セピアの瞳 彼女の影  エピローグにかえて
2
 
 
 
回廊をすれ違う人々に、わたしは顔を見られたくなかった。
壁側に寄り、顔をだらだらと伸びる庭園に向け、それでもあきらめきれない子供のように、背を向けたガイとの距離を考えている。
わたしは乗馬服のままだった。それにコートを巻きつけ、腕を抱きながら、のろのろと歩を進める。
「失礼、レディ・ユラでは?」
珍しい黒髪に小柄な身体。自分が思うより、わたしは目立つのかもしれない。声が掛かり、それに顔を向けたが、挨拶を述べるその紳士をわたしは、「ごめんなさい。ちょっと、急いでおりますの」と、かわした。
車寄せに向けた身を翻し、そのまま駆け出した。
振り返った回廊の先には、ガイの姿はなかった。足早に、当たり前のようにホワイトパレスへ向かったのだろう。
馬場からは、パレスの中央へ向かうように回廊を二人で歩いてきた。その中間点のような場所で、東にあるパレスへ向かうガイとは別れた。
王宮は回廊と回廊で結ばれた宮殿の広大な集合体で、方角さえ誤らなければ、回廊伝いにどこへでも行ける。
わたしは駆け通しながら、石の床を打つ自分のブーツの足音。息が上がりつつある吐息をただ聞いている。
夕闇が及びつつある時間、夜に移ってしまうには中途半端な時間なのか、人影が回廊にはまばらで、ありがたかった。できれば誰の目にも留まりたくない。
息が苦しくなってきた。少し止まろうか、歩こうか迷いが出たときに、視界の向こうにガイの姿が見えた。
ちょうど回廊を右へ曲がりかけたところだった。彼のコートの裾が、はらりとなびいて揺れた。
わたしは大きく息をつき、足を緩めずに駆けた。
彼の背に抱きつくのと、彼が後ろを振り返るのとが重なったように思う。
「お嬢さん、…どうしたの?」
「ガイ…」
彼はわたしの腕を解き、こちらを向いた。その短い間に、わたしは息を整え切れず、やや乱れた呼吸のまま彼を見上げた。
彼の瞳は驚きの色から、おやおや、といういつものからかいをにじませたものに変わる。
「走ってきたの?」
わたしは彼の問いには答えなかった。胸から溢れる訊きたいことに、押しつぶされそうになる。
当たり前のように笑う彼。当たり前のようにわたしの顎に指を置き、ちょっと上げる仕草。
「今夜は遅くなると言ったのを、拗ねているの? ねえ…」
彼はいつだって、わたしを我が侭な猫のように扱う。その甘やかすようなやり過ごし方に、今、堪らない腹立ちを感じるのだ。
「ねえ、お嬢さん、僕は少し厄介な仕事がある。申し訳ないが、邸で待っていてほしい。なるべく早く帰るから。その後で、あなたが眠くなかったら、話しましょう。ほら、約束した旅行のことを」
ガイが話を打ち切りたがる気配がする。わたしを放し、仕事へ戻りたい気配が。
日常に、変わらない振る舞いに、紛らそうとする彼。当然のように誤魔化すのはどうしてだろう。一人、うろたえる、戸惑うわたしがおかしいみたいに。
収めたものが、堪えようとしたものが、胸から溢れ出しそうになる。
疑問と疑念で、頭が痛むくらいにじんと痺れるのだ。
ガイが少々困ったように、ブルーグレイの瞳を伏せた。彼のその瞳には、またわたしが、他愛のない我が侭を彼に突きつけているように見えるのだろうか。
「どうしてほしいの?」
彼はわたしを緩く抱きしめた。頬に当たる彼のコートからは、煙草の柔らかい匂いがする。その香りを吸い込みながら、わたしは口を開いた。
「…教えて、ガイ」
彼の後ろに、ざわざわと人声が聞こえた。こつこつという幾つもの靴音が混じる。それらはこちらへ向かって来るのだろう。音が近くなる。
「どうして、嘘をついたの?」
それに答えはない。彼を呼ぶ「閣下」という声がした。
わたしを包んだ腕が解かれた。ガイはわたしのコートの襟元を少し直し、耳にかかる髪に触れた。
「あなたはわかってくれると思っていた」
小さな声がした。それはわたしに返した問いの答えではなく、独り言のように聞こえた。
頬に彼の唇を感じた。軽い別れのキス。
「帰ったら、話す」
ささやきを残して、彼はわたしから離れた。彼は軍服を着た一人に、「レディ・ユラをお送りしてくれ」と頼んだ。
そのまま、他の人に混じり背を向ける。こだわりのない彼の仕草の醒めた色。それを纏う、あっさりと突き放すような彼の背中に、瞳が冷たくなるのを感じた。
冷たい涙は、抑えた手袋の指にじんわりとなじみ、とうに冷え切った指先を凍えさせていく。
 
