セピアの瞳 彼女の影  エピローグにかえて
9
 
 
 
わたしは冷たい水の中に、ちょうどふくらはぎの辺りまでを浸していた。
寒いはずで、呆れたことに、薄いガウンを肌に一枚纏っているだけだった。まるで寝過ごしてしまった朝、慌てて化粧室に飛び込んだときのように。
ぼんやりとした視界。それは群青ににじんで淡く、足を浸した水と交わっている。
ここはどこだろう。
わたしは何をしているのだろう。
どうして一人なのだろう。
ガイは、どこに?
震えながら、わたしは足を進めた。水を掻くその感覚が、ひどく重い。踝に何か重りでもくくり付けてあるかのように、重いのだ。
どれだけか歩を運び、気づいたときには、さっと水が引いてしまっている。どこに消えたのだろう。
わたしはそれでも腕を抱き、寒さに耐え、歩く。地面がいつからか、砂地に変わっている。ここは海なのだろうか。その浜辺を、わたしは歩いているのだろうか。
ふと、視界に人型をしたものが映った。ぼんやりとした青の中で、それはふんわりと暖かく感じた。
ガイかもしれない。ガイに会えるのかもしれない。
わたしは懸命に重い足を動かし、前へ進む。けれども、目指したシルエットが、ほしかった姿ではないと気づき、更にそれが、最も会いたくない人だと知ったとき、わたしは泣き出していた。
その人は柏木先生だった。
彼は出会ったあの京都の病院でのように、濃いブルーのユニフォームを着ていた。わたしは彼のきれいな瞳に会い、たじろいだ。逃げ出そうとした。そんな自分がどれだけ惨めなのか、考える余裕すらない。
回れ右をした背中に、彼の声がかかる。何のこだわりもない、あの優しい暖かな声。「由良ちゃん」とその声は、わたしを呼んだ。
「どうして逃げるの?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
過去に自分が彼に何をしたか、何を残したのか。別れの間際の、わたしを見つめたあの彼の驚愕した瞳。思い出すのも辛い、忘れることもできない、鮮やか過ぎる記憶。
彼に詫びの他、言うべき言葉もない。姿を晒すことすら苦痛だった。早くどこか、別の場所へ行きたい。さっきの水の中でもいい。
どこか、別の……。
「逃げないで」
彼の手がわたしの手首をしっかりとつかんだ。暖かく、そこからじんわりと彼の熱が伝わる。その温もりに、ほっとするほどにわたしの身体は冷え切っていた。
「ごめんなさい、どうか許して…。ごめんなさい。わたしがいけなかったの。自分勝手に、先生の優しさに付け込んで、甘えて…、ごめんなさい」
恨み言、たとえば罵る言葉が聞こえるのではないかと思った。わたしのずるさを責めるような。けれど彼のくれた言葉は、それとはまったく違うものだった。
「誰だって、間違える」
「え」
思わず振り返った。先生は小首を傾げ、諭すように優しく告げる。「僕だって、間違える。君だけじゃない。皆、そうだよ」
だから、いいのだと彼は微かに首を振る。
「許されたり、許したりで、きっとできてる。そんなものだと僕は思う」
「怒っていないの? わたしのこと…。憎んでいないの?」
「…由良ちゃん、あのね、僕はそんなに弱くない。まあ、時間はちょっと、必要だったけど」
そこで彼は笑った。もういい、と。
彼の手がわたしの手を包んだ。その乾いた手に包まれる感触を、覚えていた。あのときわたしは、彼の優しさに触れ、救われたように思った。拾い上げられたようで、ひどく嬉しかったのを覚えている。この手を信じたかったのだ。
「わたし…、先生のこと、本当に好きになろうとしたの。心からそうなりたいって……」
「でも、無理だったんだろう?」
なら、いいよ、と。彼は笑う。その彼のポケットから、今では懐かしい電子音が鳴った。アラームのような、それは呼び出しの知らせだろうか。ポケットを探り、音を止めた彼が、何を見るのか、まぶしそうに目を細めた。
「お別れみたいだ」
「先生?」
彼の姿が、ふわりと歪む。刹那、彼は指で何かを示した気がした。けれど、わたしの背後から差す光に紛れ、それは淡く、空間に溶けるように次第に消えた。
かっと視界が白くなるほどの光が降った。それが最後で、わたしの回りから群青が消えた。
何か聞こえる。何だろう。ドアの音だろうか。誰かの歩く靴音だろうか……。
夢の果てを知った。
これはきっとわたしの見る夢。自分に都合のいい、心の悩みを慰めたい、そんな強い思いが作用して見せた、夢という勝手な幻影なのだ。
けれど、
それでも、
わたしは嬉しかった。
幻でも、胸の奥の傷に彼の手があてがわれたかのように。
嬉しかったのだ。
 
