セピアの瞳 彼女の影  エピローグにかえて
8
 
 
 
『1085』と胸に縫い取りのある、美しい茶色の瞳を持つベリンダ。彼女のことは、忘れた訳でも、消えた訳でもなかった。
常に頭の片隅にあった。敢えて置き、わたしがまたガイへのじっとりとしたやりきれない思いに沈みそうになったときには、取り出し、彼女を思い浮かべた。
それで、やり過ごそうとした。
彼女を取り巻く過酷な環境を思い、辛いだろうと、寂しいだろうと、同情を寄せてみる。幾ばくかの金を盗んだという罪の償いの対価としては、あの境遇はひどいのではないか。寒さはあの石の監房ではいかほどだろうか。とてもわたしには耐え切れない……。
何か、できないだろうか。
大したことでなくていい。簡単な、ことでいい。
そうやって、行き着いた個人での慰問というアイディアは、思いの他あっけなく実ることになった。ガーディアンの責任者に手紙を送り、慰問の旨を告げると、すぐと快諾の返事が届けられたのだ。
その速さに少々たじろいだけれど、文面を見て「ああ」と納得がいく。以前のスープを振舞った慰問の際、便宜上エドワード王子の名を利用した。その威光が、まだたっぷりと効いているだけなのだ。
『高級将校夫人の会』としてではなく、レディ・ユラ個人として、ベリンダに会いに行く。不審げに、少々の呆れを恭しい儀礼の態度に隠した看守たちには、邸からケーキを持参した土産を渡す。「皆さんで、どうぞ」と。
「まあ、レディ・ユラ、お優しいお心遣いありがとうございます」
そんなことで、少し態度が柔らかになるのだから、どんな場所でも甘いお菓子の効果は大きなもの。
 
「ああ」
そんな声が、再会したベリンダからはもれた。また来ると言ったわたしの言葉に期待など、していなかったのかもしれない。
彼女の茶色のきれいな瞳。澄んで、瞬いて。正面から見据えず、ちらりとうかがうように、わたしをのぞき見るのだ。
そんないじけたともいえる様子が、不憫でもあり、哀れでもある。
なぜなら、その姿は、わたしになぜか似て見えた。
彼女が印象に残るのは、瞳の美しさもある。思いがけない若さや、最後に面会した受刑者ということもある。
けれども、わたしに似ているのだ。
鉄格子の中の逃げられない彼女は、わたしの心を投影して見せる。
どこにも行けない。
いつの間にか巣くった心の檻に、自分を閉じ込めているわたし。
出られない。
自分にどんな罪があるのだとしたら、ガイを許せないこと。わたしのためについたという彼の嘘に、囚われていること。理由の重さも、意図も、彼の優しさも汲める。なのに、それで胸が凪いでいかない。穏やかでいられない。
 
わたしはとても傷ついた。
眩暈がするほどやりきれず、切なかった。
 
そんな自分が一番悩ましくて、ひどく惨めなのだ。
ベリンダを見ると、自分の胸の痛む部分に手をあてがうようで、ふわりと癒される気がする。
わたしは、どこか妙なのだろうか。
彼女は、訪れたわたしに初め戸惑いを露にしたが、監房の前で、用意してもらった椅子に掛け、わたしが落ち着いてコートの膝に手を置くと、案内を務めた看守がじゃらじゃらと鍵束を鳴らし下がるのを待って、微笑んでくれた。
聞き取りにくい声で、「ありが…とうご…ざいます」と言う。
自分をどこか思わせる可哀そうなベリンダの前に現れ、彼女の話を聞く。
放っておけない気がする。
そんなことで、自分を慰めるわたしは、なんていやらしいのだろう。
これは優しさなどではない。慈善の心でもない。
自分のための、けれど周囲を取り繕う明らかな偽善。
やはり、わたしはいやらしい。
 
