セピアの瞳 彼女の影
4
 
 
 
暖かな午後の日の差すサロンで、キャンバスに向かっていたジュリアは、銀のトレイに載せられた名刺をちらりと眺めた。
それを自分へ運んできた従僕へ、軽く首を振った。
「今、忙しいのよ」
従僕はそれに恭しく応え、サロンを出て行く。その彼の背中に、「お茶を頂戴」と大きな声を掛けた。
止めた手を再び動かし、傍らの人物が忍び笑いをしているのを目の端で捉え、
「フレドリック、何がおかしいの?」
と、濃いブルーの瞳を向けた。
王女の瞳を受けたフレドリックは、口許を引き締めたものの、やはり微笑は隠せない。もさもさとした茶の髪が鼻から下の髭といつしかつながり、どこからが髭でどこまでが髪なのかわからない。
「絵のレッスンなど、いつでもよろしいではないですか。また、わたくしがジュリアさまのお時間のよろしいときに、参りますから。お客さまがおありなのでしょう?」
「いいのよ」
ジュリアは短く答え、キャンバスに乱暴なほど筆で絵の具を塗りたくった。小さな声で、「どうでもいいお客よ」とつぶやくのが聞こえた。
それは王女の身分では、彼女の機嫌を取り結び、何とか近づきになろうとする者も多いだろう。先ほどの客もその一人なのだろうと、フレデリックは思った。
(この方はそういった連中に、見え透いたおべっかを使われるのがお嫌いなのだ)
自分は彼女に、余計な世辞をだらだらと述べたりしないところが、この王女に買われている部分なのかもしれない、などとも思う。
でなければ、二十八歳の大した箔も後ろ盾もない自分に、王女の絵の指南役など巡ってくる訳がない、と。
ちょっと唇を噛み、「おかしいわ。フレドリックに言われたように、大胆に筆を運んだのに、ちっとも深みが出ないのよ」
フレドリックが王女の肩越しに眺めるキャンバスには、王宮の冬の景色が描かれていた。パレスの中ほどにある回廊を描いたそれは、ラフスケッチの段階では、まずまずの出来だった。首尾よく絵の具を載せれば、案外サロンの壁に掛けても、おかしくないものに仕上がるだろうと。
(しかし、これでは……)
どう間違ったのか、回廊が不思議な列車のようなものに変わっているのだ。彼にはそれは、夜走る列車のように見えてならない。点々と灯った回廊のランプも、車窓からのぞく明かりのようなのだ。
(けれどレールがない。これでは、空を飛ぶようだ)
とても前衛的過ぎ、妙齢の王女のサロンには、相応しいとはいえないだろう。
飽きたのか空腹を感じたのか、ジュリアは絵筆を置いた。フレドリックに向き直り、「今日は、もうお終いにしましょう」と言う。
それでは、と帰り支度を始める彼を、ジュリアは引き止めた。銀の天使の飾り時計に目をやり、
「すぐにガイが来るわ」
それまでお茶を飲んで、彼を待とうと言う。
ほどなく、従僕がワゴンにお茶を運んできた。テーブルに並べられた華やかな茶器類に、数々の菓子。
気取らず飾らず、おいしそうにケーキを口に運び、その狭間にあれこれエドワード王子とのウィンザーでの滞在を話す彼女を、フレドリックはまぶしいような思いで見つめた。
(そのままの、愛らしい方なのだ)
そんなことを思う。
その彼を、じいっとブルーの瞳でジュリアは見つめた。そしていきなりそれを伏せた。
「このパイを食べなさいよ」
彼女は自ら取り分けたパイを、彼の前に差し出した。彼女の分よりほんの少し大きかった。
 
サロンにガイが現われたのは、フレドリックがパイを半分ほど胃に収めた頃だった。
ガイは王女の勧めるお茶に儀礼的に口を付けた後で、何かに気を取られたのか、椅子から立ち上がった。そして彼女の描く未完のキャンバスの前に行き、腕を組み、黙ったまま見つめている。
顎をつまみ、しばらくした後でジュリアを振り返った。
「ねえ、姫。これは…」
その彼の問いを、彼女は遮り、「それは冬のパレスの回廊。余計な質問はしないで頂戴」
そう言い、サンドイッチを咀嚼し始めた。その彼女にガイは、肩を揺らして笑った。
「いや…、冬のパレスがよく描けていると、言いたかったのですよ。フレドリック、君も思うだろう?」
ジュリア王女の従兄弟であり、このたび再びエドワード皇太子の後見役となったアシュレイ伯爵の問いかけに、フレドリックは笑みを浮かべ、
「ジュリアさまがお持ちの独特のセンスが、よく発揮されていると…」
王女はそれらの声に面白くなさそうに肩をすくめ、近くある王宮での舞踏会のことに話を転じた。
「ガイは、ユラを連れてきてくれなくてはいけないわよ。いくら社交嫌いのあなたでも、今度の舞踏会には出てもらいますから。エーグルへ立つわたしたちへの歓送会なのですもの」
それにガイは、ちょっと眉をしかめながらも「ええ」と頷いた。
「けれど、お嬢さんを伴うのはきっと無理ですよ。彼女は今…、マキシミリアンにはいないのです」
「あら、どうして? 一体どこにあなたのレディ・ユラを隠したの?」
おどけて問うジュリアに、ガイはほんのりと笑った。「ええ、事情で、里方へ……」
「ふうん」
口の重そうな彼に、彼女はそれ以上の問いは重ねなかった。
(よそ者の自分がいては、し辛い話なのだろうか)
王女が親しみを露にする数少ない人物の一人アシュレイ伯爵は、ときに冷たくも感じるそのハンサムな顔に、フレドリックは彼に会うごとに、いつだって僅かな影を感ぜずにはいられないのだ。
ブルーグレイの瞳にも。
そして、彼の肩の稜線にも。
(憂いのような、あきらめのような……)
頭のどこかで、その影の正体には、先ほど王女が触れかけた彼が最近妻にしたという『レディ・ユラ』の不在が、関わるのではないかとも思う。または孤独を愛する人にありがちな、他を寄せ付けないバリアのようなものなのか……。
いずれにせよ、フレドリックにはそれを詮索する権利も、また人の心を探る行為をする気もない。
彼は慇懃に礼を述べ、サロンを辞去した。
 
フレドリックが去った後のサロンには、静かな緊張があった。
ガイとジュリアの間の見えない薄い膜のようなそれを、先に手で払うように破ったのは彼女だ。
(隠し事をされるのは、嫌い)
彼女は人の心を読める瞳を持っている。目の前の人の心から溢れた気持ちの残り香のようなものを、彼女の不思議なブルーの瞳は掬い取ってしまう。生まれつきではない。ある日突然、彼女の瞳はそうなった。
幼い頃からその人とは違った力で、嫌な余計な思いをしてきた。知らなくてもいい他人の心をのぞいてしまい。塞ぎたくなったことも、幾度も幾度もある。
歳を重ね、その瞳の力にも慣れ、制御も覚えたことで、無闇に他人の気持ちを掬わなくなった。それで、随分楽になった。
けれど、ほろりと拾ってしまうこともある。
誰かの優しい好意も。
そして、誰かの悲しい決意も。
それは事故のように、彼女のブルーの瞳に映る。
 
「ねえ、どうして? どうして、ユラと別れたの?」



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