セピアの瞳 彼女の影  エピローグにかえて
6
 
 
 
微かな声はかすれ、ひどく聞き取り辛かった。
「……とう…、ございます……」
それは、ありがとうと言ったのだろうか。彼女の手には、しっかりと古びた毛布が握られている。ところどころ毛羽立ち、肌触りのよくなくなった毛布は、それでも暖を取るのに、有効だろう。
ここは、ひどく寒い。なのに、鉄格子の向こうの小さな空間の彼女、ベリンダは、耐えられないような薄着をしている。黒ずんだグレーの、胸に野暮ったい縫い取りのあるドレス。『1085』とその数字は読めた。
まだ春は遠いのに。雪が散らつくのに。
ここは、寒い。無骨な何の装飾もない石の床。塗りのない壁。火のないフロア。
とても寒い。
そして枯れた草のにおいがする。
わたしは鉄格子の受刑者ベリンダを見た。ぱさぱさした髪をひっつめ、妙な頭巾で巻いてある。ここのルールなのか、他の受刑者も、同じような頭をしていた。
美しい茶色の瞳。そばかすでいっぱいの、小さな顔。かさかさした唇。色のない頬。
何かを耐えるような、堪えるような、けれどそれでいいのだという、そんな表情を彼女はしていた。少女のような受刑者、ベリンダ。
目が合うと、彼女は少し困ったような、恥ずかしげな顔をした。そして、もう一度、ごく小さな聞き取りづらい礼を述べた。
「ありが…ご……ざいます…」
何とはなしに、わたしはその声に頷き、どうしてか「また来ます」と応えていた。ひどく寒く、背筋を嫌な悪寒が這うのに。
きっとその場限りの言い繕い。心のこもらない空約束。彼女にはそう聞こえただろう。この女は適当なおかしなことを言っていると。何の期待もせずに、彼女の瞳はそんな風に落ち着いて、瞬いた。
「レディ・ユラ、そろそろ帰りましょう。もう、わたくし寒くって…」
隣りの『高級将校夫人の会』のメンバー、シャノンがわたしの手を軽く取る。
わたしもそろそろ帰りたくて、うずうずとしていた。とにかく、慰問の目的は果たしたのだ。会で集めた古毛布を王都の女性監獄に贈り、それが皆まで行き渡っているのを、確かに確認した。
少しは寒さをしのぐのに、役には立つだろう。ないよりは、きっといい。
軽犯罪の階の最後の監房から背を向け、わたしはシャノンと出口へ向かった。
「早く、熱いお茶をいただきたいわ」
「そうね」
階下のホール辺りでは、これも寒さに互いに身を寄せながら、わたしたちを待っているミルドレッドたちの姿があった。先に紹介された監獄の責任者と、話をしていた。頭髪の薄い年配の男性は、「皆さまがたの温かいご情愛に、深く感謝いたします」のようなことを、もごもごと口にした。
ミルドレッドは機嫌よく、何度も頷き、
「鶏がらのように痩せている人もありましたからねえ。次は春がやって来ない近いうちに、スープを振舞いに参りますわ」
などと、朗らかに応じた。多分彼女の言った通り、そう遠くない間に、ここに来ることになるのだろう。古毛布を配り、受刑者にいたく感謝され、ミルドレッドを始め、会のメンバーは一渡り、満足した表情をしている。
ぐるりと堅牢な高い塀に囲まれ、鉄塔がのぞく監獄を後にし、帰りの馬車の中でも、寒さがまだ身体を覆うように離れていかない。
このままお茶の会は失礼して、邸に帰り、書斎の暖炉の前でシンガポアでも抱いていたい。ホットチョコレートを飲んで、編み物を始めて、晩餐のメニューを確認して……。
そんなことを思う狭間、ちらりと茶色の瞳が頭をかすめた。最後に会ったから、ひどく印象に残った。ベリンダという受刑者。窃盗を働いて、今のようになったという。
きれいな瞳だったと思う。物言わぬそれは、ぬれて輝いていた。
まだ少女のように見えた。けれども、身も繕わず、あんな簡素ななりをしていたから、若く見えただけなのかもしれない。わたしより幾つか年上かもしれないのだ。
断りと別れを告げ、わたしはそのまま邸に帰った。書斎では、ガイが長椅子に長くなり、煙草をくわえていた。難しげな本を胸に載せ、ページを繰っている。
わたしが書斎に入ると、彼は身を起こした。くわえた煙草を放し、ちょっとやれやれというように指が迷い、灰皿に捨てる。
「どうでした? ガーディアンは」
ガーディアンとは、あの監獄のある地名のことで、それが監獄の通称になっている。
「寒かったわ」
わたしは暖炉の前で手をかざした。その火の温もりが芯からありがたかった。そして、呼び鈴を鳴らし、現われたマークにお茶の仕度を頼んだ。ついでに、シンガポアを見なかったと訊ねる。
「厨房で、何か食べていました。またコックのバーナードが、与えたのでしょう。最近は、それを覚えて厨房にいることが多いのでございます」
「まあ、だから、あの子、最近妙に太ったのね」
そばでガイがくすりと笑う声がした。
「あなたが分けてやるサンドイッチには、見向きもしない訳だ」
「他でたくさんご馳走をもらっていたのね」
呆れと共に、笑いも起きる。
わたしもこの世界に馴染んだけれど、あのわたしが伴った猫のシンガも、すっかりこちらに順応しているのだ。幸せそうに太って、暖炉のそばで眠る。手の空いた使用人に遊んでもらい、機嫌よくしている。
彼女に境界などなく、長椅子に脚を伸ばす、主人で伯爵のガイの胸の上にも平気で乗る。猫があまり好きではなかったという彼も慣れ、寝室に入り込んでも、眉もひそめなくなった。起き抜けにベッドに見つけると、ちらりと撫ぜてやったりもしている。
 
