セピアの瞳 彼女の影 エピローグにかえて

(1)
 
 
 
どれだけの日々が過ぎたのだろう。
当たり前のようにある彼の姿と、そしてふんわりとわたしの周囲にある煙草の香りも。
伸ばした指の先に、ある彼の長い指。ほんの少し、触れたそれにわたしはいつも自分の指を絡めるのだ。
風が冷たさを増し、雨がときに雪に変わっても。
当たり前のように、それらはある。
 
 
規則正しい日常に、ガイの煩雑な仕事が織り交じり、それすらも日常に変わる。
彼と離れていた間、こちらの世界とは別の次元で暮らしていた日々は、思いの他、わたしの胸の奥に影を宿していた。敏感にそれらは今でも甦り、わたしを不安に凍らせる。
「もう二度と、あなたをひとりにはしない」
彼がくれる言葉がなかったら。口づけがなかったら。
びくびくとした怯えを抱えて、うろうろと一人の闇を彷徨っているのかもしれない。
意思に背いての別れだった。けれど、彼が言うから、彼が困るから。
もうあなたに、ブルーグレイの瞳を焦れたように細めてほしくなかったから。
だから、飲めないものを無理に飲み込むように、わたしは彼の言葉に頷いた。
それでも、怖かった。彼を信じていたけれど、堪らなく怖かった。
多分、頭のどこか隅、もしくは何か勘のようなものが、僅かに感じていたのだろう。最後になるのではないか。もう会えないのではないか。
だから、怖かった。彼のいない世界が、日々が、怖かった。
忘れられないあの、切なさと、震えるほどの孤独。
自分の弱さも、醜さも、はしたなさも、どくどくと皮膚からにじむように感じて過ごした日々。忌まわしいことから逃げるため、人の優しさを利用した。付け込んだ。傷つけた。
それらは紛れもなく、わたしの心にも痛みと痕を残した。
忘れたい、忘れられない思い出。過去。見ない振りで蓋を閉じ、胸にしまう。
けれども、わたしは間違っているのだろう。ガイがくれる肌の熱で、彼の優しい愛撫で、紛らすのではなく、どこかに追いやるのではなく。
認めるのだ。
自分が経てきた過去を、経験を。自分の一部として。ガイの背にあるあの傷痕のように。
わたしの胸にも刻まれた、彼との別れの痛みと苦しさの欠片として。
二度と、彼から離れないように。
二度と過ちを繰り返さないように。
彼とつないだ手を、二度と放さないように。
 
 
ジュリア王女から、命じられた厄介な義務がある。
「春までに、乗れるようにしておきなさい。春になったら、遠乗りに行きましょうよ。フレドリックも連れて行って、どこか風景のいいところで、スケッチをしましょうよ」
気紛れに彼女が思いつきを口にするのは、いつものこと。自身は幼い頃から乗り慣れているらしく、当然のことのようにそう言った。
それを直接彼女のサロンで聞いたわたしは、渋い顔をしたのだろう。眉を寄せるとか、唇を噛むとか。
「でも、無理だわ。馬なんて、乗ったことも、近寄ったこともないのですもの、あんな大きな動物、怖くって…」
王女は濃いブルーの瞳をわたしに据え、追い打つかのように、付け加えた。「レディの嗜みの一つよ。おかしいわ、乗馬もできない貴婦人なんて珍しいのよ。ユラ、あなたずっとそれで通すつもり? 大きな動物が怖いって。わたしのコンパニオンなら、乗馬くらい義務よ。身につけなさい」
「ジュリア…」
いつわたしは彼女のコンパニオンになったのだろう。いつ、彼女から命じられる身分になったのだろう。
こちらの歴とした身分社会、階級社会が、肌に今ひとつ馴染めなくて、すんなりと納得できずにいる。そもそも、貴婦人の何が嗜みで、何がそうでないのかも、わたしにはよくわからない。
けれど、王女に強く言われると、自分の中の足りないものの多くの一つには違いないようにも思えてくる。
目の前のジュリア王女が、嬉々として遠乗りの計画を話すのも、無邪気で可愛らしく、つい引き込まれてしまうのだ。彼女が楽しいのなら、いいじゃないかと。
「きれいな村があるのよ。湖と、スパの出る不思議な泉の村よ。そこに行きたいわ」
 
ガイに数日を掛け教わり、まず馬に乗ることができるようになった。
彼がブーツの足を掛け、ごく簡単に乗り、その後でわたしを抱くようにすくい上げてくれる。
「大丈夫、怖くない。お嬢さんが怯えると、馬に伝わる。ほら、僕を見て」
その予想外の高さと視野の広さに驚いた。広大な王宮の、ところどころ雪を被った馬場は、この高さから眺めると、地面に立つときとは違う、別の光景にも見えてくるから不思議。
ガイも忙しい仕事の息抜きにもなるのか、わたしにコーチをするのが楽しいようにも思えた。
あなたのそんな風な寛いだ笑顔を見るのは好き。滅入りそうになる気持ちが晴れてくる。
「今夜は晩餐会があるから、遅くなりますよ」
「え」
「覚えていない? 夕べ言ったのに。あなたは眠そうな猫のようだったから」
「聞いていないわ」
「そう? では、こちらに来ているエーグルの大使の話は?」
「ごめんなさい、聞いたわ」
夕べ彼は、わたしの髪に指を絡めながら、そんなことを言っていた。その大使の歓迎のための会なのだと。
「僕がおかしなときに、言ったからだね」
背中から回る彼の腕。互いの吐息の白。それが笑みに絡まる。短いその幸福な時間。
暮れかけた空の色。そろそろ時間の終わり。短い二人の午後の時間は、終わってしまうのだ。
回廊で、ホワイトパレスへ足を向けるガイとは、別れる。ジュリア王女との絵のレッスンも終えたわたしは、もう王宮に用はない。一人で車寄せに向かい、馬車に乗り、邸に帰るだけだ。
不意に、一人で摂ることになる晩餐がひどく厭わしく感じた。ちらりとも食欲もない。
長い夜をどう過ごそうか、そんな悩みともいえない思いが頭を占める。
「じゃあ、お嬢さん、次は、少し歩けるようにしよう」
ロングコートを翻し、ガイがわたしに背を向けた。
ふと、気持ちが萎えるようになる。
何が足りないのだろう。
自分を包む幸福の何が褪せて見えるのだろう。
褪せて見えるのは、自分の心の中の迷いと戸惑いのせい。ガイの言葉のせい。
だから、わたしは夕べの彼の言葉を眠い振りでやり過ごした。
その前に、あなたがくれた言葉。
それがわたしを打ちのめしたから。
驚いて、胸が凍った。
 
『僕は、あなたに嘘をついた』




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