セピアの瞳 彼女の影
16
 
 
 
エーグル王室の王室専用船『エスペランザ』は、エーグル領海を濃いブルーの海面に波しぶきを描き、進んで行く。
洋上は穏やかに凪ぎ、水平線との境界が目に紛らわしいほど空の青は深い。
その澄んだ上空を、白い海鳥が緩やかに気ままに滑空しては、また上昇していく。
ガイは溜まってしまった手紙をデッキのテーブルに積み、その返しを便箋にペンを走らせている。私信はこの場で処理ができるが、そうはいかない別の仕事に思いが走り、それで少し気分が滅入る。
ホワイトパレスのオフィスには、自分が不在の間、思いの他長引いた滞在で、軍関連の書類がデスクには山積みになっているのだろう。それにどれほどの時間を割かなくてはいけないのだろうか。
手紙の文章のちょうど区切りに、やれやれと、彼はペンを放し、指でテーブルを打った。
「そろそろ、中にお入りになっていただきたいのですが。風が冷たくなってきましたので」
遠慮がちにそう声をかけるのは、自分の担当医だった医師の一人。ガイの帰国に、ぎりぎりまで付き添うのだ。
背の傷痕は、はっきりと鮮やかなほどに残ったが、痛み炎症もない。少し体重が戻らないのが引っかかる程度。
(どうにも、エーグルの食事は食傷気味だ)
ガイは構わない、と医師に答え、改めてこれまでの礼を述べた。何はともあれ、十分な手当てを自分に惜しまずに与えてくれた人々に、感謝の意は示したが、最後まで付き添う彼には、特に慰労の意味も込めて。
ガイより幾らか若い彼は、礼を恭しく受け、ガイが手紙に注意を向けた後は、どこかに姿を消していた。
「伯爵」
再び彼が現われたときには、どこから持ってきたのか、医師は毛皮のコートを抱えている。それをどうか、肩に掛けてほしいと言うのだ。
「君、それは…、どう見ても真冬のものじゃないか」
あきれとおかしさで拭き出すと、医師は国から用意してきたのだと告げる。ついでに、
「セレスタン王子がぜひにと」
「あの方は…」
冗談なのか、本気なのか。あの緑色をした愛嬌のある瞳を思い出し、ガイは笑みがもれた。彼なりの親しみの表れには、違いないのだろう。
ガイはやれやれと立ち上がる。手紙の束を手に持ち、ガラス張りのサロンへ顎を示した。中で続きを書くということだ。
「それがよろしいです」
ガイの後から、毛皮のコートを抱えた満足な表情の医師が続いた。
 
穏やかだった洋上に、ぽつりと現われた黒い影は、徐々に大きくなり、次第にその剣呑な姿を露にした。
濃いグレーの装甲を施された軍艦が、静かに優雅な『エスペランザ』の右舷に横付けされた。
直ちにタラップが渡され、数人の紺の制服を纏った人々が流れるように『エスペランザ』に乗り込んでくる。
予め、この予定は伝えられてあったものの、接触するのは軍艦ではなく、王室船のはずであり、しかも時刻も早い。
『エスペランザ』の船長を始めクルーは、外国の軍服姿の人々の登場に、何か予想外の、課された役割以外の何かがあるのではないかと、不安な様子を隠せないでいた。
船長に軽い敬礼で挨拶に代えた艦の代表だと名乗る少将は、背後に数人の部下を従え、船長の問いに、ぶっきら棒に返すのみだ。
「変更の事由は、我が国の軍機密であり、公にすることはできません」
「しかし、わたくしは、上からの命で、定められたように伯爵を領海外までお送りする義務があり…」
「アシュレイ伯爵閣下は、我が軍に属するお方です。閣下に関わることは軍の機密の範疇です」
「ですが…、ここはまだエーグル領海外ではないではないですか」
船長が間違いのない反論すれば、少将は背後をやや振り返り、部下から耳打ちを受けた。
硬い表情を少しも和らげず、
「今、貴国の領海を出たそうです。さあ、伯爵閣下は?」
 
