セピアの瞳 彼女の影
11
 
 
 
マキシミリアンから王室船『レディ・ヴィクトリア』に乗り、航路を経て、ジュリアとガイがエーグルの港に降り立ったのは、春の終わりの頃だった。
自国とは異なり、既に初夏の暑さを湛えた空気に、ジュリアは長の船旅の退屈と疲れもあって、少々うんざりとした。
自国の湿度の少ない心地のいい夏ではなく、こちらの雨の多い夏を過ごさねばならないと思うと、ため息も出るのだった。
(おなかも空いたわ)
船室を出るぎりぎり前に空腹を感じ、彼女の執事のハサウェイに、何か食べたいと告げたが、あっさりと拒否されたのだ。「もう刻限でございます。何やらお口のまわりに付けられていては、エーグルの人々も、おかしなプリンセスだと、きっと呆れることでしょう。お昼食まで長くございません。それまで、ご辛抱を願います」
彼はぴくりと眉を動かさずにそう言った。幼い頃から自分に付いたこの執事の言葉には、そこはかとない威厳もあり、もっともなことをもっともらしく言われると、さすがのジュリアも口を閉じずにはいられないのだ。
とはいえ、真新しいドレスの半袖の腕をなぶる柔らかな風と、目新しい辺りの光景に、しばし軽い憂鬱も消えるのだ。
彼女は、パートナーとして隣りにあるガイに手を預けたまま、カーペットの敷かれた上を、鷹揚に挨拶を返しながら進んで行く。
「お日柄もよろしく、プリンセスにおかれましては…」
「船旅は、いかがでございましたでしょう?」
「お疲れではございませんでしょうか?」
「本日は、まずパレスへこれからご案内申し上げます。その前に、何か市街などをお目に掛けた方が、よろしゅうございましょうか?」
まさか正直に、空腹で堪らないから早く昼食にしてほしいとは言えず、彼女はガイの手を軽く引いた。
ガイは彼女の横顔をちらりと見、その少し機嫌の悪くなっている様子に、小さな笑みを浮かべた。
面倒なやり取りに飽き、嫌になっているのだろうと彼は思い、「少し、姫はお疲れのご様子ですから、すぐにパレスへ向かっていただけると、ありがたいのですが」
ガイの声に、彼ら国賓の接待役となった人々は、ジュリアが気分でも悪いのかと取ったのか、少々目交ぜをし合い、
「では、すぐにお休みになれるよう、ご用意をさせていただ…」
ジュリアはもう一度、ガイの手を引いた。寝室になど案内されて敵わない。今度はやや強く引く。
それにようやくガイも合点がいった。彼女の手を引いた案外な力に、おかしさが込み上げる。それを喉に追いやってから、
「いえ、ジュリア姫は、喉が渇いたご様子なので…」
「左様でございましたら、お昼食も少々切り上げて、ご用意をさせましょうか?」
それにもジュリアではなくガイが、彼女のささやかな名誉のために応える。
「ありがたい。軽い船酔いで、僕は朝食を抜いたもので…。そうそう、こちらは変わったキジ料理があるのでしょう? ライスを詰めるとか言っていたな。僕の教え子に、貴国の留学生がいまして、彼から…」
「ええ、ええ、ございます。その教え子の学生は、どの地方の出身で…」
ガイが持っていった話の流れに、ジュリアは至極満足して、そのライスを詰めて焼くとかいうキジ料理をぜひ試してみたいと思った。
ガイの手を再度引きかけて、さすがにはしたないとためらわれ、止めておいた。
 
 
白を基調とした色合いの階層の低目なパレスが連なる王宮は、白にアクセントに瑠璃の色が混じる。
夏のシーズンがエーグルはやや長く、そのためかどこか開放的な佇まいが感ぜられた。
開かれた大きなフランス窓にも、あちこちにある噴水にも、夏咲きの大振りな花弁の花々にも。
その迎賓館らしき豪奢なパレスの広大なフロアが、彼女らの滞在用に宛がわれた。
開け放した窓と、そこから出られる広々としたテラスからは、青い海が臨める。微かに潮風も感じられるほどだ。
迎賓館の中央は中庭の変わりに、温室になっていた。水を湛えた小さな池があり、そこには色の鮮やかな小ぶりな魚が泳ぎ、甘い匂いの花をつける木々や植物が茂っている。
ジュリアは滞在中、裸足のままその温室で冷たい飲み物を飲むのが好きになった。
すぐにエーグルの皇太子の婚儀が執り行われる訳ではなく、その間、王との謁見や、または舞踏会、晩餐会、または若い王族の案内で海辺の離宮へピクニックなども行った。歓迎の意で、あれこれと行事が組まれた。
予定のない午後などは、ガイはテラスのデッキチェアに長く脚を伸ばし、本を読んで過ごすし、ジュリアはその邪魔をしたり、彼を伴って王宮の方々を探索したりした。
居心地のいい日々に、弟もこんな暖かな場所で転地をしたら、身体も丈夫になり、気管支の発作も、案外出にくくなるのではないかと思う。
このような外交は、本来は自分より、弟で皇太子であるエドワード王子の役目であるが、彼の体調では外国での滞在などは医師が許さないだろし、本人も行きたがらないのだ。
(自分の貧弱な身体を恥じて)
ジュリアの目から見ても、弟は同じ年頃の少年より身長も低く、何より華奢である。肌の色も透けるようで、いかにも病弱な雰囲気が色濃い。
(あの子は食べ物の好き嫌いが多過ぎるのよ。それがいけないのだわ)
(人の好き嫌いも多いけれど)
王子は自分と、異母兄のアンドリュー王子を比較するような目を向ける者を、まず嫌う。そしてそれをはっきりと顔に出すほど、彼は幼い。
それは辛いことだろうと、ジュリアは弟に同情はする。するものの、どうであっても、比較してしまう余人の気持ちもわからないではないのだ。
母は違えど、同じ王子。一方は壮健で凛々しく、一方は風にも耐えないような脆弱さ。

