セピアの瞳 彼女の影
14
 
 
 
「伯爵はまた晩餐の前に、お会い下さいますわ」
はっきりと不平顔のエレーヌの背を押し、年配の看護女性が彼女を寝室から出した。
医師に決められた午後の午睡の時間で、ベッドで横になり、その様子を見ていたガイが小さく欠伸をもらした。
不具合がないか、ほしいものはないか、細々に質問し、ガイがそれのいずれにも首を振るのを確認してのち、彼女も部屋を出て行くのだ。
「エレーヌを残してくれても構わないよ」
ガイにはあの少女のはっきりとした不満顔が、ちょっとばかり気の毒になるのだ。
ここを出されて、一人でどこで彼女は遊ぶのだろう。時間をつぶすのだろう。
「でも、お小さい方がいては、おやすみになれませんでしょう?」
「別に、彼女は何を邪魔する訳じゃない。それにあれで、何でもできると思っているようだから、君たちのようにね」
「まあ。エレーヌさまが? では、ヒックス先生に相談して、それでもよろしいということでしたら……」
曖昧な笑顔で看護女性が下がって行く。
ガイは彼の主任医師となるヒックス医師が、きっとよしとは判断しないだろうと思う。自分にかかることで、細心になり過ぎの感がある担当の医師らは、治療の妨げにならない範囲でのみ、エレーヌに看護の真似事を許すのだ。
障害を持ち、王族の中で一人どこか浮いてしまった雰囲気の彼女の機嫌を忖度するより、王命でもあるガイの治療の完全を、もちろん優先させる。
歴とした王室の姫でありながら、まだ十二歳の若さもあり、エレーヌの身はふわふわと軽い。
まだ起き上がれるようになる前の話だが、小さな手で身を伏す彼の手を握り、まるで励ますかのように、または痛まないように、まじないを掛けてくれているように真剣な面持ちで寄り添ってくれた。
それは彼が怪我を負って以来、いつしか始まり、当たり前のようになり、そして、今に至る。
あの少女が自分に興味を持ち、そばにいたがるようになったその理由を、ガイは訊ねてみたことがある。それは彼女と個人的に接触を持った始めての瞬間かもしれない。
エレーヌは聴覚に障害を持ち、話ができなかったが、読唇もできるし、もちろん字も書け、読むことができる。
あるときガイはまず文字を書き、それを彼女に指し示し、自分で声に出して読んだ。
「君は、どうして僕の看病をしてくれるの?」
それに彼女は、癖のある女性らしい文字でさらりと返した。ノートブックをガイに突きつた。
『可哀そうだから。ジョナサンと同じで、可哀そうだから』
「ジョナサンって?」
『死んじゃったわたしの犬。セレスタンが誤って、騎馬したときに蹴ってしまったの』
それに何だか似ていたという。ちなみにジョナサンは、大きくスマートな猟犬で、彼女は寝室にも伴うほど可愛がっていたと教えてくれた。
(やれやれ、僕は彼女の飼い犬と同列か)
しかし、筆談による問いを繰り返すうち、彼女の頼りないような身の上も、彼には感ぜられるようになった。
その彼女にとって、ジョナサンは犬であっても、彼女に忠実な友達だったようだ。
だから、そのジョナサンの怪我を思って、ガイのそばにいるのだと言う。
『ジョナサンは死んだけど、伯爵は治るから』
「伯爵はいいよ、ガイで構わない」
エレーヌは文字を返さず、素直に頷いた。口を開き、発せない声で確かに彼をガイと呼んだ。
ガイはここでの滞在が終わり、帰国したならば、彼女に犬を贈ろうと考えている。大型犬の子犬で、忠実に長く彼女のそばにいてくれる犬を。
別れていく自分の代わりに。
 
