セピアの瞳 彼女の影  エピローグにかえて
4
 
 
 
片膝をつき、跪いたままのガイ。
襟足につながる彼のジャケットの黒の広い背が、立ったままのわたしからは見える。
その背には、ジャケットからは見えない素肌に大きな傷痕があるのを、わたしは知っている。
わたしが彼と離れて過ごした間に、彼が得た痛み。その傷痕を目にするたび、触れるたび、心がひやりとなるのだ。
自分の傷を引き出してしまう。
目を背けるべきではないと、忘れるべきではないと、むしろそのじわりと胸が竦む感覚に慣れようと、彼の背の傷がわたしに辿らせる思いを、わたしは抱きしめている。
そしてわたしという女がずっと大人になり、何かを得、それらに紛れる、包まれていくのを待とうと思った。例えば今のガイの歳を越え、ひどく落ち着いた女になったのなら、わたしの中で傷はきっと昇華し、痛まないのであろうと。
あなたのそばで、そんな日々を、幸福に混じる微かな憂いを、味わって、感じて生きていたいと思った。
それすらも、きっと紛れもない幸せなのだと。
「申し訳ない。手に何も持っていない。あなたにあげる薔薇もない」
「止めて、ガイ」
あなたにそんな真似をしてほしいのじゃない。
わたしは華奢なスリップオンを履いていた。その爪先は、ガイの手に簡単にほろりとこぼれた。掌に載ったわたしの裸の甲に、彼は軽い接吻をする。
「許してくれる? ひどい僕を」
答えを探す前に、ドアをノックが叩いた。ハリスだろうか、従僕頭のマークだろうか。わたしは慌てて、身を屈めた。ガイと同じように膝をつき、滑稽だけれども、床を何か落ちた物を二人で探す風を繕った。イヤリングであるとか、ペンであるとか。
誰であろうと、ガイが跪いた様を見せる訳にはいかない。
わたしの仕草にガイはちょっと笑った。何がおかしいのだろうか。
「入りなさい」
ガイの声に、扉を開けたのは、果たしてハリスだった。わたしたちの様子に不審げな顔もせずに、用はないかを問う。どうであったら、彼の表情を驚きで歪められるのだろうと、そんなことをちらりと思う。
「何もないよ。もう休んで構わない。火の始末は僕がする」
「お書斎に何か?」
「ちょっと、そう探し物を…」
ガイは、わたしを抱きかかえるようにしながら立ち上がった。「今夜はあきらめよう。明日、マーガレットが上手に見つけてくれるから…」
「ええ…」
「お探し物でございますか? わたくしが致しますが」
「いや、いいんだ、ハリス。大した物じゃない。お嬢さんの…、僕は見ていないんだ。ねえ、何だった?」
ガイはわたしに、笑みを浮かべた瞳で、問いを投げる。その彼の態度に軽い苛立ちを覚えながらも、わたしはイヤリングだと言った。でも、それはなくしたのはこの邸ではないかもしれないから、構わないのだと。
「眠くなったわ、もう休みましょう…」
ハリスの前で取り繕う、おかしな演技に疲れ、わたしはガイの腕を引いた。ハリスが下がった後、ガイは火掻き棒で暖炉の火を消した。そして照明が落とされ、書斎は暗闇に沈んだようになる。
ガイの腕がわたしの腰を抱き、引き寄せる。
「何をなくしたの?」
ささやく彼の声は笑みをにじんでいる。わたしがとっさに仕掛けた芝居が、彼にはおかしいのだろう。
「からかって…、嫌なガイ」
指先で、彼がわたしの顔の輪郭を辿る。
「怒っているの? ねえ、お嬢さん」
お芝居の真面目なシーンの佳境で、中座してしまったように、わたしの怒りの矛先も、悲しみの形もおぼろげに、うやむやになりそうになる。
誤魔化されそうになるのが嫌で、些事に紛らせる簡単なことではないと、彼の指を避ける。
「嫌」
拒絶を口にしながら、唇を尖らせ、頬を僅かに膨らませ、わたしはありきたりな不満を表情に載せるのだ。
そんな仕草が堪らなく子供っぽくて、自分が惨めになる。結局わたしは、こんな風にしか、自分の心をさらけ出せない。
それでも幾ばくかの彼へのためらいと恥ずかしさがのぞかせて。拗ねて、甘えて、膨れて、単純な道化芝居のように。
それがじんわりと、悲しみでもない怒りでもない涙をにじませる。
再びガイの手がわたしの頬を捉えた。するりと撫ぜ、「膨れているの?」と問う。その問いに焦れて、わたしは唇を噛んだ。
彼の指はその唇に触れ、やんわりと中をこじ開けるようにし、舌の上で留まった。
「噛んで」
彼の中指。その関節内側を、わたしは少し力を込めて噛んだ。
それで、宙ぶらりんの気持ちをやり過ごす自分。
それで、わたしの憤りを、煙に巻くようなガイ。
彼をずるいと思いつつ、ひどいとなじりつつ、あなたの背に刻んだ傷をもう一度目にしたいと思う。指で触れ、痕をなぞり、感じたいと思う。わたしの心の影に、ひっそりとどこかでつながるその傷に。
 
