セピアの瞳 彼女の影  エピローグにかえて
3
 
 
 
「こんな遅くまで、一人で何をしていたのですか?」
ガイはわたしから離れ、書斎の長椅子に掛けた。脚を椅子の肘掛に乗せる。
彼が掛ける椅子の向かい合う長椅子には、わたしがやり掛けた編み物が置かれている。シンガポアの首輪を編んでやろうと思い立ち、編み針を持ったはいいけれど、少しばかり編んで置き去りにしている。鈴を付けて飾れば、ひどく可愛いように思えたのに。
いつもなら、遅くなる彼を、わたしは寝室で待つのだ。わたしが起きていては用を待つ使用人が増え、それを気配ってのことの他、わたしは寝室に一人でガイを待つ時間が好きだった。
マントルピースに穏やかに燃える炎。テラス側の大きな窓には深夜には雨が叩くことも、雪が散らつくこともある。
そんな中、わたしは夜衣に着替え、髪を下ろし、ベッドにうつ伏せ詩集を繰る。または庭師のジョンと計画している、春に目がけたバラ園の改修のことを考える。
いつの間にかまどろみ、ガイがベッドに腰掛ける気配で目を覚ますときもある。もしくは化粧室で、髪を梳いている気づかないわたしを、後ろからガイがこっそりと抱きしめたり。
いずれも、わたしを幸福に染める時間。満ち足りた、欠けることのない日常。
彼の問いに答えないわたしに、もう一度ガイが問う。
「どうしたの?」
その何気ない彼の声が嫌だった。
知っているくせに。わたしが何に拘り、何に眠れずにいるか。
よく知っているくせに。
「ねえ、お嬢さん。怒っているの?」
ガイが身を起こして立ち上がり、わたしのそばに来た。腕を取り、指を絡め、宥めるように、顔をのぞく。
噛んだ唇のその端を、彼は指でなぞった。「止めなさい。そんな癖はよくない」
やんわりとした注意。わたしが唇を噛むのが、彼には見苦しいのだろうか。貴婦人らしくない仕草なのだろうか。
「…わたしは、あなたの奥さまには、きっと相応しくないのね」
腹立ち紛れに、どこからか、こんな憎まれ口が飛び出した。拗ねたような口調、ガイがそうでないと思っていること、そうでないと否定してくれることを知っていながら、こんな言葉を口にする。
みっともないと、自分でも感じながら、胸の苛立ちが、止められないのだ。彼への憤りが、それでもためらう心と争って、出口を彷徨い、こんな形で溢れ出す。
「わたしは、あなたには似合わないわ、きっと…」
そこでガイの呆れたような小さな嘆息が聞こえる。
「…告げなければよかったね。僕のせいだ。申し訳ない」
それで彼は話を締め括るつもりなのだろうか。お終いにするつもりなのだろうか。
何の説明も、気持ちのやり取りもなく。短い詫びで、彼はそれで終わりにするつもりなのだろうか。
自分が悪かったと。言わなければよかったと。
ほしいのはそんな言葉ではない。なぜ、わたしを離したのか。その程度の気持ちだったのか。
『後悔をしてほしくないから。あなたに選んでほしかった』と彼は、偽りの理由を告げた。
わたしはそんなに揺れて見えたのだろうか。ふらふらと頼りない気持ちを彼に捧げていたのだろうか。
初めて愛した人。この人以外は、どうしても嫌だと。あなただけだと、揺らがずに、迷いもなく、躊躇もなく誓った。
彼と初めて結ばれた日のこと。「抱いてほしい」とせがんだあの羞恥を、わたしは今でも覚えている。頬に朱が差すほどに、今でも忘れない。
あなただけ。ガイになら、そんなわたしを見せてもいいと思った。
それでわたしの気持ちを知ってもらえるのなら、あなたの孤独を分け合えるのなら。
 
「何が、足りなかったの? わたしに、何が足りないと思ったの?」
 
彼はわたしを見つめ、静かに首を振った。「僕はあなたの気持ちをテストしたのじゃない。あなたに、選んでほしかっただけだ」
いつの間にか溜まった涙が、独りでに溢れた。わたしはそれを、すぐに指の腹で拭った。ガイより先に涙を始末したかった。彼の指がわたしの涙を拭う、その優しい仕草に、誤魔化されたくない。
うつむきながら、ガイの指が、わたしの顎を捉えるのに抗い、顔を背ける。
「信じてくれなかったの? わたしの気持ちを。そんなにわたしは…あなたに、浮ついた女に見えたの?」
しまった涙は、自分の自虐な言葉に再びにじむ。嵩を増し、それはうつむくため、絨毯にぽとりと落ち、涙のしみを作るのだ。
「そうじゃない」
引き寄せるガイの腕を感じながら、わたしはそれに包まれてしまうのが嫌だった。何事もなかったように、彼の温もりに飲まれてしまう自分が許せないのだ。
手のひらを彼の胸にあて、彼の力に抗う。けれど、その抵抗は他愛もなく、小さな小箱をこじ開けるように、彼はわたしを抱きすくめてしまう。
「そうじゃない、あなたを信じていた」
「だったら、なぜ? どうして別れが必要だったの? わたしを信じているのなら、それでいいでしょう? 何がいけないの?」
わたしの言葉は嗚咽にまみれ、いつしか「ひどいわ」という言葉の羅列に流れる。
ガイの気持ちがわからない。
何を考えているのか。何を思ったのか。
わからない。
「あなたに泣いてほしくない」
涙でぬれるわたしの顔を、彼が強引に上向かせる。そのキス気配が、堪らなくわたしの気持ちをなぶる。
「や」
力でねじ伏せる口づけ。絡まる舌に、深くなるつながり。その熱いキスが痛い。
つきんと胸を刺すように、あなたのキスが痛い。
「人の気持ちは、変わる」
ガイはキスの狭間にそうつぶやいた。
「だから…」
指でわたしの髪をかきやる。見つめるブルーグレイの瞳。瞬きも、そのまなざしも。
「あなたに、冷静になってほしかった」
頬に触れる長い指。ぬれる唇の輪郭を辿り、ゆっくりと「噛んでいい」とわたしにささやく。
「あなたが噛むのは、僕の指だけでいい」
やんわりと、酔わされるような心で、わたしは彼の指に緩く歯をあてがった。
ずるい。
ガイはずるい。
「許してくれない?」
微笑む彼の瞳はわたしを見つめ、わたしだけを映し、そこには変わらない優しさがにじむもの。
あなたと離れた間、わたしを包んだのは悲しみばかり。あきらめばかり。そのやるせない苦しさ。
胸が裂けるような、痛みと切なさ。
それを、ガイは、愛撫で紛らそうとしている。それでお終いにしようと。
 
「死んでしまいたいくらい、辛かったの。あなたを忘れたいほど、辛かったの」
だから、涙は止まない。
気持ちの置き所がない。
 
彼はわたしの腕を解き、ドレスを指で首から胸、腰へ伝わせた。それに従い、身を屈ませる。
「あ」
それは驚くべき行為だった。あっさりと彼は、それをわたしに前に晒す。
片膝をつき、跪いた彼が、わたしのドレスの裾に唇を当てる。
「許してほしい。あなたが望むなら、靴先にキスしてもいい」
だから、許してほしいと。
 
「あれ以外の選択を、僕はできなかった」



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