某子爵家の下働きを勤めていたこと。そこで夫となる人物と出会い、恋をし結婚したこと。子供を授かったこと。幸せだったこと。
その子供が病気になったこと。夫が賭博に懲り出し、働かなくなったこと。子供の病気がなかなか治らないこと。
万策尽きて、子供の薬代ほしさについ女主人の宝石箱に手が伸びたこと……。
ここまでのベリンダの身の上話を聞くのに、わたしは三回、個人で彼女の前に現れた。ゆっくりと話す彼女の言葉が低く容易に進まないのと、わたしが時間を切っていたためでもある。
許された時間が果て、切り上げる旨を告げると、ベリンダは微かに笑みを見せ、
「では、次回にまた…」
と、まるで何かの続き物のように言うのだ。
 
「○○子爵さまの奥さま、二度目の奥さまです。エミリーとおっしゃるこの方は…、とても、使用人に厳しい方でした」
四度目の訪問で、簡単な挨拶が済むと、ベリンダはきれいにこの間の続きから話し始めてくれる。
それに、わたしも、「ああ、そうだった。前は…」と途切れた話を思い起こすのだ。
彼女の声に混じり、こつこつと見回りの看守の足音が聞こえる。こちらに近づいて来るのがわかる。
「まあ、レディ・ユラ、御機嫌よう。ご熱心な度々のお運び、本当に頭が下がりますわ」
背のひどく高い女性看守だった。何度かこちらで会い、顔見知りになっている。わたしが都度持参する土産のケーキを、楽しみにしているという。
言ったそばから、もう階下の詰め所のケーキの残りを気にするのか、気もそぞろなのが、傍目にもわかる。
次回はもうちょっと多めにコックに言って、詰めてもらうようにしよう。
「…そろそろ休憩時間ですから、あの…よろしいでしょうか?」
その明け透けな態度が、厳しい顔つきに似合わず、可愛くて憎めない。わたしは頷き、
「ええ、ここは。帰るときには、詰め所へ断りを入れますから」
看守が急ぎ足で立ち去った後、監房と階下へ降りる階段を仕切る鉄の大きな扉が、がたりと閉められる音が響いた。
大袈裟な音は幾度か聞いても慣れない。がたんと鳴り、鉄の擦れる嫌な軋む音が擦るのだ。ぎいと伸びるような背筋がちょっと寒くなる音。
それにおかしな音が続いた。がちゃり、と。奇妙に響いた。
目をやると、扉の前の石の床に、先ほどの看守の腰紐から切れたらしい鍵の束が見て取れた。
彼女が扉の角か何かで、紐を切るかして、落としてしまったのだろう。わたしはベリンダが、仕えた邸の女主人の宝石箱に手をかけ、そこに巧妙な盗みを期した罠が張ってあったことを話した後で、椅子を立ち、看守が落とした鍵を拾いに行った。
ずらりと並ぶ独居監房のマスターキーとこの鉄の扉の鍵ともう一つどこかの鍵。三つしかないさほど重さのないそれは、思いの他軽かった。帰りに詰め所に届けようと、わたしはそれを握り、コートのポケットにしまい、椅子に掛け、膝に手を戻した。
ベリンダの話は再び続いた。
「ものの数にもならない下等な人々は…その子供も死ねばいいと、子爵夫人はおっしゃいました。わたしは、…ほんの少しの…お金がほしかっただけですのに。それだけで、よかったのに…」
宝石箱に仕掛けられた罠のため、ベリンダの罪はすぐに露見してしまった。
そしてあっけない裁判の後で、ここ収監が決まった……。
「…おしまいで、ござ…います…」
長い物語を終えた彼女は、くたびれたようにため息をもらした。後三年ほどの刑期が残っていること。半年を迎えてだけで、息が切れそうなほどになっているという。
「…一日が、とっても…長いのです。物を…思うばかりで」
これ以上は、何も話すほどのこともないと言う。
指先が手袋の中で、きんと冷えてきた。
彼女もやはり、わたしと同じように、何かをくるくると思い、それに悩まされているのだろうか。
彼女の物思いは、これまでの身の上話からすぐに想像がつく。顛末の語られることのなかった子供の病気のこと。その安否。
適わない日常に、それはいかばかり彼女を苦しめるのだろう。悩ませるのだろうか。
「子供さんは、どうなさったの? 病気は?」
「…さあ、遠くの施設に…入れられたと、聞きました。ここに入るときに、聞きました…。今は…、どうやら…元気なのかも、知りません」
言葉を締め括る間際、彼女の茶の瞳から、涙が溢れた。それは頬を伝い、拭わないため、ぽとりと当たり前に落ちた。そして胸の『1085』の縫い取りをぬらした。
あの子のせいではないのに。まだしも夫がしっかりとした人であったら。わたしが不甲斐ないばかりに。可哀そうな、可哀そうなジョシー。
そんな言葉が、涙と共に溢れてくる。
受け止めることもできずに、わたしは胸を抉られるような思いで、その言葉を捉えた。
「…ごめんね、ジョシー……」
寒そうな華奢な肩を震わせて、嗚咽を堪えるベリンダ。目をやるのが辛いほど、痛々しい姿に見えた。
 