書斎を出る、階段を上る。廊下を歩く。
遠くで使用人の立てる音が静かな邸内に微かに届くのだ。あまりこの時間に寝室の外を歩くことのないわたしには、それらが新鮮だった。
一日の紛れもない終わり。
寝室に入り、ジャケットを脱いだガイが、それを長椅子の背に放った。ベッドに掛け、わたしを引き寄せる。
「ねえ、怒っているの?」
ガイの問いに髪を梳きたいから、着替えたいからと化粧室に逃げた。閉じたドアの奥で、照明を灯し、わたしはすとんとしたワンピースの夜衣に着替えた。そのままでドレッサーに向かい、ブラシを持った。
数度ブラシを滑らせたところで、シャツのタイをすっかり外したガイが、ドアを開けて入ってきた。襟のボタンを寛がせながら、わたしの手のブラシを取った。
「貸しなさい。僕がしてあげる」
「レディ・アンにしてあげて、慣れているの?」
うっかり口にした毒のある言葉にガイは、わたしの髪に絡ませたまま、ブラシを止めた。鏡に映る、彼の表情を見ることができなかった。呆れたような、もしくは、不快さを隠さないだろう皮肉げに唇を歪ませた顔、そしてそれらを露にする瞳を見るのが怖かった。
目を伏せたまま、化粧台の香水の瓶を眺めながら、
「ごめんなさい。嫌な言葉だったわ」
「あなたにしては、風刺が効き過ぎているね」
ガイはそれ以上わたしの言葉について言わず、幾度か髪を梳いてくれた。
目を鏡に向けると、しっとりと肩に広がったわたしの黒髪が見えた。鏡に映るのは、クリーム色の夜衣の肩に流れる幾つもの黒い髪筋。何気なくわたしは額に掛かるその髪を、指で横に撫でやった。
「あなたがそんな風にしているのを、僕はずっと夢見ていた」
「え」
ガイの手から離れ、ことりと化粧台に置かれたブラシ。そして身体に回る彼の腕。包まれるようなその感覚。
「そばにいないあなたを、思い描いていた」
「ガイ…」
一日の終わりに、喧嘩のまま終わりたくないのだろうか。
彼の背の傷に触れたいのだろうか。
素肌で抱いてほしい気持ちが芽吹いてくる。
 