 
ガイは迎えに現われた見知った少将の硬い顔を見ると、その傍らで困ったように自分に戸惑った視線を送る船長の様子に、彼らの間に交わされたやり取りが聞こえるようであった。
医師を相手にしたチェスの途中であったが、ちょっと肩をすくめ、立ち上がり、少将に頷いた。
「ああ、あれを、持ってくれ」
セレスタン王子から贈られた季節外れの餞別を、ガイは少将に示す。船長、医師らと握手を交わし、エーグルの王室船を後にしたのは、午後になったばかりの頃だった。
艦に乗り込み、制服のクルーの敬礼に応える。ざっと見渡したが、いるべきはずの人物の顔が見当たらない。
甲板を、船室へ向かいながら、「グレイは?」と問う。グレイ・フィッツジェラルド大佐は、皇太子エドワード王子の側近でもあり、ガイもよく知る人物だ。迎えになら、多分彼が現れるのだろうと、ガイは踏んでいたのだ。
「大佐は、王子の御用で、こちらには参りません」
「そう」
ガイの回復は、報告も入り、先に帰国したジュリアもとうに広めているのだろうが、それに関した質問が飛び交った。
艦長室に招じ入れられると、ガイはすぐに少将に、
「…それより、エーグルにあまり剣呑な態度は、よろしくないな。気をつけてくれ」
「これくらいの示威行為は妥当であると、昨日の会議での決定事項であります」
「王子はその席に?」
「おられました。王子のご裁可をいただいております」
それにガイはちょっと、虚を突かれた。今回の襲撃事件で、肝心の自分が感じるものとは違い過ぎる、その外部との温度差の開きが意外だった。
派手な行為は控えてほしいと再度命じ、続けて不在時の報告を聞く。
王子が療養先のウィンザーから戻り、既に王宮に入り、軍の仕事に就いていること。その補佐をする幹部連のこと。
そしてその彼が随分と成長した様子などを、少将はそんなときばかりは硬い表情をやや和らげて話す。
「お丈夫になられたようです」
ガイもそれには笑みで応じ、背が伸びたという王子の姿を、想像したりした。
そんな風に、彼の旅の終わりは埋められていく。
 
 
久しぶりに感じる国の空気に触れ、ガイはその冷たさにややたじろいだ。
温いばかりであったエーグルの空気。その中で過ごした自分、時間、そして接した人々、そんな記憶や思いが、揺らめくように頭の中に次々に現われた。
生々しかったそれらが、冷たい秋の空気を頬に受けることで、淡く途切れ、遂には消えた。おぼろなばかりの思い出になる。
背の傷痕は、そんな彼の数ヶ月のメモワールのようにも感じられるのだ。
彼女との別離と、また再会するために刻んだ、越えなければならない必然の痛みであったように。
彼女についた、別離の嘘の、当然の代償。
償い。
責任。
彼女を思うために決めた別れであり、仕組んだ嘘であった。けれど、それは紛れもなく彼女を傷つけ、苛んだろうから。
(あなたは、許してくれるだろうか)
接岸した艦から、タラップを降りて行く。
懐かしい軍港の巨大な工廠と、つんとした鉄の匂い。
暮れかけている。青く澄んだ空がやや橙色を纏い始め、雲が長く、まだらな線を引いている。
「閣下」
背後の誰かがささやいた。艦の責任者の少将であったかもしれない。その彼は、ガイの肩に触れ、注意を引き、そして振り返った彼に腕を伸ばして何かを指し示した。
「レディ・ユラが、いらっしゃいます」
帽子のつばに掛けた指をガイはそのままに、ブルーグレイの瞳を細めた。
タラップを降りたほんの先に、彼女の案内をしただろうグレイの姿と、そして間違えようのない、記憶の中のユラの姿があった。
菫色のドレスを纏い、どうしてだか帽子もショールも手にしていない。そのまま邸を飛び出してきたような姿だった。馬車に置き忘れでもしたのだろうか。
どこか困ったように表情で唇に手を当て、自分を見つめている。
その黒い瞳は潤み、溢れるほどに涙の粒を湛えているのだ。
「ユラ……」
タラップを駆け降りるその靴音が、高くなる。かんかんと、高く、早くなる。
ほどなく彼女との距離が果て、ガイは彼女を抱きしめた。
自分の胸に頬を当てる彼女の重さと香りと、その質感。それらに、彼は息の詰まるような喜びを感じた。
自分の腕にある彼女に。
自分を選んでくれた彼女に。
ガイが何か言葉を口にした。これまでの二人にあったような親密で他愛もない彼女への言葉。
それに答えはない。堰を切ったように嗚咽を奏でる彼女を抱き、彼女が感じた涙の重さを思った。別れの重さを思った。
「ねえ、お嬢さん」
ガイは彼女の顎に手袋の指を置き、優しく上に向かせる。
彼女の潤んだ涙の涸れない瞳を見つめ、ささやいた。「あなたに、会いたかった」と。
触れた彼女の唇は、ひんやりと冷たい。
(ねえ、お嬢さん、どうしてあなたは、こんなにも冷たいのだろう。指先も、唇も)
彼女の唇が熱を帯びるまで、彼は途切れなく口づけた。



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