 
目を開けたとき、すぐそばに、わたし付きのメイドのアリスの心配げな顔が見えた。それがわたしと目が会うと、ぱっと表情をほころばせた。
「奥さま、お気がつかれました? アリスでございますわ」
彼女はわたしに、ここが邸の寝室であること。ガーディアンから運ばれたのだということ。わたしが意識を失っている間、医師が顔の傷を診たこと。痣があるが、ほどなく消えるという診立てのこと。熱のあること……。
それらを、途切れることなく話し続けた。
「よろしゅうございましたわ。お怪我がひどくなくって。ガーディアンからの知らせを受けて、皆、震えたものでございます。大変な災難にお遭いになったと」
ほしい物はないかとの問いには、わたしは水がほしいと言い、身を起こした。なるほど、わたしは夜衣を纏っている。アリスやメイドが、ドレスから着せ替えてくれたのだろう。
暖炉には暖かく火が入り、カーテンは厚く閉じられ、照明が灯っている。既に夜になっている。わたしはどれほど気を失っていたのだろうか。
印象的な夢の後で、わたしはぼんやりとしていたのだ。ようやく自分の遭った出来事に、記憶がつながる。
その身近過ぎる過去に、ぞわりと背筋を冷たいものが走った。
わたしはベリンダに襲われた。
彼女は、それをわたしを暴行して、コートを剥いだ。
そして、監獄から逃げた。
わたしは……。
唇に置いた指先は、きんと冷え切って、唇の熱を奪う。
「旦那さまもお知らせで、大学から急いでお帰りになられて、それはお怒りでいらっしゃいましたわ。あんなにご不快なご様子の旦那さまを、アリスは存じ上げませんもの。朋輩とも申していたのです」
そのガイは、今回のことで、慌てて訪れたガーディアンの責任者と客間で会っているという。
彼女が水差しから汲んでくれたグラスの水を、一息で飲んだとき、ノックの音と同時にドアが開いた。それはガイで、見るからにその表情は硬かった。それでもわたしを見ると少し笑みを浮かべ、ベッドに腰掛けた。
「気分はどうですか? どこか痛むところはない?」
腕に優しく触れるガイ。彼の指はわたしの頬に触れた。やんわりとした指の動きでも、痣の箇所なのか、ちくりと痛んだ。
わたしは特に気分も悪くないと応えた。少し寒いだけだと。
顔の様子を見たかった。鏡を後で見たい。腫れるのだろうか、痕は残るのだろうか。
「可哀いそうに、恐ろしかったでしょう。もう何も起こらない。大丈夫、僕がいるから」
引き寄せる彼の腕に包まれ、その安堵感と熱のためによるものか、涙が浮かぶ。それは頬を伝い、彼のシャツを染めた。涙は震えと共に静かに尾を引き、なかなかに止まらず、既に怒りをどこかにしまった様子のガイを、ちょっと困らせた。
ブルーグレイの瞳は不安げに曇り、わたしの様子をうかがう。
背を撫ぜる彼の手、その大きな温もり。優しさ。
「あなたがそんなでは、放っておけないね」
ガイはアリスに、客へしばらく待つように伝えるよう命じた。恭しくお辞儀をし、彼女が去ると、わたしの額に唇を当てた。
「あなたはいつも僕を不安にさせる。どれだけ僕が驚いたか、知っている? ねえ、お嬢さん」
「ごめんなさい、わたしのせいなの…」
「おかしなことを。あなたのせいなどではない。ガーディアンの慣れ切った杜撰な管理体制がこんなことを招いたのですよ。脱走など、あり得たことではない」
「でも、わたしが…」
「可愛いあなたに、何ができたというの?」
ガイはわたしを、抱き合うときのように、名前で呼んだ。それは珍しく、それだけで、わたしは頬が熱くなるような、心が潤むようなそんな気分になる。
このまま包まれていたくなる。
「僕はあなたを外に出すべきではないのかもしれない。ずっと邸に閉じ込めて、僕の帰りだけを待つようにあなたを躾けた方がよかった? それでもあなたは気分を悪くしない? ねえ、お嬢さん」
「ガイ…、ごめんなさい」
甘い声に、彼の囁きに、わたしは瞳を閉じた。そのまぶたに彼の唇が触れる。
「僕は、もうこんなことは堪らない。不安にさせないでほしい」
「ごめんなさい。あなたの気の沿うようにするわ、おとなしくしているわ」
「……そうであってほしいね」
ガイはちょっと笑った。髪に絡む彼の指。それは唇とともに首筋に流れて、ひりひりとする傷のあるらしい首筋に下りた。
「じっとして」
そこに彼の舌が這う、くすぐったい感覚。
羞恥で身体が熱くなる。
「…お客は、いいの?」
「ガーディアンの人間だ。待たせておけばいい」
わたしはガイの背に腕を回し、多分指が覚えた彼の傷痕辺りをなぞるのだ。
そうして、ガイはきっと驚きと怒りを、わたしは恐怖と不安を。互いにそんな行為で鎮める。
 
どれほどかして、彼が身体を放した。
ジャケットの胸ポケットから紙を取り出す。何かの書類のようなそれをわたしの前にちらりと振り、
「あなたにも後で署名がほしい。何があったかを記す、調査書らしい。形式だけのことですが、どうしてあの脱走した女に鍵が渡ったのか、あなたの見たことを聞きたいとか」
被害者でしかないあなたに、まったく馬鹿馬鹿しいと。ガイは肩をすくめ、わたしをガーディアンの者に会わせる気はないと言う。書類に署名さえすれば、それを自分が渡す。それでいいと。
「後はこちらの知ったことではない」
ガイはまだ怒っているのだろう。気分を害しているのだ。慈善の慰問を行った自分の妻が、脱走を試みた受刑者に襲われ、怪我を負ったことを。
あり得ないことだと。
そう、アリスが言っていた。「あんなにご不快なご様子の旦那さまを、アリスは存じ上げませんもの」と。
 
「わたしが鍵を開けたの」
 
「え」
聞き取りにくい言葉を拾うように、ガイの瞳が細められた。
わたしは彼の瞳を受けて告げた。
「わたしがベリンダを、逃がしたの」



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