を引いた。後ろを見ることもなく、玄関から入り、いつものようにサンダルをどうでもいいように脱いだ。右左に跳んだそれを整えた後で、すぐに上がらず、わたしは玄関扉の外のポストをのぞいた。
そこには底にぴたりと張り付くように落ちた小さな紙片があった。白いそれは新田氏が残した名刺で、新田芳郎という彼の氏名の上に肩書きが並んでいた。
衆議院議員 緒方恭一 秘書室室長とある。
司が実父だと告げた男性の名前を、意外な形で露わに目にし、わたしはほんのり背中に冷たいものを感じた。



          

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