セピアの瞳 彼女の影
13
 
 
 
身体を包むひどい倦怠感、そして熱。喉の渇き。更には、背筋を這う執拗な痛みと、忌まわしい悪寒。
覚醒時のおぼろな感覚が、ガイの思考を揺らめかせる。
何を系統だって辿る訳でもなく、そのゆらゆらと頼りのないもの思いは、ぽつぽつと途切れ、また始まり、互いに交錯し、そしていつの間にか、別のものにすり替わっていくのだ。
それは、夢の始まりとごく曖昧な境界しかなく、実際に自分が意思によりそう捉えるのか、または獏とした夢でしかないのか。
彼にもわからない日々が続いた。
幾つかの苦痛に違いのない処置の際、思うほど傷は癒えないのか、医師が曇った表情を自分に向けるのを彼は知る。
「ご気分は、いかがでしょうか?」
(確かに、煙草はほしくないな)
果てのないかに思われるそんな毎日に、ときとして彼の前に、影が現れるのだ。鮮やかではないその影は、彼に心地のいい甘い柔らかな酔いを運ぶ。
きんと冷えた彼女の指が、自分の熱で火照った額にあてがわれるように。もしくは、自分のそばに伏し、彼の胸にほんのりと身を預けるかのように。
彼女の黒い髪が、揺れるのさえ感じられるかのように。
淡い影はひととき彼を包み、絶えない苦しみから瞬時解放するかのように。
(ユラ……)
(ねえ、悲しいの? お嬢さん)
(泣いているの? 僕はあなたの笑顔が好きだ。はにかむように、いつも笑っていてほしい、ねえ?)……。
彼女を感じる、そんな夢との僅かな狭間は、彼を確かに救い、癒した。
「ガイ…、そばにいるわ」
冷たい彼女の小さな手は、優しく彼の手を包む。
 