 
ガイがまぶたを閉じ、幾ばくかした後、小さな音が聞こえた。扉を開ける微かな音、それに床を擦るような足音。
ふんわりと漂う覚えのある香り。
目を開けると、天蓋から下りるレース越しに、ベッドのそばの一人掛けの椅子に掛けたジュリアの姿があった。
モスグリーンのドレスを着、白い腕が半袖から伸びている。彼が目を開けたのを認め、「ごめんなさい、お邪魔をして」と詫びる。
ガイは、突然寝室に現われたジュリアに「いいえ」と応じ、身を起こした。肩に薄いガウンを緩く掛け、彼女の言葉を待つ。
彼女は背後の扉を振り返り、ちょっと迷う風を見せた。
「わたし、明後日には、エーグルを立つわ」
それはガイも当然承知している。
そのために彼女の歓送に、明日、王も臨席の昼食会が催される。舞踏会や園遊会などの派手な催しを避けたのには、ガイの体調を思うためや、警護の不備で国賓を襲撃に遭わせた手前、大掛かりなレセプションはためらわれるとの理由であった。
自分はそれに出席できるのだろうか。長の席は、きっと医師が許さないだろう。そんなことをガイが思う狭間、
「あのね、エレーヌ姫のこと…、それでガイにお話しがあるの」
彼女の口から思いがけない名が飛び出し、ガイはちょっと虚を突かれた。
「エレーヌがどうかしましたか?」
「ねえ、ガイ、あなた彼女のこと、どう思う?」
「どう思うも…、こちらの王室の姫です。お気の毒な障害を持っていますが、それ以外はいたって聡明な少女ですよ」
「あのね、あまり彼女に優しくしない方がいいわ」
ガイはジュリアの言葉に、通常にはない歯切れの悪さを感じていた。ちょうど彼女が、フレドリックに関することを口にするときのように。
レース越しがまどろっこしく感じるのか、彼女は椅子ごと少し身をベッドへ寄せた。そうして邪魔なレースを、ベッドの柱に引っ掛ける。
「これでよし」
王女らしくもない、しかしいかにもジュリアらしいものの進め方に、ガイは微笑んだ。
「彼女、エレーヌはあなたが好きよ」
「嫌いなら、看病はしてくれないでしょう? 僕は彼女の死んだ飼い犬に、どこか似ているようですよ」
ジュリアはゆっくりと首を振った。その後で濃いブルーの瞳で、彼を真っ直ぐに見つめる。そんな当たり前の彼女の仕草は、どこか侵しがたいような威厳すら感じさせる。
(姫の場合は特別に)
ジュリアはエレーヌのガイへの好意は、恋であるという。
瞳をやや伏せ、心をのぞいたことを知られる恥ずかしさを感じるのか、しばらくそのままでいた。
(見えたのだろう、姫には)
ガイは彼女の瞳の厄介さを、理解しているつもりであったし、それは故意にのぞくのではなく、不意に目に入ってしまうものであるとも感じている。
(あなたのせいではない)
彼は彼女の言葉を笑いに紛らせた。彼にとって、まったく意外で信じがたい話でもあったし、少々困惑もした。
「姫、エレーヌはまだ十二歳ですよ」
「わたしが歴史学の講師のウィーバーに恋をしたのは、十一だったわ」
「あのウィーバー博士に? 姫が?」
ガイはよく知る禿頭で年配でもあるウィーバーの姿を思い出し、その意外さに、思わず声を出して笑った。
「失礼。あまりに、その…、姫には意外なお相手で」
ジュリアは気を悪くした風もなく、肩をすくめ、「のぼせ上がったけど、すぐに冷めたわ」と応えた。
とにかく、とジュリアは話を戻す。
「彼女はガイに恋をしているわ」
「それは、それは。でも、彼女も姫のように、きっとすぐに冷める」
「なら、誤解させないであげて。残酷だわ。あなたは去って行く人よ。彼女の許には残らないの」
ジュリアは更に告げた。「憐憫と同情で優しさをくれた人に、恋をするのは、辛いわ。きっと、辛いから」
しばらくの間の後で、ガイは「ええ」と頷いた。自分がエレーヌへ抱いた感情は、紛れもなく、今ジュリアが指摘したものだった。

憐憫と、同情、そしてそれによる優しさ。それに彼の本来の温情が加わる。それ以外でも、それ以上でもない。
「彼女はユラとは違うから」
「え」
ジュリアの落とした思いがけない言葉に、ガイは眉を寄せた。自分がエレーヌをユラに見立て、そばに寄せているのだと、彼女が感じたのだろうかと、訝ったのだ。
それは不快な想像で、瞬時ガイは、ブルーグレイの瞳から笑みを消した。
 
沈黙が溶けたのは、ガイの気配から僅かな不快の念を感じたのだろう。ジュリアの詫びの言葉だった。
「つまらないことを言ったわ」
「そうですね、つまらない」
所在がなかったのか、失言に気まずいのか、ジュリアがベッドサイドに手を伸ばし、水差しやグラス、そして小さな書物などのそばにある、ガーゼに載せられたガイの持ち物の懐中時計を手にした。
かちりと音をさせ、蓋を開けている。祖母の形見の品であり、不思議な力を湛えたその時計を、ガイは人に触れさせるのを嫌う。
それをジュリアが手にしても気持ちが波立たないのは、親しみの他、彼女の持つ不思議な力を、形は違えど、自分も帯びているのだという共感の念かもしれない。
だからガイは、ジュリアの持つ瞳の力に触れても、不快でもなく、恐れもしない。一度も、負の感情など抱いたことがない。
「あ」
銀の蓋飾りを指で撫ぜていたはずのジュリアが、時計を膝に取り落とした。
視線を天蓋の上に彷徨わせていた彼は、ジュリアの声に彼女を見た。ブルーの瞳を見開き、唇を僅かに開けている。
そこからまた驚きのような、言葉にならない声がもれた。「あ」のような、「え」のような。
「どうなさったのです? 姫」
普段見ることのない彼女の不可思議な表情に、ガイは怪訝な目を向ける。
彼女は開いたままの懐中時計を手にしている。蓋の裏の鏡の部分が、日の光にきらりと光線を放った。
何が見えるというのか。
何も見えないはずなのに。
(僕以外は、誰にも見えない)
白い頬を薔薇色に紅潮させ、声だけは秘めやかに、ジュリアはささやくように言う。「教えて」と。
 
「鏡にユラが見えるの。ガイ、これは何?」



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