セピアの瞳 彼女の影
3
 
 
 
マキシミリアンのアシュレイ伯爵邸で、ウィンザーからの主人夫妻の帰りを出迎えた人々は、まず奇異な表情をした。
執事のハリスが開けた馬車の扉から現われたのは、ガイ一人だった。彼はあっさりと、当たり前のように馬車を降り、ごく簡単に右手を挙げ、迎えに応えた。そのまま広間に向かう。
あり得ないことではあるが、ハリスは見落としがないか、ガイの降りた馬車の中へもう一度視線を走らせた。誰もいない。
これまで執事としてはなかった愚かな確認の後で、主人のすんなりと伸びた背中へ目を向けた。
(奥さまは……、どうなさったのだ)
うろたえた態度をとったのは、ハリスだけではない。家政を任されているアトウッド夫人などは、一人のガイに目を見開いている。居並んだメイドも従僕も、互いに目交ぜをし合い、首を傾げるのだ。
ガイの新しい夫人レディユラが不在である理由を、ガイは書斎に引き込んでから伝えた。
長旅で疲れたのか、すぐにタイを緩め、長椅子にいつものように長くなった彼は、
「レディ・ユラは、エドワード王子のお側にいる。お歳も近いし、王子は彼女をすっかり気に入られてね、療養の間、話し相手になってほしいと言われたんだよ」
それで彼女をウィンザーの王子の許に、置いてきたのだという。
共にこの知らせを書斎で耳にしたハリスもアトウッド夫人も、ガイの軽い口調にほっと胸をなで下ろした。
(ご事情がおありなのだ。何にせよ、レディ・ユラは、ご夫婦の不仲でいらっしゃらないのではないのだ)
彼ら使用人がまず懸念したのは、主人夫妻の結婚の破綻だった。
五年前のレディ・アンとの忌まわしい離婚の後で、彼がどれだけ塞いでいたか、どれだけ孤独に包まれた生活を送ってきたか。身近に接して知り抜いている。

だからこそ、今回のガイの再婚は、めでたくも嬉しい出来事だった。
新しい伯爵夫人は若く愛らしい人である。貴婦人としては頼りなげではあるが、思いやりのある心の優しい女性だ。何よりガイが気に入り、妻に迎えたのだ。それでよいではないか……。
しかし仲がよいように見え、二人の間に何か齟齬でもあったのかもしれないと。
現に、前妻のレディ・アンとは、あのように睦まじく似合いであったのに、何が原因か、二人は破局を迎えてしまったのだと。
また同じようなことが……、とそんな不安がすぐによぎった。何しろ、レディ・ユラを迎え、その新婚旅行のようなウィンザーへの転地からの帰りに、肝心の夫人が不在なのである。
「お茶をくれないか」
主人の声に恭しく下がったハリスに代わり、アトウッド夫人は、ガイへぐいとふくよかな身を乗り出し、「坊ちゃま」と呼びかけた。
小さな欠伸をしながらガイは、「マーガレット、何だい?」と応じた。
「坊ちゃま」と繰り返し、彼女はどうしてユラを伴わなかったのかを問うた。
ガイは起き上がり、椅子から立ち、マントルピースの辺りをちょっと歩きながら、煙草に火を点けた。
「王子のご希望だよ。仕方がないだろう? 療養は、ひどく退屈なご様子だったからね」
「ですが、坊ちゃま、まだご結婚されて一月もたたないのですよ。そんな大事なときに…王子もご理解のないお方でございますわね。坊ちゃまのご事情を、よくご存知でいらっしゃるはずですのに。お二人を引き離すなんて、ひどうございますわ」
「あははは。マーガレットにかかっては、皇太子も形無しだ」
ガイは少し肩を揺すって笑い、「彼女がそれで構わないと言ったんだ」と告げた。
「構いますわよ。まあ、まあ……、お二人とも、何とも暢気な。いつになったらわたくしは、坊ちゃまのお子さまのお世話をさせていただけるのでしょうね」
「たくさん僕の男の子を産んでくれると、彼女は言っていたよ」
「それなら尚のこと、ご一緒にいらっしゃらなければいけませんのに」
彼女のウィンザーの滞在は、少し長引くかもしれないと、ガイは伝えておいた。
アトウッド夫人はまだ愚痴を言い足りないのか、前で組んだ手を振りながらぶつぶつとこぼす。「ご新婚でいらっしゃるのに」と。面白くなさそうだ。
「奥さま付きのメイドのアリスが、きっと寂しがますわ。暇を持て余して、怠け癖がつくかもしれません。困ったことですわ」
ガイはそれにも笑って応え、くるりと彼女から背を向けた。火の燃えるマントルピースに、半分ほど吸った煙草を放り投げた。
書斎のドアが開き、ハリスがお茶の仕度を乗せたワゴンを押し、入ってきた。
彼の背の向こうでマーガレットがやや抑え気味に、彼とのやり取りをハリスに伝えている。それに頷きながらも、無言でお茶の仕度を進めるハリスの気配も察せられた。
煙草の香りに混じり、柔らかな紅茶の匂いが漂う。振り返るとテーブルには麻のクロスが敷かれ、その上に並べられた湯気を立てるティーカップにティーポットが並んだ。
そして、彼は口にしない甘いお菓子が幾つも載るトレイが置かれていた。
自分一人の生活では、なかったもの。ついユラのいる日常の流れで用意したのだろう。
(こんなところにも、あなたの残した影がある)
ティーカップを取り、乾いたはずの喉に熱いお茶を流しながら、彼は下がる二人に声を問いかけた。
「ねえ、二人はお嬢さんが好きなのかい?」
おかしな問いをするものだという表情が、二人の顔には浮かんでいた。何を訊くのかと。
二人はちょっと視線を合わせた。困ったように、それでも笑うのか、頬を緩めた。ややして言葉を発したのはハリスだった。
「旦那さまがお選びになられた奥さまでございます」
「答えになっていない」
更にガイが問う。「君たちが好きなのかを、僕は訊いている。イエスか、ノーかだ」
「イエスか、ノーでございましたら。イエスでございます」
答えを聞き、それでいいのか、ガイはもう言葉を出さない。下がってよいかを訊ねる彼らに、頷いたばかりだ。
 
