セピアの瞳 彼女の影
12
 
 
 
ジュリアの腕に回した自分の腕の力が、徐々に弱くなってきていることを、ガイは感じていた。
耐え難い痛みが背を覆い、それらが引きつるような激しい頭痛を呼んだ。
彼のシャツの胸に頬を寄せるジュリアが、怯えた声で、それでも気丈に彼の安否を問う。
「ガイ、痛いの? 苦しいの? お願い、声を返して」
口の中で舌が上手く動かない。声を発することすら、物憂いほどの苦痛だった。
「ガイ、話して。死んでは駄目よ。わたし、…怒るから、あなたを許さないわ」
「…姫、………この程度では、人は死なないから大丈夫。あなたの機嫌を損ねたままでは、困るね」
ほんのりと笑顔を作ったつもりだった。そしてふわりと、目の前が霞む気配がした。
頭痛が背の痛みを越えたものになってきた。
(背を斬られたのに、どうして頭が痛むのだろう)
瞼が次第に落ちていく。何かに引きずられていくような、ひどい睡魔にも似た感覚。
瞳をすっかり閉じてしまう前に、ガイは悟った。
(ああ、痛みを耐えるために、奥歯を噛みしめ過ぎたのだ)
 
彼の膝が崩れ、石畳の地に着いたのとほぼ同時に、ジュリアは周囲の者により、彼から引き剥がされた。
彼らはガイを取り囲み、肩に手を掛け、または足を抱え、彼を馬車に乗せる。
婚儀を遠巻きに祝っていた市街の人々も、近衛兵らの突然の動きと上がった悲鳴に、何かよからぬ凶事があったのだろうと察し始め、ざわざわとした喧騒が生まれていた。
ジュリアが大聖堂の石段のそばなどにいたのなら、そのがやがやとした騒ぎが聞き取れたかもしれない。
「何だか外国の偉い人が斬られたらしいぜ」
「ほう、どうして斬られたってわかる?」
「馬鹿だな、お前。銃声がしなかったじゃないか。斬られたに決まってる」
「ほう、何にせよ。また過激な奴らの仕業に違えねえな」
……などと交わす声が。
彼の帽子も、ステッキも置き去りにされたまま。
ガイとは違う馬車に乗るように促されたジュリアの瞳は、地面に落ちた彼の残した物に注がれたままだった。
彼を運んだ馬車がパレスに向けて、走り出した。それが馬車が大事なものを残していくようにも見え、ジュリアには不吉でならなくなった。
いつ現われたのだろう。彼女の執事のハサウェイが、再度馬車へ乗るように促した。「お早く」と。
それに応じず、彼女は自ら身を屈め、ガイの帽子とステッキを拾った。
「ガイは死なないと言ったわ。この程度の傷じゃ、人は死なないって」
ハサウェイはそれに言葉を返さず、彼女の手から伯爵の帽子とステッキを取り、背を押すようにし、彼女を馬車に乗せた。自身も乗り込み、そばに控えた。
車内の壁をかんとノックの要領で叩き、出発の合図をさせる。
馬の起こす微かな揺れが、ジュリアの感情の引き金を引いたようだ。わっとばかりに彼女は泣き出した。
「男は、わたしを狙ったのよ。王女のわたしを…、殺そうとした。……ガイは、それを知って、守ってくれたの。わたしを庇って斬られたの」
だから、彼に何かあっては、自分のせいだとジュリアは泣くのだ。ひったくるようにハサウェイからガイの帽子を取り胸に抱いて、嗚咽を続ける。
「わたしのせいだわ……」
ある意味興奮状態にある彼女に、こんな場合ハサウェイは滅多と声を掛けない。ただ沈黙のまま見守り、落ち着くのを待つのだ。
「エーグルなんかに来なきゃよかった。こんなろくでもない国に来たから、ガイは襲われたの。お父さまに言って、こんなならずものの国なんかとは、国交を絶っていただくわ。絶対にそうするわ」
「国賓を襲うなんて、なんて破廉恥な国だろう」と、尚も彼女の罵声は続く。
「ちゃんとした医者がいるのかしら? エーグルにはメスを握ったことのある医者があって?」
幾らかそんな言葉が彼女の唇からこぼれ、それが徐々に小さなくなり、消えた。代わりに消沈した泣き声に変わるのだ。
ハサウェイは、ようやく口を開いた。
「あなたのなさるべきことは三つ。一つはアシュレイ伯爵に感謝をすること…」
それを、ジュリアの涙にぬれてはいるが尖った声が遮った。「感謝なら、してるわ。うるさいわね」
それにも構わずハサウェイは続けた。「もう一つは」と。
「伯爵のご快癒を、お祈りなさることでございます」
「祈るわよ。ハサウェイに言われなくたって、祈るわ。もう祈っているわ」
ハサウェイは彼女の前に、一本の指を立てかざした。「最後の一つは」と続く。
「紳士はご婦人を守るものです。先にわたくしは、伯爵に感謝なさいと申し上げましたが、過剰にそれに負い目を感じられる必要はございません。更にあなたはプリンセスです。伯爵の振る舞いは、当然とも言えることなのでございます。大変成しがたい、素晴らしいご行為ではありますが」
しゅんと彼女は鼻をすすった。
「そうよ、ガイは素晴らしく優しいのよ」
ジュリアは、それきり再び口を閉ざした執事に、問いかけた。やはり不安でならないのだ。あの赤い血の色を思い出すたびに、不安で胸が潰れそうになる。
「ねえ、ハサウェイ。ガイはちゃんと治るわよね? 無事よね?」
「伯爵がおっしゃったのでございましょう? 『この程度では、人は死なない』と。わたくしは信じておりますが……、何か?」
ハサウェイはやや心外だと言いたげな表情をつくり、彼女を見返した。
もっともなことをもっともらしく告げるこの執事を見、ジュリアはようやく心が平静を取り戻すのを感じた。
(うるさいハサウェイだけれども、彼がわたしに嘘をついたり、間違ったことを言ったことは一度もないのだもの)
白髪の混じる眉をぴくりとも動かさず、手を組み、謹厳と椅子に掛ける執事の姿に、ジュリアは涙が乾いていくのを知った。
 
