セピアの瞳 彼女の影  エピローグにかえて
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それは、そもそもたかがティーカップが発端。
アンブレア大将夫人ミルドレッドのサロンでの出来事だった。彼女は『高級将校夫人の会』の発起人であり、会の中での夫の階級序列はトップであり、つまりリーダーなのだ。
化粧の濃いふくよかな年配にさしかかった女性で、会の女性を支配というと語弊があるのだけれども、その気分を盛り上げ、扇動することにかけては、強い情熱を持つ。
とにかく、会の運営を生きがいにしているような雰囲気だった。
わたしは彼女がリーダーを務めるこの『高級将校夫人の会』には、エドワード王子の後見役を担うガイが、軍に深く関わる関係で、再三の誘いを受け、一二度お義理に顔を出しただけだった。
それ以上の交際を持とうとも、親しくなりたいとも、特に感じなかった。
軍部関係の晩餐会、パーティーなどで、当然のようにガイはわたしを伴う。幹部らと難しげな会話に流れそうになると、わたしの背にあてがった手を緩く前に押し、「さあ、ご夫人方と、お喋りでもしていらっしゃい」と彼女ら、夫人たちのグループへ誘うのだ。
それはその場は、何とか行儀のいいレディ・ユラを努める。ガイの恥になってはいけないし、彼女ら夫人連中に、嫌な空気を感じ嗅ぎ取ったこともない。
軍幹部の妻の社会という、ごく狭いコミュニティーの中は、ひどく排他的な印象は否めない。だからこそなのか、だけどなのか、彼女らは互いに気遣いつつ、密につながり、交際を絶やさない。
軍部の置かれたホワイトパレスでの、たまさかの議論上の諍い、テーブルを叩き、誰かのしんと胸が冷えるような声が上がるときがある。
そんなとき、わたしの胸は、きゅっと萎縮してしまう。怒鳴り声は聞きたくない。とにかく、恐ろしくなる。
けれども、そのサロンの傍らで、花のようなドレスを纏い、『宅の庭には鶏舎がありますの。毎朝獲れたての卵がいただけますわ』とか、『お台所の物を盗もうとした使用人に、かぼちゃを投げつけてやりましたわ。かぼちゃはいざというときに便利ですわ。ドアの隅に皆さん置かれてはいかが? 主人の浮気などにも、もちろん投げつけてやりますわ』など……。
他愛のない穏やかな生活の一こまを、夫たちの剣呑な様子に構わず、朗らかにぽろぽろと披露し合う妻らの、どこか逞しいような存在は、確かに牽制となるのか、煙草の煙に包まれる男性陣に届き、いつしか白熱しつつあった誰かの怒りの熱も冷めかけるのだ。
そして、ときには夫に働きかけ、エドワード王子まで動かす。彼の名を冠した会主催の催しがあるのだ。『皇太子エドワード王子ご配慮の孤児院慰問』、『皇太子エドワード王子ご配慮の救済バザー』……。
ある意味、重要な存在意義があるとも言えるのかもしれない。
ともかくも、わたしは彼女らの『高級将校夫人の会』のメンバーなどではないと思っていた。ガイは軍人ではないし、わたしは軍人の妻ではない。
幾度かの面識で、リーダーのミルドレッドは、親しみを露にし、あれこれとつながりが絶えないように手紙をくれ、またはティー・パーティーや会の集いに招待してくれた。やんわりと断りを入れ、それでも『お時間のよろしいときにでも』と、誘いをくれる。
風邪の見舞いに邸まで来てくれたこともある。さすがに無視はできず、その返礼に、彼女の誘いのティー・パーティーに出た。
その席で、わたしは彼女の大事にするティーカップを取り落とし、床で割らせてしまったのだ。
 