彼らが下がった後、カップをソーサーに戻し、彼は背もたれに背を預け、ぼんやりと書斎の様子に目を転じた。
自分が独居だった頃、この部屋のカーテンはもっと暗い色だった。壁紙もそう、違ったものに変わっている。
「明るい色が好きなの。ガイは嫌かしら?」
彼女は嬉々としてそれでも控えめに、彼の意向を聞き、模様替えを楽しんでいた。書架の隅にあるチェストの上のキューピッドの像。それは彼の両親の結婚祝いに、どこからか贈られたものだった。確か、祖母方の……。
(あんな物を、どこから彼女は見つけてきたのだろう。きっとマーガレットが手伝い、納戸にしまい込んだ貯蔵品のリストでも作り、彼女に見せてやったのだろう)
壁の白夜の海を描いた絵画も消えている。代わりに銀とガラスの装飾のある飾り棚が置かれ、生花を幾つも幾つも活けられている。彼女の不在の間、誰かメイドが活けたのだろうか。
そこかしこに感じる彼女の気配。
香り。
影。
それらに彼は軽い眩暈を覚えた。ゆらりと視界が揺らぐ気がする。
身を削ぐように彼女を離してきた。
彼女に真に、選んでほしかった。何にも囚われずに、彼女の未来と、その運命を。
(あなたは、優しいから……)
弱いほどに、どうしようもないほど優しい彼女は、きっと自分のそばにある限り、本当の心を探さないだろうと、彼は思った。
気づきもしないだろう、と。
彼への気持ちは、確かに恋ではあったのだろう。
けれども、それが真実彼女の幸福と沿うのか、彼には自信がなかった。自分は知らないのだ。時空の彼方にある彼女の辿った過去と、そして包む環境を。
どちらがより彼女に相応しいのか。
二つを並べ、選んでほしかった。
あの不思議な彼女の世界と。そして、彼とある未来とを。彼への同情も、憐憫も、そして恩義さえも外し、冷静に残酷に、彼女に一番の選択をしてほしかった。
(僕はあなたに、心の底から、幸せになってほしい)
(そして、結果、僕を選んでくれるのなら……)
ガイは彼女の残滓に、堪らない思いで、目を閉じた。
 
「お嬢さん、申し訳ないが、僕の迎えは少し…、遅れるかもしれない」



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