セピアの瞳 彼女の影
10
 
 
 
桟敷の自分の席のそばに戻ってきたガイに、ジュリアは彼の肩のふわりとした影を見た。
盛装をした彼のジャケットの黒に、それは溶けるようにしばらく留まってあった。
自分がフロアでガイと別れた後、この席に戻るまでに、彼がレディ・アンと二人でいるのを見てしまった。二人は和やかに踊り、周囲の人々に合わせてはいた。
至近でなければ、ジュリアにその人間が纏う影を見ることはできない。けれど、あのレディ・アンと幾らかの時間を二人で過ごし、再び自分のそばに現われたガイが、タキシードの黒ににじむような影を肩に漂わせているのを見れば、嫌でも彼が抱く、彼女との接触の重さが感じられる。
(レディ・アンは、ガイに何を言ったのだろう?)
傍らの軍服姿で控えたグレイと二言三言交わし、彼が下がった後で、ガイはジュリアに瞳を向けた。彼女の濃いブルーの瞳に何かを見るのか、
「お一人にして申し訳ありません」
「構わないわ、そんなの。…ねえ、ガイ…」
椅子の肘掛の掛けた彼の腕に、ジュリアはちょっと自分の手を触れた。その甲に、彼は自分の掌を重ね、笑う。
「大丈夫ですよ、僕なら」
「そう……、ならいいわ」
そこへ王女への挨拶に現われた見知らぬ紳士に、ジュリアは目を瞬かせた。この男は誰だろう、と。けれど、自分の前に立てるのだ。身許の知れないものではないだろうし……。
ガイも知った顔ではないらしく、やや不審げに男を見ている。
紳士はもじもじと居心地の悪そうに、タキシードのジャケットの裾を気にしている。すっきりとした茶の髪と瞳、造作の整ったごく美男子といえる。ぎごちなく彼が笑みを浮かべ、何かをごもごもと口にしたその声に、ジュリアは合点がいった。
「フレドリックね」
「ああ、君か…」
ガイもおかしそうに続けた。「いつもの髭がないから、気づかなかったよ」
「わたしが呼んだのよ。でも、髪と髭は何とかしてきて頂戴って。見違えたわ」
「寒いのですよ、顎も首筋も」
そんなことを言い、照れたようにフレドリックは首に手を回した。
「それが普通よ。似合うわ。ずっとそうしていらっしゃいよ」
「衣装は、借り物ですし…」
「馬鹿ね、言わなきゃわからないのに。ね、踊りましょうよ、せっかく来たのだから」
ジュリアは椅子から立ち上がり、フレドリックの手を取った。ガイへ振り返り、しばらく自分へ挨拶に来る者への対応を頼んだ。
「ええ、喜んで」
ガイは微笑みながらそれを受け、どうぞ、とフロアへ掌を上にして指した。
フレドリックの慣れないエスコートでフロアへ降りながら、ジュリアは、自分はガイへ「しばらく」と断ったけれど、何だかそれが長引きそうに思うのだ。
(何度か踊ってもいい)
少々頼りのない紳士振りではあるが、隣りにフレドリックのあるのが嬉しく、楽しい。
(こんなに彼が、ハンサムになるとは思わなかったけれど)
フロアに降り、ふと桟敷のガイを見上げた。彼は自分に手を振っている。
一人の彼を、ジュリアは可哀そうに思った。
(ユラがいたらよかったのに)
曲が始まった。フレドリックの自分の腰へ回す手が少し震えている。そんなことにジュリアは、恥ずかしくなるくらいに、胸が騒いだ。
目の前の彼へ瞳を向け、少し凝らす。
自分が読み取ったものに、意味を成したものに、大きく戸惑いながらも嬉しいのだ。
頬が緩むのを堪えるため、彼女は視線をガイへ戻した。彼は彼女に手を振った後では、気楽なように煙草を唇にくわえ、何か手紙のようなものを読んでいる。
彼のその淡々としたシルエットに、どうしてユラはガイを一人にするのだろう。そう思った。
(ユラがいないから、ガイは一人で…、レディ・アンなんかの相手をしなくちゃならない)
(ガイを不安にさせたのは、ユラだわ。あなたしかいない。だから、あなたと離れることになった)
(あなたの弱さのせいだわ)
(ユラのせい)
気持ちの切り替えのための辿った思考であるのに、自分でもおかしなくらい腹が立ち、フレドリックの自分へ回す腕を、つい力を込めてつねってしまった。
 
 
王宮の舞踏会から十日ばかりたっただろうか。
そろそろガイのエーグルへの出立が迫り、邸に中はどことはなく落ち着きのないざわめきがあった。準備に追われる使用人たち。そしてそれに気配りをするはずのレディ・ユラがいないことが、何とはなしに彼らを落ち着かなくさせるのだ。
「旦那さまがお立ちになった後で、奥さまはお帰りになられるのだろうか?」
「何にも、旦那さまはおっしゃらないのよ。ハリスさんが言っていたけれど、もしかしたら旦那さまのエーグルからのお帰りの頃に合わせて、奥さまもごウィンザーからこちらに帰られるのじゃないかって」
「そんなに長引くの?」
「お見送りくらいおできになればよいのになあ。新婚でいらっしゃるのに」
「けど、しょうがないもの。エドワード王子さまのお願いとくれば、旦那さまはその後見役を仰せつかっているのですからね」
「では旦那さまも奥さまも、いずれもいらっしゃらないってことになるな」
主人のいない邸を長く守ることに、彼ら自身少々心細く、不安なのだ。
 
