セピアの瞳 彼女の影
15
 
 
 
食事をよく摂られるように。
日の差す間は、散歩をなさるのもよろしい。
無理や疲労を感じたら、すぐにお休みになるように。
睡眠は多過ぎるくらいに取られるように。
他、医師らのガイに告げた療養の薦めは幾つもある。けれど、それを彼は、大抵を失念してしまっている。意味の被らない上のものだけが、頭に残った。
要するに、栄養を摂り、適度に動き、そしてよく休めということなのだ。
 
この日は、エーグルの王族連と馬場で、軽く駆ける予定になっていた。馬場とはいってもパレスの中のそこは広大で、ガイが着替えて顔を出した頃には、既に二、三の人影があった。
軽く馬の前脚を挙げ、こちらへ疾走させて来る人物は、見覚えのある姿のようだ。
ガイは厩舎の者が引いて来た、栗毛の馬の鼻を撫ぜた。瞬きをし、自分を訝しげに見つめる馬は、「おや、今日はあんたかい?」とでも言っているようにも感じられる。
彼が鐙にブーツの靴先を掛けたところで、あちらから馬を駆けさせてきた人物が、ガイのそばでぴたりと止めた。
日によく焼けた屈託のない明るい笑顔を向けるのは、ジュリアが「詰まらない」と酷評していたセレスタン王子だ。現エーグル王の二番目の王子になる。黒いシャツを着、ベージュの乗馬ズボンとロングブーツの姿。
やや風変わりで、気さく過ぎる二十二歳のこの王子を、ガイは決して嫌いではない。
「やあ、ガイ。白服に阻まれて、やって来られないのかと思った。恐るべき我が白服軍団だからね」
鞭を持ったままの手で、頬の辺りをちょっと掻いた。珍しいような緑がかった瞳が嬉しそうに輝いている。
ガイは挨拶の後で、「白服とは?」と問うた。
そこにセレスタンはにこりと笑い、「わからないかい? 医者のことだよ」
「ああ」
(確かに、彼らは白衣を纏っているな)
「少々のことなら、構わないと」
ガイが答えると、栗色の髪をしたハンサムな若者は、無邪気に笑った。
「それはよかった。君に治ってもらわないと、僕は父上に無理難題突きつけられる」
「セレスタン王子が? どうして?」
ガイは訊ねながら、鐙に掛けた足先に体重を乗せ、ひらりと一気に騎馬した。王子と並び、手袋の手で馬の首を撫ぜる。
やはりセレスタンは顎の辺りを掻きながら、にこりと笑う。愛嬌のある人懐こい笑みだ。
「君に万が一のことがあれば、まず両国は揉めるだろ。国際問題だ。下手すれば戦争」
言いながら器用に、ガイへ馬を駆けさせる方向を示す。示しておいて、また笑う。
「そうなる前に、僕が貴国へ人質になることになっていたよ。二番目で、まあ要らないっていえば、要らない王子ではあるし」
何でもないことのようにそんなことを言い、屈託なく笑うのだ。
「もうそんなことは無用です。僕は治ってしまったし。人質などではなく、ぜひ、いらして下さい。陛下もきっと喜ばれる」
「行ってもいいなあ。でも、ジュリア姫はきっと逃げるよ」
「あははは」
勘がいいのか、ジュリアの飽き飽きした態度が明け透けなのか、セレスタンには彼女の気持ちがわかってしまっているらしい。
そのジュリアは帰国して、既に十日を過ぎた。
セレスタンはガイのシャツの肩をぽんと叩き、馬を励ました。
「さあ、軽く駆けよう。その後で冷えたワインだ」
 