わたしはおかしい。
そんな彼女に自分の過去をだぶらせていた。現れてくれないガイを待つ、憐れで、可哀そうな自分に。「どうして……?」と、身が凍るほどうろたえた自分に。
 
わたしはいつしか、手袋の指をコートのポケットに滑らせていた。指先のウール越しに、鍵に触れる。
それは衝動かもしれない。檻の向こうで一人で震える彼女の背を抱いてあげたいと思った。ひどく思った。
手を握り。大丈夫。きっと、嫌なことは明けるからと、ささやきたかった。
馬鹿馬鹿しい憐憫。
わかっていた。それが自己満足だということ。自己憐憫だということ。
けれども、わたしは鉄格子の中の彼女に触れてあげたかったのだ。一人ではないと。きっと大丈夫だと。
わたしの指はポケットの中から鍵を取り出していた。
「え」
ベリンダの吐息のような声は、鍵穴に気持ちのいいほどすっぽりと収まった鍵の感触に消えた。右にひねると確かな手応えがある。
頑丈だった鉄格子の扉は、それであっけなく開かれた。わたしは扉を開け、中に入った。
簡素な椅子に座ったままのベリンダは、わたしの行為に、ようやく弾かれたように立ち上がった。
思いの他背が高い。自分と変わらないほどだと思っていたわたしは、それにやや驚いた。
手袋の手を差し伸べ、彼女の片手を握った。骨ばった、長い指の手がわたしのそれに触れた。
その次の瞬間、わたしは自分が抱きしめられたのかと感じた。
「あ」
けれど、引き寄せられたその瞬間、何かがわたしの頬を打った。硬いそれは、したたかにわたしを打ちのめし、更に繰り返した。
声が出ない。骨ばった長い指のベリンダの手が、しっかりとわたしの唇を塞いでいた。
枯れ草のにおいの強いベッドに、わたしは突き倒された。馬乗りになったベリンダの平手が交互にわたしの頬を打ち、思考も何もわからなくなる。寒さも感じない。
ただ、どうして、と。ただ、恐ろしさと。
幾度繰り返したのだろう。意識がおぼろになるまで、彼女の手は止まなかった。
最後に鳩尾の辺りを強く打たれた。
コートを剥がれる感覚があり、監房を足早に駆け抜ける音を感じ、そして、かんかんかんと、鉄格子を叩く、おびただしいほどのやかましい音が響き渡った。
かんかんかんかんかんかん……
かんかんかんかんかんかん……
かんかんかんかんかんかん……
それに混じり、どこからか声が聞こえた。嘲笑うような、吠えるような。
「『1085』の奴、やったよ。とうとう、やりやがったよ」
 
ふつっと意識が途切れた。何も聞こえない。



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