 
ガイが起き上がり、歩けるようになるには、ほぼ一月を要した。思うように傷が癒えず、癒え初めてもまた開きかけ、高熱が続き、彼の体力を削いでいくのだ。
ようやく許され、ジュリアとの面会が適ったとき、彼女は目の前の彼がひどく痩せているのに、愕然とした。
頬が削いだようにこけ、顎の辺りが一層シャープになり、ただでさえスマートだった人が、一回りもほっそりとしてしまっている。背の高いガイが、ゆらりと揺れそうに思えた。
彼女の驚きに、彼は少々困ったように笑顔を見せ、
「姫、もう傷は大丈夫なのですよ。あなたに合格点はいただけないようですが…」
温い空気の午後のテラス。その籐のチェアに掛け、二人はさまざまに話した。主に感極まったジュリアが涙を浮かべ、それをガイが慰めた。
涙が引っ込むと、彼女はまたもや、散々執事のハサウェイに言い散らかした言葉を、ガイにも繰り返す。
「警護がなっていないのよ、こちらは。ガイは国賓なのに、皇太子のエドの代わりなのよ。それをみすみす暴漢に襲わせるなんて。許せないわ。ぜひ国際問題にすべきよ」
冷たいコーヒーを運んできた従僕が、ジュリアの声におどおどとしてしまっている。テーブルに置くグラスが、かちかちと触れ合って落ち着かない。
「わたし、お父さまに言うわ。絶対に厳しい処置を取っていただくの。だって、おかしいじゃ…」
びくついた様子のまま、従僕が下がるのに、ガイは彼にちょっと唇を歪め、おかしそうな表情を送った。
グラスを口にあて、「それなりのしかるべき対応は、既にエーグルはしていますよ。事があってすぐに、我が国へ報告と陳謝の大使を送らせているし、もちろん犯人も捕まえ、その我が国との有効を望まないとするグループも、捕縛済みです。中々に、素早い対応だと思いますが…」
コーヒーを喉にやってから、彼は付け加えた。
「名医もいるし、看護も至れり尽くせりだ。あれは…、王の侍医だそうですよ。僕は国賓らしく厚遇を受けた訳だ」
「当たり前だわ。だって、王女のわたしを狙ったのよ。それを庇ってガイが怪我をした。あんなひどい怪我を…」
ジュリアは目の前の優しく微笑む従兄を見ていると、涙が浮かぶのだ。どれだけ痛かったのだろうと思う。どれだけ苦しかったのだろうと思う。
(わたしのために……)
その感謝と、そして彼の受けた苦痛を思う憤りが、彼女には簡単には手放せない。
(帰ったら、やっぱり絶対に、すぐにお父さまに聞いていただくわ)
ジュリアは長の滞在が続いたエーグルでの日々を、数日後には打ち切ることになっている。自国内でのレセプションなど、エドワード皇太子が療養中で不在のため、彼女の出席が請われるものが、幾つも重なることが理由だ。
そして帰国を急く内容の手紙が、母からも届いている。
ガイは、彼女が焼き菓子を口に運び始めると、その様子をちょっと笑って見ながら、
「帰られたら、姫はお忙しいようですね。よろしければ、エドワード王子のご様子を聞かせていただきたい」
「ええ、手紙なら嫌になるくらい書いてあげる」
一足先に秋を迎えた自国の冷えた空気が、怪我を負ったガイの身体にはまだきついとの医師らの判断で、いまだ暖かなエーグルで、彼のみが残り、療養をすることになっているのだ。
ジュリアは焼き菓子をつまんだ手をナプキンで拭い、
「今日から晩餐に出られるって、聞いたわ。楽しみよ。だって、セレスタン王子なんて、馬鹿なことばかり言っているのよ。自分ではあれで、気の利いたことを話しているみたいな風に。ちっとも面白くないんだから」
「姫は点がお辛いから」
「あんな詰まんない人、珍しいわ。王子のくせに。よっぽど、フレドリックの方がましよ」
何気なく、ほんの無意識にフレドリックの名を口にしてしまってから、ジュリアはどうしてか、頬が熱くなった。なぜフレドリックの名を口にしたのか。なぜ、それによって頬を熱くさせる訳があるのだろう。
「違うわ、適当に、言っただけよ。フレドリックは…、関係ないわね」
誤魔化すために無心でビスケットを噛んだ。
ガイはさらりと、彼女のちょっとした混乱を流し、「懐かしい名が出ると、僕も帰りたくなる」と、軽い愚痴に紛らせた。
ほどなくして、柔らかな足音がした。
彼らのいるテラスの、開いたフランス窓のレースのカーテンが風に揺らぐその向こうに、足音の主がいた。
華奢な少女だった。
鳶色の髪と淡色のブラウンの瞳。白い涼しげなドレスを身に着けている。屈託もなくテラスに出てくると、ためらわずにガイの腕に触れた。
きりりとも見える、愛らしい顔立ちをしている。その彼女の瞳は、ちらりと探るようにジュリアを一瞥し、すぐに逸らした。興味などないとばかりに、もうジュリアを見ない。
ガイの腕を自分の胸に抱き、引いている。
「おやおや、エレーヌ。もう時間なの?」
ガイは自分の腕を引く少女に、優しく問いかける。ひどくゆっくりと。
エレーヌと呼ばれた少女はにっこりと彼に笑いかけ、こくりと頷く。そして更に彼の手を引くのだ。結わない彼女の肩を覆う髪がさらさらと揺れ、光を受け、小柄な彼女を白い衣装もあり、天使のように見せた。
療養中のガイの看護をする王族の姫がいると、ハサウェイが言っていたのを、ジュリアは思い出した。
(この少女が……)
ガイはエレーヌの腕が引くまま立ち上がり、ジュリアに詫びを告げる。もう医師の指図で横にならなければならないこと。晩餐にはご一緒できること。
「ええ。そうね、疲れるといけないわ。わたし、失礼するわね」
ジュリアも立ち上がる。
「わかったよ、あなたの言う通りにするから」
ガイは親しげにエレーヌの頭に手を置いた。やや撫ぜる、その仕草に彼女が、嬉しさで溢れるほどの笑みを彼に向けるのだ。
透明な何も施さない素肌の頬は、ばら色に染まっている。
彼女に腕を預けたままのガイに、ジュリアはごく小さな声で訊いた。ハサウェイから耳にしたことを訊ねたのだ。
「彼女、…耳が聞こえないのね?」
ガイはそれに頷いた。空いた手の指を唇に持っていき、「でも、唇の動きで、言葉が読めるのです。気をつけてあげて下さい、ジュリア」
ガイの言葉にジュリアは頷いて返した。
彼女に何の注意も払わないエレーヌ。障害は、耳だけだと聞いている。注意を払われないことなど、生まれて以来経験の乏しい彼女は、エレーヌの態度にまず驚き、呆れ、そしてじわじわと不快が胸を占めた。
(会釈くらいできるはずなのに)
(故意に、わたしを無視した)
(おかしなくらい、ガイにばかり)
ガイのサロンを出る間際、振り返ると、扉の向こうに椅子に掛ける彼と、その膝に乗るエレーヌの姿が目に入った。
その光景に、かちりと目の奥が熱いくらいに頭に血が上った。まだ相手はほんの子供だと思い、馬鹿らしいと、自制しようとする。そのすぐ後から、別の思いがそれを打ち消すのだ。
(どこか、似ている)
濃い髪の色、ほっそりとした小柄な身体。彼を見上げる癖。まるでまぶしいものでも見るかのように。瞳を笑みでやや細めて。ひたむきに、彼を……。
ジュリアの中のよく知る人物にイメージが、重なる。
(ユラに…、似ている)
頭に浮かんだ事実を、ジュリアは言葉に繰り返した。
「あの子、ユラに似ているわ」
よぎった詰まらない思いに、彼女は磨かれたつるつるとした廊下の床を、靴先で蹴った。その動きに、彼女のドレスのペチコートが、ふわりとついて揺れた。
そして自分がエレーヌの肩の辺りに見てしまった影を、その意味を。
それらを払うように、彼女はもう一度爪先で蹴った。



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