セピアの瞳 彼女の影  エピローグにかえて
7
 
 
 
冷たい雨が降り、ときにそれが雪に変わった。
ここ数日はそんな日々が続く。晴れ間は短く、すぐに日は陰ってしまう。
そのため、ぬかるんだ馬場での乗馬の練習は間延びになり、随分と手綱を握っていない。
騎馬したあの高みからの光景は、決して嫌いではなかった。視界ががらりと変わり、胸のすくような感覚。自分で御せるようになれば、それは楽しいだろうと思う。
たとえば、春のうららかな陽気の中を遠乗りし、ピクニックに出掛ける。澄んだ空気の草原でのスケッチ。ジュリア王女が提案する計画は、じっとりと窓を冷たい水滴がぬらす冬の今、焦がれるほどに楽しいものに聞こえる。
その頃には、わたしの乗馬も、上達しているのだろうか。だったらいい。
「ユラ、あなた、面白い役を頂戴したらしいじゃない」
ジュリア王女のサロンでのひととき、絵のレッスンの後のお茶の時間、不意に彼女がそんなことを口にした。にやにやとその表情は、おかしなものを見つけたように、興味にきらきらとしている。
『面白い役』が何のか、わたしにもすぐにぴんとくる。『高級将校夫人の会』の名誉総裁の件だ。その派手派でしい肩書きは、恥ずかしくてしようがない。
「最近ユラはそのせいで忙しいのだって、エドが言っていたわ。ね、フレドリック」
話を振られた傍らの絵の教師フレドリックは、ちょっと俯いて、返答に困ったように笑う。その様子から、王女の言葉が何を意味しているのか、了解しているよう。
「エドにばっかりずるいわ。話なさいな、さあ、ユラ」
桃色の春めいたドレスを着た王女は、華やかなその身を、ぐっと長椅子からこちらへ乗り出す。
「そんな、エドワード王子には、ちょっとご相談しただけだわ。監獄などは規則がやかましくて、慰問も難しいらしいのです。会の人たちに頼まれて、それで。軍を統括される王子のお名前が出せると、問題なく許可をもらえるから…」
王子はわたしが数日前、そのことを頼みに伺うと、詳しく内容も問わず、すぐに「いいよ」と許可をくれた。ガイや王女のように、わたしの新しい妙な肩書きを笑って、からかうこともない。
ブロンドの髪を揺らし、あっさりとまぶしいほどの笑顔になっただけ。「僕の名前が必要なときは、いつでも言ってほしい」と、優しい言葉をくれたのだ。その後で、他愛もないようなことを少し話した。
王子の名前が冠したお陰で、それはすんなりと二回目のガーディアンへの慰問が決まった。
そうそう、百人以上の人々に配るのだから、それは大変な量のスープが必要になるだろう。前日から彼女の邸で準備に入るのだと、ミルドレッドの号令が掛かっている。
注文したベーコンと野菜は、きちんと届くだろうか。あまりに大量だから、間違いがなければいいのだけれど……。
ぼんやりそんなことを考えていると、王女が軽い口調で、わたしへの愚痴をフレドリックに告げている。
「ユラは、新しいお友達ができたら、わたしのことはお見限りなのよ。ひどいわ。随分仲良くなったつもりでいたのに。王女のわたしより、その慈善の仲間の方が大事なのかしら。失礼しちゃうわ」
「嫌だ、ジュリア、そんなこと。頼まれたことだから、仕方なく…」
王女はちらりとこちらを見ては、おかしそうに舌を出し、フレドリックに笑いかける。
彼もそれを、戸惑いながら、髭でいっぱいの顔をほころばせて受けるのだ。いつからフレドリックは、あんなに笑うようになったのだろう。少し前までは、王女の前の緊張とぎごこちのさなを残していたように感じるのに。
仲のよい二人の様子を見て、わたしはふと頭のどこかで、何かが何かとつながるような思いがした。
それは、『フレドリックは、盛装するとあれで素敵になるのよ』と、自慢げに話したいつかの王女の言葉であったり。瞳の持つ力故なのか、ごく限られた人以外には、決して見せない彼女のフレドリックへのこだわりのない親しさであったり。
または、ほんのりと艶やかさを増したように思えるその美貌であったり。
それは、多分きっと……。
恋なのだろう。
「ねえ、ユラ、次の慰問の報告を…」
視線をこちらに戻した彼女が、ふっと緩めた唇を引き締めた。瞬時に頬がさっと朱を差したのを、見たような気がした。
(あ)
(いけない)
わたしはとっさに、瞳をちょっと上に彷徨わせ、「ガイに聞いたのですけど、ジュリア、教えて下さる?」と、切り出した。
「エドワード王子の、ご婚約が決まりそうなのでしょう?」
ロイヤルウエディングの噂に、興味をかき立てているかのように。楽しそうに、微笑んで。
 
 
二回目のガーディアンへの慰問の日は、ずっと小さな粒の雪が止まなかった。
ミルドレッドの邸の厨房では、メンバーの夫人が集まり、パーティーのように賑やかだった。焚き続けた火のお陰で、ほんわりと暖かく、扇子を使う人もいる。
大きな鍋が十。それにいっぱいに入ったスープ。運ぶ段になると、女性では役に立たず、使用人の他ミルドレッドの夫君アンブレア大将や彼の従卒らまで駆り出して、荷馬車に積み上げた。
昼を過ぎた頃に、再び曇天の空に似合いのガーディアンに到着した。やはり、建物の中に足を入れた途端ふわりと鼻腔を、枯れ草のにおいがつく。そして、うんざりするような寒さも、少しも変わらずに館内に満ちている。
職員の人たちの手も借り、スープを配り終えたのは、日も暮れかかった頃合だった。
二度目に会うベリンダは、湯気の立つスープを前に祈り、感謝をひとしきりした後でもなかなか口を付けようとしない。人前では食事をし辛いのだろうと、身を翻したとき、背中に小さな声が掛かった。このフロアの突き当たりの監房でそれ以上は、壁があるのみ。
かすれたその声に、わたしは振り返った。鉄格子の向こうのベリンダは、一つきりの粗末な椅子から降り、その椅子にスープ椀を載せ、その前で胸に手を置いていた。
手の陰に縫い取りの『1085』が読める。
「また、おいで下さい…ま…しょうか?」
幾分かは聞き取りやすい、けれどひどく小さな声。思いの他口調が柔らかかった。粗野でもない。
きれいな茶の瞳が、澄んでわたしを捉えている。
寂しいのだろうか。
話したいことがあるのだろうか。
「ええ、またきっと」
わたしはそう応え、頷いた。彼女の乾いた頬が少し緩んだ。それは微笑みに見えた。
「召し上がって」と、わたしは再度スープを勧めてから、場を後にした。
 
勝手なもので、再度の来訪を約束しながら、ベリンダの前から去った瞬間に、わたしの中では彼女の存在は軽くなった。
仕事を終えた後のほどよい疲労と、その夜の予定。それから、誘われている晩餐会へは何を着るべきか。そろそろ新しいドレスを新調しようか……。
わたしにとっては紛れもない日常の、他愛もない波に紛れ、ふっと始まった夜の気配に、足を速めていた。



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