ガイは朝食の後で、温室にいた。新聞を読みながら、そこで花の世話をする庭師のジョンと少し話した。
「奥さまがいつお帰りになられてもよろしいように、お切りになれる花を、それはもう、たんとご用意しておりますんで」
ジョンとユラは花や植物のことを介して仲がいい。二人で庭園のデザインなどを計画していたのを、ガイも知っている。前妻のアンにはないユラの素朴さが、この朴訥とした年配の庭師には好まれるようだ。
「それは彼女も喜ぶよ」
温室を出た後で、ガイは新聞を手にしたまま書斎に向かった。早くから暖炉に火の入れられる書斎には、ガイが目を通すべき手紙が、ハリスに用意され、待っているのだ。
(お嬢さん、あなたの仕事なのに)
その卓上のトレイに盛り上がった手紙の束を見て、やる気をあっさり失ったガイは、長椅子に脚を伸ばし長くなった。その姿勢でしばらく新聞を読み、欠伸をしたところで、ハリスが現われた。
手に彼が持つ銀のトレイを見て、また手紙が増えるのかと、ガイはうんざりとなる。
「午後から、パレスへ出かけるんだ。手紙は少々君が捌いてくれないか、構わないから」
「よろしゅうございますが…、あの、旦那さま…」
珍しく歯切れの悪いハリスの様子に、ガイは起き上がり、「何だい?」と問うた。
テーブルのコーヒーポットから、自らカップへコーヒーを注ぐ。彼がそれを口に運んでもハリスが続きを言い辛そうにしているので、促した。
「お客さまが、お見えでございます」
「何だい、ハリス。客ならいつだって来るだろう? 君らしくもないな。 誰?」
ハリスはガイへトレイを差し出した。差し出しながら告げた。
「レディ・アンでいらっしゃいます」
 
書斎へ通されたアンは、茶のドレスを身に着け、やたらと上品な貴婦人に見えた。
案内をしたハリスへ親しみを込めて機嫌よく微笑み、「懐かしいわ、皆、元気かしら?」などと話しかけ、彼を喜ばせた。
ハリスが下がった後でも、彼女の機嫌のよさは変わらず、ガイへまぶしい笑顔を向けた。
「あなた、素敵ね。首尾よく運んで下さって。あんなに憎まれ口を利いていたのに、ちゃんと動いて下さるのだもの、嬉しいわ。わたくし、あなたの優しさを信じていたわ」
彼が人を介して口を利き、アンの親友のレイチェルを、ブーン市の監舎から出してやったことへの礼のつもりなのだろう。
「レイチェルも今は邸で静養していて、しばらくすれば起き上がれるようになるわ」
「これが最後だ」
それをまったく聞き逃したかのように、アンは「懐かしいわ」と書架へ進んだ。並んだ本の背に指を這わせた。「わたくしが伯爵夫人でいた五年に、一冊も手に取らなかったわ。この書斎の雰囲気も嫌いだったのよ。辛気臭くって」
彼女は小さな自分のバッグから、シガレットケースを取り出した。細い煙草を口に挟み、当たり前のように自分で火をつけた。優雅に煙を吐きながら、目新しいものを見ては、「ユラの趣味?」とガイに訊ねた。
ガイはそれに応えなかった。欠伸をし、ポケットに手を入れ、
「用がないのなら帰ってくれ」
「ユラはご静養中のエドワード王子のお為に、ウィンザーなのですってね」
ガイが返事を返さないことに、アンはちょっと肩をすくめた。それから、まだ長い煙草を灰皿に押しつぶした。
「あなたにも知っていただくわ」と前置きをし、
「わたくし、今真剣におつき合いをしている方がいるのよ。某侯爵よ、ちょっとお歳の…、あなたご存知かしら?」
彼女が使った「真剣」という言葉にガイは、飲みかけのコーヒーを拭き出しかけた。
「結婚を考えているのよ」
「やれやれ、不幸な過去を持つ男が、また一人増えるのか。同情するね、その侯爵に」
「茶化さないで。本気よ」
だからガイには自分との関係で、余計なことを喋らないでほしいと言う。「お互いのためにならないわ」と、相変わらずの脅しを忘れない。
(大方、父子爵の遺産が乏しくなり、たっぷりと金を持った迂闊な紳士を見つけたのだろう)
(僕には関係がない)
ガイが軽く頷いたことに満足したのか、アンはドアへ身を翻した。歩を進め、その途中、思い出したかのように振り返る。アイスブルーの彼女の瞳が瞬いた。
「忘れていたわ、あなたに…」
彼女は手のバッグから何かを取り出した。握ったままのそれを、ガイに差し出す。広げさせた彼の掌に、ひやりとした感触が広がった。
パール連のネックレス。
「こっちが本物。お返しするわ、確かに」
ふわりとした薔薇の香りと、艶然とした微笑を残し、彼女は書斎を出て行った。
 
ガイはほんの僅か、パールのネックレスを見つめ、それを先のものと同じく、暖炉の火の中に投げ入れた。



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