乗馬の後で、馬を下りたガイの前にエレーヌが現れた。
鳶色の髪をやはり結わずに垂らしている。風にそれが、ふわりと流れるように揺れる。
甘えるようにガイの腕を取った。そうして、彼の顔を見上げるのだ。
ガイが見下ろすと、そこには怒ったような彼女の瞳があった。きゅっと結ばれた口許。けれど、紅潮した頬。
彼女は彼が自分に黙って出かけたことに、気分を害しているのだろう。ここのところ、どうしてだか人に邪魔され、二人で会う時間があまりないのが不満でならないのだろう。嫌々と、言うように首を振る。
ガイは彼女の手を、やんわりと外した。ゆっくりとした口調で、
「これは、レディのなさることではない」
彼女の瞳が大きく見開かれた。その後瞬時伏せられ、またガイを見つめるそこにはなじるような、そして明らかな羞恥の色があった。
それに、ガイは堪らない罪悪感を持つ。
(僕がいけない。彼女ではなく、僕のせいだ)
次の言葉を発しようか、どのような言葉を選ぶべきか。そんな迷いのうちに、あっさりとセレスタンが割り込んできた。
朗らかな声で、
「エレーヌ、ガイが迷惑している。付きまとうのは止めろ。みっともない」
口調の割には身内の親しさか、言葉がきつい。傍らで聞くガイが、眉をひそめそうになる。
エレーヌは彼を、怒りを露にした顔で見つめ、いきなりその胸をどんと突き飛ばす。
華奢な彼女の力など他愛もなく、セレスタンはやや下がっただけだ。
悔しそうに唇を噛み、瞳に涙を溜めた彼女が、ぱっとドレスの身を翻した。そのまま駆けて行く。
(追ってはいけないのだろう)
(僕が追うべきじゃない)
彼女の姿が建物の中に見えなくなっても、後味の悪さが消えない。口の中に嫌な味が広がるように、それは喉許にまで流れていく。
「気にしないでくれ、ガイ」
「申し訳ない」
「いや、きっと、僕の役目だよ」
セレスタンはにこりと笑い、鞭を放り出して駆け出していった。
随分行った先で、不意に彼が振り返った。やはり器用に後ろに下がりつつ、大きな声で、「ワインはこの後で飲もう」と叫ぶのが聞こえる。
手を挙げて応じたガイは、ちょっと笑みを浮かべた。もしや、と生まれた思い。そしてそれが事実であればいいと願った。
エレーヌのためであり、そして自分のために。
 
 
サロンから続くテラスに立つと、眼下には整然としたパレスの庭園が、そして遠くに目を転じれば、海が望める。昼には温いばかりであった風も、夜には冷え、心地のよいものに変わるのだ。
そしてその風も、日々冷気を強めてきている。長い夏の季節が徐々に、変わろうとしている。
夜更けの一人の時間、ガイの掌には銀の懐中時計があった。
これまでは敢えて目にするのを避けてきた。
(鏡に映る、あなたばかり思ってしまう)
そこにはいつも黒髪と、ぬれたような黒い瞳のユラが、間違いなく映り、様々な表情を、鏡の中の彼女は見せてくれる。
眠そうな表情、または笑顔、機嫌が悪いのか、むっつりと押し黙ったような顔をしているときもある。
折りに、眠っている彼女の顔も映る。そんなときは、まるで隣りに眠るかのように、起こさないよう息を詰めている自分にガイは苦笑するのだ。
いずれの彼女も、いずれのときも、彼をうっとりとさせ、幸せな気持ちをもたらしてくれる。
(憂い顔が、一番多いね)
幾つもあるくるくると変わる彼女の表情で、彼が目にするのは多くがこれで、その笑わない、凍ったような瞳が、彼女を彼が知るよりずっと大人びて見せた。
無理をのんで、堪え過ぎて、あきらめようか、迷っているような。そんな途方に暮れた面影を見る者に偲ばせる彼女は、ひどく痛々しく、しんなりとたおやかだ。
「どんなあなたもきれいだ…」
彼が課した別れに、彼女は何を見つけ、そして何を選んだのだろう。
時空の彼方、途法もない隔たりの果て。
うかがい知ることなど、互いにできない。
けれども、ジュリアの言葉を思うまでもなく、彼には彼女の瞳の影、憂いの奥に、自分への変化のない愛情があるように思えてならないのだ。
つないだ手。見つめ合った瞳。重なって抱き合った肌の熱、交わした言葉のすべて。忘れるには、重すぎる絆、断ち切るには深過ぎる絆。
彼が注ぎ、そして彼女が奥に刻んだもの。
それを、彼女は忘れることなどできるのだろうか。捨て去ることなどできるのだろうか。
(ねえ、僕は自惚れている?)
鏡越しに真っ直ぐに彼へ注ぐその瞳は、自分を責めるようにも、なじるようにも感じる。
『ひどいわ』と。幾度も、彼女のあの柔らかな非難を、彼に投げかけているように。熱に浮かされたあの夢の中のように。
「申し訳ない、お嬢さん」
つぶやいた言葉が、風に流れた。
ふと、目を夜空に転じる。きらきらと瞬く星の群れを従えるように輝く月光。
丸く満ちつつあるそれを、ガイは時間を忘れて見つめ続ける。
別れは、ほどなく果てるだろうから。
 
