セピアの瞳 彼女の影
9
 
 
 
ガイが唇を開き、何か言葉を発しかけた。それはこうだったろう、「なぜ、僕に頼む?」と。
けれど、それは「なぜ…」で途切れた。
「お久し振りに、お二人のお揃いのお姿を拝見いたしましたわ」
手の扇子を盛んに振りながら、着飾った婦人がガイとアンに話しかけた。彼女は片方の手をあちらへ招き、連れの男を呼んでいる。
現われた連れの紳士も、「お二人がご一緒なので、何だか懐かしい思いがいたしましたよ」
アンがそれらに、これ以上はないほどに滑らかに応えた。
「ええ、ガイとは折に触れ、今でも親しくしておりますの。今宵は偶然こちらで会ったのですけれども、全然珍しいことでも何でもないのですわ。彼の新しい奥さまのレディ・ユラとも、わたくし仲がよくって。家族ぐるみのおつき合いというのかしら、ねえ? あなた」
上目遣いに彼の同意を得る視線を送る彼女に、ガイは「さあ、どうでしょう」と、曖昧に笑んで応じた。
「それは円満なお別れをなさったのでございましょうね。お二人のお人柄でございますわ」
彼らと別れ、背を向けるとガイは、瞬時に表情から笑みを消した。その彼の顔をのぞくように、アンがささやく。
「あの二人、きっと方々に吹聴して回るわ。嬉しいわね、ガイ。わたくしたち別れても尚、社交界の理想の取り合わせになるのよ。離婚を機に、愛情を友情に昇華させたなんて、素敵じゃない?」
ガイは彼女の嘲笑う調子のそれには取り合わず、余計な邪魔が入る前に、彼女に問いかけたことを改めて口にする。
「なぜ、僕に頼む?」
アンはあっさりと返した。「あなたが頼りになるからよ」
当たり前のように身勝手に要求を突きつける彼女を見ながら、ガイは目に付いた従僕を軽く手を挙げて呼び、自分の席に控えるグレイに、少し待つように伝言を頼んだ。
その後で、フロアの外へ出る大きな扉を顎で指した。
「好きよ、ガイ」
彼女の甘い薔薇の香水の香りが、彼にはすぐに感じられる。それほどにそばにいる。
その不快さを、厭わしさを、彼は煙草を口にくわえることでやり過ごした。
(この女は、いつ自分の醜さに気づくのだろう?)
 
ガイがアンを伴った場所は、春のパレスから離れた、回廊を進んだ先にあるエドワード王子のパレスだった。その一室に彼女を招き入れた。
開け放たれたカーテンから、舞踏会の催されるパレスの明かりが入り込んでくる。それだけの照明の薄暗い中、ガイは煙草に火をつけた。
幾多ある客間の一つで、火の入れられていない暖炉が寒々しい。アンは腕を抱き、その前に立った。寒いとは言わず、薄ら笑いを浮かべた。
「わたくしたちが消えて、皆の噂にならないかしら? そうなったら、あなたの可愛いユラが悲し…」
彼は彼女の話を遮り、頼みの内容を問うた。「早く言え」
アンはちょっと迷う風に唇を噛み、垂らした髪を指に絡めたりして、
「レイチェルが捕まったの」
ガイにはその一言で、彼女の自分への望みが読めた。レイチェルというアンの古い友人の存在も覚えている。彼女とあのいやらしい趣味を楽しむ女の一人だ。
アンは続けた。
先月の『交流』(アンは自分たちの趣味をこう表現した)の最中で、突然憲兵に踏み込まれたのだという。自分は上手く逃げることができたが、レイチェルが捕縛されてしまったのだという。
「新しい男を入れたのよ。きっとあいつが密偵だったのじゃないかしら、きっとそうよ」
思い出し苛立つのか、アンはちっと小さく舌打ちをした。「紹介者を介したのに、しくじったわ」
「だから?」
「あなたに彼女を出してほしいのよ。今はまだ、マキシミリアンに移送されていないわ。ブーン市の憲兵の監舎にいるわ。そこならほら、地方だもの、事件をもみ消しやすいでしょう?」
ガイの肩書きを使えば、簡単なことだと彼女は言う。「あなたが一言、言ってくれたら解決するのよ。可哀そうにレイチェルは、ひどい場所で震えているわ。彼女レディなのに」
(知るか)
現行犯でレイチェルがアンの言う『交流』の最中、憲兵に捕縛されたのなら、監収されるのは当然の処置である。取り締まり対象の薬物を使い、危なっかしいばかりの隠微な遊びを続けてきた彼女らの当然の報いではないか……。
(どうしてその後始末に、僕が手を貸さねばならない?)
「弁護人を雇い、正規の手続きを踏めばいい」
「どれだけ期間がかかるか知れないわ」
「それが迂遠ならば、君の得意の色仕掛けで、ブーンの上官を誑し込めばいい。僕に頼らずとも、簡単じゃないか」
ガイは紫煙をふわりとくゆらせ、少し笑った。
「無理よ。ブーンの憲兵の上層部は、そういった手合いじゃないのよ」
「それは立派だ。王都の警視庁の命令が、よく行き届いているらしい。レディ・アンの手に落ちない男どもがいるとは。いやはや…、あはははは」
「ガイ、レイチェルは体調が優れないのよ。…堕胎の処置を、済ませたばかりの身体だったのよ」
彼はアンの言葉にやや肩をすくめて見せた。
「憲兵隊にも、医者くらいいるさ」
「ねえ、ガイ。お願い。後生よ」
短くなった煙草を、マントルピースに投げ入れ、彼女に訊いた。「いつになったら、君の哀れな物語に僕のユラが現れるんだ?」
ガイは腰に手を当て、彼女の前に立った。
「はっきりさせよう。僕が今、君につき合ってやっているのは、君が彼女の名前を出したからだ。君があちこちで撒き散らす、ふざけた君の妄想の中の僕との親密さの故じゃない」
「知っているわよ」
アンはガイの言葉に、噛んでばかりいた唇を開いた。「だから、ユラの名を出したのですもの」
「だったら、早く言え」
彼女は指を自分のドレスの胸元に差し込んだ。そして、そこから何かをするりと引き出した。
小粒のパール連のネックレス。長いそれを、彼女はきれいに指に絡めるように巻いた。
アンはそれを、ガイの前にちらつかせるように振った。鈍い色のパール粒は、柔らかい窓からの光に、おぼろに光沢を見せた。
それは彼が、ユラに求婚のする際に贈った品だった。彼女の寝室の化粧室、そのドレッサーの鏡の前で、彼女のほっそりとした首に自ら着けた。
 