なんて違うのだろう。
寒さで、ベリンダは震えていた。彼女だけではなく、他の受刑者も皆。別世界のような空間で、かちかちと歯を鳴らすほどに。
 
なんて違うのだろう。
わたしは熱いお茶を飲み、暖炉の前で温かく過ごしている。別世界のようではなく、別世界なのだ。
 
今日の『高級将校夫人の会』主催の婦人監獄慰問の件をわたしが話し、またはガイがエーグルのセレスタン王子という人からから手紙をもらったこと。その中にわたしにぜひ彼が会いたいと言っていること。近いうちこちらに外遊に来る予定のことを告げる。
とりとめのない会話が幾つか、湯気の立つ褐色のお茶の上を、柔らかく行き交う。
「もう温まった? あなたは寒そうな顔をしていたから」
ガイがソーサーに置いたカップの代わりにわたしの手を取った。いまだ冷たさの残った指先が、彼の手のひらに包まれ、それでじんわりと熱を取り戻すのだ。
ガイは優しい。
いつもわたしを守ってくれる。
彼のブルーグレイの瞳は、わたしだけのもの。わたしだけを見ている。わたしだけに、特別の愛情を持って注ぐもの。
 
わかっていながら、信じていながら、わたしは、どうして……?
 
『あなたに自分で未来を選んでほしかった』
けれど、ほら、ガイのついた残酷な嘘が、そのための傷が、今もわたしのどこかで悲鳴をあげている。泣いている。
どこかで深く尾を引いて、絶えない。
瞳は彷徨い、テーブルの上を行ったり来たり。わたしはいつからこんな風になったのだろう。ときにガイの視線を避けたくなるのだ。
わたしは許せないのだろうか。
許していないのだろうか。
大好きな彼を。唯一の彼を。
どこかで、ひっそりと憎んで……。
まさか、ぐすぐずとそんな負の怒りを、わたしは抱えて……。
まさか……。
 