 
ガイが目を覚ましたのは、傷の処置が終わり、背から胸にかけ、白の包帯がぐるりと身を巻くのを感じたときだった。
いつしか自分はベッドに身体を横たえており、まるで時間を飛んだかのようなおかしな気分を味わった。
傍らには侍る白衣の硬いばかりの表情の医師らしい男性が三人と、これも白い衣装の看護婦らしい女性が数人いる。
瞳を開けた彼に医師らはゆっくりと、傷を縫ったこと、これから熱が出るだろうことを告げ、痛みや気分の悪さはないかを問う。
ガイは既に発熱の感覚を持っていた。思考がおぼろで、すべてが物憂く気だるい。
枕に頭を沈めたまま、ガイは彼らの問いにいちいち答えた。鈍い痛みがあること、熱のせいか頭痛がすること……。
看護女性の差し出すグラスの少し水を飲み、医師は食欲がないかを訊く。まったく何を口にする気も起きないために首を振った。
「煙草は構わない?」
ガイの声に、医師らの間にようやく笑みがもれた。「今はご辛抱なさって下さい。傷が癒え出したら、よろしいので」
「どのくらいかかる?」
「そうですね、少々深かったため、肌の修復が始まるのに、十日は見ていただきたいのですが」
「そんなに断った経験はないよ。参ったな…」
案外真剣に眉をひそめる彼に、看護女性も微笑んだ。
「熱が出ますからね、ほしいと思われなくなりますよ」
「そう? ならいい。我慢するよりましだ」
短い会話をしただけなのに、とても疲れを感じ、どろりとした倦怠感が彼を包む。
重い瞼を閉じかけ、ふと思い立って、一つ医師に訊いた。背の傷は痕が残るのか、と。
「残念ですが、残ります。何しろ大きな傷でしたので」
申し訳なさそうに告げる医師に、ガイは軽く手を振った。
「いや、いいんだ。僕が気にする訳じゃない」
瞳を閉じた途端、彼の瞼にユラの姿が浮かんだ。
(あなたは、嫌かな)
抱き合う最中、彼女の手は彼の背に回るだろう。彼女の華奢な指がそのはっきりとした傷跡をきっとなぞる。
(嫌だろうね、あなたは…)
ふつっと意識がそこで飛んだ。
夢を見た。その中で彼はユラの手をつかんでいた。当たり前のように引き寄せ、彼女の腰に腕を回す。
のぞき込んだ彼女の瞳はどうしてかぬれていて、はらりと涙の粒が幾つも生まれるのだ。
「ひどいわ」
彼女は聞き取りにくいか細い声で、彼に告げる。「ひどいわ」と幾度も幾度も……。
夢の中の彼女は、彼の仕組んだ嘘と、彼女との別れの理由を、きちんと把握していた。知った上で「ひどいわ」と、涙声で彼をやんわりとなじるのだ。
彼女の甘いまるで彼への愛撫のようなその声は、彼の胸にしんと染み、愛おしさでいっぱいにする。
(あなたには、逆らえない。ねえ、お嬢さん、あなたは知っている?)
涙にぬれる彼女を胸に抱き、彼は詫びを繰り返した。「申し訳ない」と、「済まなかった」と、「一人にして悪かった」と……。
そして彼女の涙声は、訴えるように彼に届くのだ。
「あなたしかいないの。あなたでないと駄目なの」
 
「あなたを待っているの」



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