『ありがとう。大事な品を借りてもいいの?』
鏡に映る自分の首を飾るネックレスを、恥じらいながら見ていたユラ。
『あげるのですよ、あなたに。それとも、シンガの首輪にしますか?』
ガイは彼女のほっそりとした首筋に沿ったパール。愛おしさが募り、思わず唇を這わせた。
あのときの、彼女の驚きよう、その胸を打つ鼓動が、彼にまで伝わるように感じた……。
 
「見覚えがあるわよね。あなたのお祖母さま、グレースの品よ。あの『交流』の日、館に来たユラが身に着けていたのよ。あなたが彼女に贈ったものでしょう?」
「どうして」と問うまでもない。彼女は彼が贈ったそのネックレスを着け彼の求婚を受けてくれた。そしてそのまま、アンが張った罠に向かって行ったのだ。
あと一歩のところで、彼女は彼に救われ、『交流』により身体を汚さずに済んだ。その際に、「ネックレスをなくしてしまった」と彼に詫びていた。「大事な品だったのに」と、結婚式のときまでひどく悔やんでいた。
そのネックレスが、アンのほっそりとした形のいい指に絡まっている。
アンはにっこりと笑い、
「これがあれば、わたくしたちの『交流』に、ユラがいたって証拠になるわ。だってこれほど見事な品、見る者が見たらすぐにアシュレイ伯爵家の品だって、出所は知れるでしょうね」
「僕が君に贈ったことにすればいい、ユラではなく、君の所有物になる」
「どうかしら?」
彼女は小首を傾げた。こんな癖だけは、少女の頃と変わらないものなのだなと、ガイは不思議に感じた。
「わたくしとグレースの不仲は、周知のことよ。その彼女の形見の品をわたくしが持っているのも、信憑性に欠けるでしょう? それに、レイチェルが証言すればいいのだわ。あの場にはアシュレイ伯爵夫人のレディ・ユラもいたのだって」
ガイは黙ったまま、彼女の指の動きを見ていた。くるりと彼の前を挑発するかのように、彼女の指はしなやかに、舞うように動く。
「レイチェルを出してくれたら、これは返すわ」
彼の前に突きつけたパールのネックレス。
「これで最後よ」
ガイは彼女の言葉に、ちょっとため息をついた。新しい煙草を取り出しかけて、止めた。
「君は、…無用心だな」
ガイは彼女のパールを持つ手を、片手でつかんだ。捻り上げるように徐々に力を込める。
彼の紳士らしくもない意外な行動に、彼女は目を見開いた。「痛いわ、ガイ」
強張った彼女の表情にも彼は頓着せずに、力を加え続ける。「君が、うかつにも、僕と二人きりになりたがったのだろう? …僕が君に、万が一でも力を振るわないと、どうして思えたのか訊きたい」
「止めて…、痛いじゃない」
アンの手首はレディらしくほっそりとしたその掌から、ほどなくパールのネックレスがこぼれ落ちた。
ガイはそれをすくうようにさらい、ジャケットのポケットにしまう。
その後で、突き放すように彼女を放り出した。
そのまま部屋を出る扉へ向かう。
彼の背中へ、アンの罵る声が掛かった。「力ずくでなんて、ガイ。卑怯よ」
「君は、卑怯でなかったことがあったのか?」
「ねえ、レイチェルを…」
彼女が彼の背にしがみついた。「レイチェルを出してやって。あのままじゃ、彼女、死んでしまうわ」
それに返事をせずに振り切り、彼は部屋を出た。扉を閉める間際、部屋から相変わらず気強いアンの声が聞こえた。
「あなたは彼女を必ず出してくれるわ。きっと、きっと……」





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