「鏡にユラが見えるの。ガイ、これは何?」
ガイに訴えるように問うたジュリアの驚きは、彼にとっても変わらないもので、彼女が彼の懐中時計に目にしたというユラの影を、俄かには信じがたかった。
これまでは自分と祖母以外に、その鏡の中に人影を見た者はいない。
重ねる問いと、そして奇妙すぎる合致に、二人の目にするのが同じ彼女の影だということは、疑いのないものと知れた。
「ねえ、姫、驚かれると思いますが…」と、そう前置きをし、彼が告げた内容に、ジュリアの瞳が大きく丸くなったのを、ガイは今でもおかしく思い出す。
最後まで素直に聞き、彼が自分の祖母から伝わる役割の話を締め括ると、彼女はため息をつき、そうして軽く彼をなじった。「どうして秘密にしていたのか」と。
「言えないのですよ、それもルールの一つ。あなたには、よくおわかりでしょう?」
「…そうね、わたしたち、実は似通っていたのね。おかしな、不思議な力に属しているということで」
「ええ」
『見える者のみが、あの列車を呼べる。乗ることが適う』
祖母が彼に懐中時計を託した際の言葉が、脳裏に甦る。自分の掌にそれを置いた祖母の手の感触さえも。
ガイは思いの他あっさりと納得した彼女に、一つの依頼をした。自分の代わりに、ユラを迎えに行ってほしいと。
「できるのかしら、わたしに…」
さすがに怯えを見せた彼女に、ガイは無理強いができなかった。確かに未知の経験を、しかも一人で行うことには、躊躇も大きいだろう。言葉に乗せてしまってから、悔いた。
じりじりと焦る思いが、彼の冷めたはずの思考のどこかにはあって、それがそんなことを口走らせたのだと。
頼みを引っ込めかけたとき、ジュリアが諾をくれた。「行くわ」と、強い口調で告げた。「行きたい」と彼女は重ねた。
「気が向かれないのでしたら、よろしいのですよ。僕が帰国した後で行けば済むことだ」
「でも、それではまた数ヶ月も、ユラを待ちぼうけさせるのでしょう? 残酷だわ」
だから自分が行くと言うのだ。
彼女はガイの手を取り、強く握る。それからささやくように、またどこか厳かに言った。
「ねえ、ちょっと抱いて頂戴。あなたの力を分けて頂戴」
「え」
「いいじゃない。小さな頃はよくおぶってくれたでしょ? さあ、早く」
ジュリアの言葉に促され、ガイは身を彼女に寄せた。やんわりとその身体に腕を回す。柔らかな感触が、ガウンを通して伝わる。
自分の肩に乗せた彼女の額。そして、しゅんと鼻をすするような気配もした。
「姫? 不安でしたら、やはり…」
そうじゃないと言う、そんなことではないと言う。「ありがとう、わたしのために。庇ってくれて、ありがとう。一度、きちんとお礼を言いたかったのよ。ありがとう」
「紳士はレディを守るものだ。僕は当然のことをしただけですよ」
ガイの応えに、ジュリアは「ハサウェイと同じことを言うのね」と、ちょっと笑った。
「…あなた痩せたわ。わたし、前のガイが好き。前のあなたの方が素敵よ。たくさん食べて、早く元に戻りなさい。これは命令よ」
「そうですね」
彼女は彼から「力を分けてもらう」のではなく、彼に力を与えようとしているのだろう。ガイにはそう思えた。
 
 
ガイは医師の許可が下りないため、ジュリアの帰国に港までの見送りが適わず、パレスのホールで別れることになった。
その別れの間際に、彼はそっと彼女にささやいた。
「姫のサロンにある、あなたの描かれた『冬のパレスの回廊』の絵をご覧なさい。ほら、フレドリックに指導をお受けになったでしょう?」
「え」
怪訝な顔をする彼女に、ガイは更に笑顔で伝えた。
「未来への欠片が、あなたのほんのそばにあったということが、おわかりになるはずですよ」
パレスの回廊などではなく、あの絵はきっと夜空を走る列車のように、彼女の瞳にも映るだろうと。



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