「お嬢さん」
不意にガイの指がわたしの顎を捉えた。軽く力を込め、左右にぶれるわたしの視線を自分に据えるようにする。
少し驚いたような、呆れたような彼の表情、きゅっと強めた瞳の色に、わたしはうろたえた。
「どうしたの? ぼんやりとして」
「え」
「虚ろな顔をしていた。どうしたの? 気分でも悪くなりましたか? ガーディアンへの慰問は、あなたは向かないのではないですか? 僕はあまり勧めたくないな…」
わたしはガイの言葉を遮るように、慌てて微笑んだ。何でもないのだと。ふっと入り込む闇のような物思いに、囚われてはいけない。
わたしはおかしい。
いつまでもぐじぐじと、こだわって。
いけない。
わたしは彼の指を外し、代わりに自分の両の手のひらで彼の頬を挟んだ。小指の辺りで髪をかきやり、そして耳朶に軽く触れる。まるで愛撫のように、何かをせがむみたいに。
それにガイは瞳を細め、ちょっと凝らして、わたしを見るのだ。おやおや、と言いたげに。ほら、彼の唇の端が緩んでいる。
いつこんな仕草を身につけたのだろう。彼の視線を逸らせるような、こちらに注意を引くような、そして、やや媚びるような。ガイの好むわたしの甘えた媚態。
「ごめんなさい。あんまり寒くって、ぼんやりしたの。もう大丈夫。慰問にはまた近いうち行くのだって、ミルドレッドが張り切っているの。今度は温かいスープを振舞うのですって」
ガイはわたしの指を好きさせたまま、「それはそれは」と微笑んだ。
 
わたしはおかしい。
いつまでも、くるくると嫌な気持ちに踊らされ、ふいっと独りの闇に入り込んでしまう。
止めなくては。
早く、断ち切るのだ。この目の前の優しい彼は、跪いてまで詫びてくれたのだ、『あれ以外の選択ができなかった』と。『許してほしい』と。
何がほしいというのだろう。これ以上に。
わたしは再びめぐり合えた、奇跡のような今を抱きしめて、幸せを感じていればいいのだ。それだけなのだ。
何もほしくない。ガイがいればそれでいい。
ノックの音がして、わたしは指を膝に戻した。開いた扉から、するりとシンガポアが入り込んでくる。マークがこちらへ連れて来てくれたのだ。
暖炉の前に彼女は座り、前脚で顔を洗っている。わたしはそのそばにしゃがみ、口のまわりにつけたグレイビーをナプキンで拭い取ってやる。
シンガの次には、ハリスが現われた。来客を告げ、ガイに銀のトレイに載った名刺を差し出す。
追い返せない人物なのだろう。ガイが立ち上がる。王子の後見役を勤めるようになり、ガイ目当てのお客が増えた。手紙も増えた。わたしへのおべっかのようなそれも多い。
「すぐに行く」
「お客間にお通しいたしましょうか?」
「暖炉の火を弱くしてくれ。頼むよ。長居されては困るからね」
「かしこまりました」
ガイはハリスが下がった後で、議員が一人やって来たと言った。
挨拶に出なくてはいけないかを訊くと、ガイは首を振った。
「すぐに戻るから、あなたはその太った猫を、逃がさないようにしていなさい」
からかうような口調でそんなことを言い、背を向けた。書斎を、ガイが出て行く。
わたしは彼の消えた扉を、ぼんやりと眺め、その後でお茶を飲み、お菓子を割り、半分を口に入れ、半分をシンガに与えようと思い、止めた。
ぽろぽろと、行き場のない焼き菓子は、指で幾度かつまむうち、それはトレイの上で粉々になってしまった。
「あ」
レディ・アンがよくしていた、弄ぶ仕草と同じではないか。わたしは何をしているのだろう。
わたしは急いで、指をきれいに拭った。拭い過ぎて、指の腹が少し擦れてひりりと痛んだ。
それをわたしは、ときにガイがするように唇に当てる。やんわりと舌の上で噛んだ。



          サイトのご案内トップページへ♪
『セピアの瞳 彼女の影』のご案内ページへ         

お読み下さり、ありがとうございます。

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