(どうしたって、比べてしまう)
聡明で、気難しいところあるが、明るい少年らしさも持っている。少々の贔屓目を込めて、彼女は弟をそう見ている。そして、どこか自分のその弱さを持て余してあきらめたかのような、甲斐のなさも感じるのだ。そんな彼を、気丈な彼女は歯痒くも感じてきた。
(けれども…)
ジュリアは温室の冷たい水にふくらはぎまでを浸け、ばしゃばしゃと動かす。白い彼女の足が立てるにわかな波に、赤と青の小魚がわっと逃げた。
(変わったわ)
(エドは、変わったわ)
弟が、ガイの妻であるユラに恋心を抱いているのを、ジュリアは知っている。初めてエドワードが、ユラを目にしたときの動揺とその芽生えた感情を、はっきりと彼女は見た。その意味も知った。
そしてユラが彼に向ける同情の露な視線に、耐え難い恥ずかしさと、情けなさを感じたのだろう。そのゆらゆらとした感情も、彼からにじみ、ジュリアには手に取るように読めた。
(『ガイのようになりたい』。あの子はそう感じていた…)
手で池の水をすくう。その掌を水が滑る心地のいい感触に、ジュリアは何度も繰り返した。
ふと彼女の頭に軽く手が置かれた。
「楽しそうですね。…ハサウェイが、そろそろお仕度の時間だと言っていましたよ」
晩餐の会が、この夜は催されることになっている。まだ日の高いうちから窮屈な衣装を纏うのはごめんだった。ぎりぎりでいい。コルセットのきつい衣装を着け、きりきりと高く髪を結い上げるのが面倒になる。
「まだ、早いわよ。いいわね、殿方は。ジャケットを着替えて、タイを締めればそれでいいのだもの」
傍らの籐のデッキチェアに掛け、煙草を手にする従兄を見上げて、彼女は笑った。シャツの襟元を緩め、いつものタイもない。
彼女はぬれた手に構わず、ガイの足先に触れた。彼の履いた革の靴を取り、ソックスも脱がす。それらをぽいと、そばに放った。
「こらこら、姫…」
眉を寄せながらも、彼は楽しげに口許を緩めた。
「気持ちがいいわよ、隣りに来て」
腰を上げたがらないガイに、彼女はもう一度繰り返し、最後に「命令よ」と、加えた。
やれやれと彼は煙草を消して立ち上がると、彼女のそばに掛けた。ぞんざいな足のまくり方で、ベージュの足先がすっかりぬれてしまった。
無邪気に水の中で足を振りながら、彼女は思った。ガイは弟の恋を知っているのだろうか。その思いでエドワードは、前へと自分を必死に励ましているのだということを。
もしガイが知ったら、どうするのだろうか、と。
(困るわよね、あなた…)
「ねえ、ガイ…」
訊こうとして、止めた。彼のブルーグレイの瞳に会い、その瞬きに、問う気持ちが削がれてしまったのだ。
(きっとガイなら、訊かない)
(例えば、わたしが誰かに恋をしていたとしても、それに気づいても…)
きっと、見守ってくれる。
(そして、わたしがその恋を泳ぎ切るのを)
ふと、そんな思考の狭間、ある人の顔が浮かび、彼女は思わず慌てた。
(まさか……)
慌てたことがおかしくて、水に浸した足を、大きく前後に振った。
 
 
それから二十日後、エーグルの皇太子サミュエル王子の婚儀が執り行われた。
晴れやかだった日がさっと曇り、雨雲を連れてきたのは午後のこと。柔らかな小さな粒の雨が、さわさわと降り注いだ。
大聖堂の車寄せ。ぎっしりと祝福に集う人々が建ち並び、街道を埋めるのが見て取れた。
紙吹雪が舞い、小さな旗を持ち振る者、または手を盛んに振り回すようにしている者。さまざまに王室の婚儀の喜びを表している。今夜は王都中の酒場の飲代が、王室から出され、ただになるのだという。
新婚の皇太子夫妻がパレスへ戻るその後で、ジュリアとガイも、式に出席した他の国賓と同じく、馬車に乗り込む。
謹厳な儀式の緊張が緩んだ後の和やかな雰囲気が、そこかしこに漂っていた。「後は、晩餐会で終わりか」そんな声も届く。
「ねえ、ガイ。今夜の晩餐会ね…」
どこから飛んだのか、ジュリアの頬に紙吹雪の小さな破片が付いていた。ガイはそれに気づき、腕を伸ばし彼女の頬へ指を置いた。身を屈めた際に、目の端に映ったものに、彼はとっさに彼女を引き寄せ、胸に抱いていた。
「ジュリア、失礼」
「ガイ?」
滅多に自分を名で呼ばない彼の、彼女がまだ幼い頃にそう呼んでいた呼び方。それに親しみと、いつにない些細な違和感を覚えた。
(どうして?)
そして目に飛び込んできた事実に、彼の放った違和感がない交ぜになる。
 
喧騒、怒声、悲鳴。
幾つもの混乱が、彼女を取り巻いた。
自分を襲った衝撃に、ジュリアはしばらく目を見開いたままでいた。
「あ」
見る間に自分を抱くガイのシャツの白が、彼の血で染まっていく。
赤、赤、赤、赤…………………。

「あ」
恐ろしさを放り出し、ようやく彼女は声を上げた。
「ガイを助けて。早く。早く」



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