「申し訳ありません、大事なお品を…」
慌てて椅子から立ち、床に膝をつけたわたしに、ミルドレッドは鷹揚に応じた。
「ああ、レディ・ユラ、お構いになることはありませんのよ。大したものではないのですもの。そのままに、どうか」
呼び鈴の後で現われた使用人が、粉々になったカップの残骸を片付けるのを惨めな気持ちで眺めながら、わたしはくどくどと詫びを繰り返した。
「粗相をしてしまって、申し訳ありません。弁償をさせていただきます。邸に連絡をお願いします」
「よろしいのですよ。陶器など、割れる定めの物ではないですか」
のらりくらりと笑顔で、弁償したいというわたしの声をかわすのだ。けれど、その金の縁取りのあるカップは、彼女のお嫁入り道具だと言っていたのだ。お金で購えない思い出の品なのだ。取り返しのつかないことをしてしまったと、身が竦みそうになる。
ああ、やはりこんな場に来なければよかった。風邪がぶり返したとか、パレスにジュリア王女の用があるとか、どうとでも、逃げればよかったのだ。
いつしかわたしはそばの夫人に腕を取られ、元のように椅子に掛けさせられていた。
「そのような、奢らない気さくなお人柄が、アシュレイ伯爵は愛していらっしゃるのでしょうね」
「つんとしていらっしゃらないところが、おつき合いして気持ちよいのですわ」
「貴婦人でいらっしゃるのに。お気持ちが暖かい方なのですわ」
宥めるつもりか、口々にそんなことを言うのだ。彼女たちは何を言っているのだろう。わたしは単に、育ちが悪いだけなのに。
もしかしたら、貴婦人らしくないわたしのどこか軽い雰囲気に、高位の貴族の家柄ではない彼女らは、親近感を覚えるのかもしれない。
ともかくも、いたたまれない思いで、ティー・パーティー辞去した。その翌日。ミルドレッドから手紙が届いた。
てっきり、ティーカップの件だと思い、封を開けると、中から飛び出した内容に、わたしは言葉を失った。
滑稽過ぎて、笑みも浮かばない。呆れるばかりだ。
これまでのようにやんわりと否を言う権利も、気持ちも削がれ、わたしは早々に、彼女の願いを受け入れる返事を返した。
わたしは『高級将校夫人の会』の名誉総裁になった。
 
 
書斎、または居間のテーブルや、チェストの上に置かれた銀のトレイ。それには白い手紙が幾通も積まれている。
まだ封を開けていないもの。開けてはみたが、返事をしたためていないもの。開ける気にもならないもの。
読んだがその返事をしたためていない手紙は、便箋を広げたまま上を向き置いてある。
ちらりとその内容を眺めたのか、ガイはふとそれに手を伸ばした。午後遅く、彼は大学から帰ったところだった。夜はわたしを伴い、ジュリア王女の夜会に出ることになっている。
わたしは彼に背を向けて、シンガを構う振りをしていた。果たして、予想したように、彼の笑い声がうなじに聞こえる。
面白がっているのだ。わたしがあり得ない『名誉職』を得たこと。その役目と、すべき仕事に。
彼の様子に何も応じず、長椅子に身をよじる形で、わたしは掛けていた。ガイの笑いがやや収まった時分に、髪を上げたうなじに彼の指が触れた。
「失礼。怒ったの? 笑ったから」
「好きで、なったのじゃないわ。ミルドレッドのお嫁入りの大事な品を、壊してしまったの。そのお詫びのつもりで引き受けたのよ。それだけよ」
「あなたは優しいから…」
ガイは「ほら、そんな太った妙な猫に構うのは止しなさい」と、わたしを自分の方へ向かせる。
わたしの目に、少々憤りを感じるのか、ガイは額にキスをしながら「僕のせいで、あなたまで余計なことに巻き込まれてしまったね」
そうよ、ガイのせい。
あなたのせい。
ごく近い距離で互いの瞳を交わす。彼のブルーグレイ。そしてわたしの黒。
 
あなたのせいで、わたしはいつだって、エアポケットのような不思議な暗がりに入り込んでしまう。
たった一人で。
考え込んでしまうのだ。
彼の過去でしかない傷と、わたしへの嘘。もう、過ぎ去った遠いもの。少なくとも彼にとっては意味のないもの、意味をなさないもの。
だから、彼の瞳にはわたしの抱える傷の意味も深さも、色褪せて見えるのかもしれない。ごく軽いものだと。
そんなことをとりとめもなく考える日々。
けれども、あなたと離れられないから。別れなど、あり得ないから。縋るように肌を感じたいから。
そんな自分を感じつつ、わたしが常に抱く影。
どうやって宥めようか、どうやって彼のように過去にしようか……。
結局はじくじくと、彼へのやり場のない恨みにも似た感情を持て余しているだけ。
ひどい、と。そんな風に笑わないで、と。
 
だから、うっかりとカップを指から滑らせてしまったのに。
 
キスの後で、ガイはわたしに、夜会には新しい淡いブルーの衣装を着たらいいと勧める。
「どうして?」
「きれいだから。見つめていると、あなたがほしくなる」
彼のくれる言葉に、その瞳の色に、まぶたを頬をさっと熱が走る。
こつこつと振り子の銀時計が揺らぐ。仕度には早く、お茶には遅い時間。
ざっと振った雨。強まる雨脚。窓に視線を流すと、庭の常緑樹が緑の葉を鮮やかにぬらしている。
わたしは彼の胸に頭を預け、頬を寄せ、そのシャツの煙草の香りを感じていた。彼の指は、優しくわたしの髪に触れ、絡み、滑る。
何も考えないで、瞳を閉じて、このままでいたいと思った。
あなたを愛している、ただのわたしで。
幸福なままのわたしで。



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