「だったら、抱いて」
 
必然だと思った別れ。
理不尽な、けれどどうしようもない運命だと思った。
あなたが言うのなら。
ガイが困るから。
だから、耐えられた。乗り越えられた。
すべてが終わり、別れが果て、収まるべき所に収まるように、わたしはあなたのそばにいる、当たり前のようにそばにいる。
ただそれを、得がたい奇跡だとわたしは喜べばいいのだろうか。
互いに感じて、触れられる距離の熱に。
愛撫にはにかんで、けれど耐えがたくて、こぼれる吐息のような、自分の声にならない声に。
つながる充足と、そしてその溺れるような恍惚に、紛らせばいいのかもしれない。
「あなただけを、愛しているから」
間違いのない重さのあるささやきに。
わたしはうっとりと瞳を閉じればいいだけ。余計なことを考えずに、いつもの彼が中心の日常を思えばいい。
レディ・ユラでいればいい。
 
いいではないか。
必然の先に彼の意図があろうとも。わたしに別れを強いたのが、彼の意思であったとしても。
 
 
抱き合った後の、少し気だるいような二人だけの密な時間は、それはとろりと蜜のような甘い靄が、まるで天蓋から降りるレースのように、わたしたちを包む気がする。
いつもそう。
満たされた思いが、胸を占めていくのだ。
眠くもあり、けれども眠るのも惜しいような、ひと時。他愛もないことを話していたいけれど、黙ったまま指を絡めるだけの静けさが、心地よくもある。
暖炉の火が幾つかはぜ、その数を眠るまで数えようと試み、十四まで数えた。
その間にわたしの隣りで、こちらを向くガイは眠ってしまっていた。癖で、目の上に掌を仰向けに載せて寝ている。
露な肩が寒そうで、シーツを手繰り寄せた。そのときに、彼の背の傷痕に、わたしは故意に触れた。
抱き合う情事の最中、幾度も触れた。指でも触れ、唇を這わせもした。
シーツの上からその傷に触れた。ガイは目を覚まさない。規則正しい呼吸の音がする。
忙しい日々に、疲れているのだろうか。明日は、少し寝坊をしてほしいと思う。午後から大学での講義があると言っていただけだったもの。それからは、王宮へ少し寄るだけだと。
しばし、わたしはこれからの予定に頭を働かせた。晩餐会のこと、ジュリア王女の夜会、そしてエドワード王子がくれたあの……。
 
傷痕が傷まないかを、わたしは以前訊いたことがある。深い傷などは、治った後も、寒さや湿度など環境で、痛みをぶり返すことがあるということを、どこかで聞いたことがあったから。
それにガイは痛くないと答えた。ちらりとも痛まないと。
痛まないのなら、とほっとし、わたしはそれを嬉しくありがたいと思った。ガイが感じる苦痛なら、そのままわたしの抱えるもので、感じられない分、更にわたしを苛む。
『忘れていることが多いのですよ』
そんなことを言う。わたしを安心させようと、敢えて言葉にしてくれるのだろうと、思う。大丈夫なのだと。
けれども……。
わたしはするりと、彼の背の、ふっくらと盛り上がった斬り傷の痕に、指を置く。幾度も触れ、感じ、自分の一部のようにもなったこの傷痕。
背にあるこの傷は痛みもないといい、形も背にあり目に届かない、触れない。『忘れていることが多いのですよ』という彼の言葉は、嘘ではないのだろう。
 
『忘れていることが多いのですよ』
 
辿った思考に、一瞬息が止まった。驚きに、瞬きも忘れる。
彼がわたしと離れた間に背に負った傷を、痛みもなくそれゆえにもう忘れかけているとしたら。
一方、独りよがりに乳房の奥に抱き、いつもじくじくと自分が造った過去の影の存在を感じているわたしと。
その差は、なんて大きいのだろう。
負った彼すら忘れる傷。その傷は、いつだって、わたしの胸の過去を、僅かに、大きく、引き出してしまうもの。
そして、ガイが忘れた背の傷は、あなたには見えなくても、わたしにはいつも鮮やかに見える。
剥き出しのまま、わたしに過去を突きつけてくる。
 
あなたは知らないでしょう?
見えないのだから。
あなたの背の傷は、あなたには見えない。



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