夕べ彼が打ち明けた言葉は、わたしを驚かせ、思考を止めた。
他愛のない眠る前のいつものささやき。ウィンザーの邸の不思議な怪談のこと。徐々にわたしたちを取り巻き始めた社交の予定のこと。その詰まらない軽い愚痴。使用人の誰かが風邪を引いたようなこと……。
それらに混じり、ふと聞き逃しそうになるほどに、ガイの言葉は唐突で、そして残酷だった。「あなたに嘘はいけないと言いながら、僕は大きな偽りを抱えている」。彼はそう前置きをした。
「聞きたい?」と問う彼の声はややかすれ、甘い響きを持っていた。わたしはよくためらいもせずに頷いた。
彼の抱えるという偽りに、ちらりとも重さを感じなかった。きっと好きだと言っていたジビエが、本当は苦手だという打ち明け話であったり……。
「僕はあなたに嘘をついた」
そこから導き出された幾つかの真実。
以前、わたしを元の世界に帰すことになったあの理由は、彼の仕組んだ嘘であったこと。わたしを帰し、その代わりに迎えに行くという彼の懐中時計に映った『少年』の姿など、なかったこと。
凍えかけた心で、それでもわたしは訊いた。落ち着いた声であると、自分でも驚きながら。
それはきっと彼の表情を見ていないから。夜衣が通す柔らかな彼の温もりとそして、紛れもない二人きりの優しく甘い時間を感じていたから、わたしの声は震えずにいたのかもしれない。
「どうして?」
の問いに、彼はちょっと欠伸の混じる声で、優しく返した。「後悔をしてほしくないから。あなたに選んでほしかった」
それきりわたしは口をつぐんだ。
問いも重ねず、眠い振りをし、彼が何か別の話題を話に乗せたときも、上の空だった。
そうして、ざわめく心と、どうしようのない不安と、気持ちの揺れを、抑え続けた。
抑えた気持ちは彼の笑顔に、優しい声に、口づけに、誤魔化されるように和まされ、引っ込み、けれど顔を出し、絶えずわたしを揺さぶり続けた。
どうして?
ようやくもらえた彼の言葉は、ごく短い。『あなたはわかってくれると思っていた』。
何がわかるというのだろう。
わたしに何をわかれというのだろう。
あのガイとの別れた日々の辛さ。わたしの抱える弱さのためではあるけれど、ガイの知らないその日々にわたしが経た経験は、切ないばかりに痛いものだった。
逃げ場もなく、何かに縋ろうとして、突き当たり、絶望して……。逃げるばかりの日々だったけれど、それはガイでない別の誰かから、何かから逃げようとしたのだ。
あなたでないと、どうしても嫌だと。どうしても、あなたが忘れられないと。
だから、逃げて、逃げて、いるはずのないあなたを捜していたのだろう。現れてはくれないあなたを。
今でも胸に残る大きな傷。形にはなくても、あなたの背の傷のように、ちょうど自分の乳房の奥に、わたしはそれを感じている。見えない傷を。
 
その別れが、彼の生み出したものであったという事実。
後悔をしてほしくないという彼。わたしに選んでほしかったという彼。
あなたのいない未来に、どんな価値があるというのだろう。他にわたしに何を選べるというのだろう。
「ひどい」
彼の偽りは時間を経ることに胸に響き、わたしをどうしようのない苛立ちと悲しみ、そして悔しさに包んでいくのだ。
「ひどい」
彼のついた嘘。偽りの理由と、それ故の別れ。
それがなければ、わたしはあの痛みも苦しみも、切なさも知らずにいられた。ガイと離れずに、何も知らずにいられた。
せんのない繰言のような思い。それがくるくると身体中をめぐる。指先は冷え、それを押し当てる唇も冷たい。頬も、涙のにじむ瞳も……。
なんてわたしはどこも冷たいのだろう。
 
「奥さま、旦那さまのお帰りでございます」
書斎で窓辺に立ち尽くすわたしに、ハリスの声が掛かった。いつ彼は書斎に来たのだろう。ノックの音も扉の開く音も、何も聞こえなかった。
飾り棚の銀の時計は、深夜を知らせている。寝室に引き取っていないのだから、出迎えようかどうしようか迷い、わたしはハリスの後について書斎を出た。
ガイはホールに立ち、コートを脱いだところだった。タイを緩め、わたしに気づき、ちょっと笑んだ。真っ直ぐにこちらに向かって来る。
「遅くなった。申し訳ない、お嬢さん」
どこに、いつもと違うガイを見ることができるのだろう。
その笑みにも。小首を傾げ、わたしを見る仕草も。腕を伸ばしわたしの腰に回し、引き寄せるいつもの彼に。
何が違うというのだろう。
 
けれど、彼は嘘をついた。
その嘘は、わたしの胸を引き裂くように傷つけたのだ。



          サイトのご案内トップページへ♪
『セピアの瞳 彼女の影』のご案内ページへ         

お読み下さり、ありがとうございます。

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