セピアの瞳 彼女の影
5
 
 
 
ジュリアの投げた直接的な問いかけに、ガイはちょっと虚を突かれたようになり、ぱちぱちと瞳を瞬かせた。
その後で唇を開き、ゆっくりと答えた。
「彼女とは、別れてなど、いませんよ」
彼は長椅子に戻り、すっかりと冷めてしまったティーカップの紅茶を口に運ぶ。
大きく取った窓から差し込む午後の光は、フレドリックがいた頃より、ほんの少し陰りが出始めている。その柔らかい冬の日差しを、レースのカーテン越しに浴びるガイに、ジュリアはあるイメージを見ている。
濃茶の彼の髪からダークグレーのジャケットの肩にかけて。その辺りに淡い、影を見た。
セピア色をしたその影に瞳を置くと、そのセピアの影の意味がじゅんと頭の中に入っていくのだ。言葉でもなく、形でもなく、それは彼女の中で何かに変換され意味を成す。
「嘘は嫌いよ。そうでないと誤魔化したいのだったら、呼びつけられても、わたしの前に現れないことね、ガイ」
それにガイは弾けるように笑った。
「あなたには、敵わない」と肩を揺らし、しばしの後で彼は、ブルーグレイの瞳をふらりと彷徨わせた。
 
決して他言したことのないジュリアの奇妙な瞳の力を、ガイは確かに承知している。それについて彼女に改めて問うたこともなく、知っていることを、露にもしない。
隠してくれる。
彼が彼女の不思議な力をはっきりと認めたのは、きっと彼女がレディ・アンと初めて面会したときのことであろうと思う。
彼らの結婚後の王宮での何かのレセプション。そこに現われたガイとレディ・アン。腕を組み、仲睦まじい様子の二人は、実に似合いの取り合わせであると、社交界でも声が高かった。
数字の本に埋もれるのが趣味の年上の親しい従兄弟が、いかにも華やかな妻を選んだものだと、ジュリアは面白く思ったものだ。
(案外ガイも、これで派手好みなのかしら?)
彼にはもっと静かな落ち着いた女性が妻となるのであろうと、何となく決め付けてしまっていた感があった。彼自身の放つ感情も、そのような匂いをのぞかせていたのだから。
彼が晩餐前の挨拶に、妻をジュリアの前に伴った。「ジュリア姫、僕の妻のレディ・アンですよ。ほら、あなたはまだお目通しになっていないはずですね」と。確かそのようなことを言って。
藤色のドレスを纏い、清楚で美しい笑みを浮かべたレディ・アンを初めて見たとき、その大輪の薔薇のような美貌に、まず目が留まった。
そして次の瞬間、まだ少女であったジュリアは、「きゃっ」と悲鳴をあげていた。手のシェリーのグラスを床に落とし、その音で、フロアがしんと鎮まったほどだ。
「まあ、ジュリア王女。お手が滑られたのでございますね。近頃のグラスは、大変持ちにくくなっておりますもの」
ジュリアの粗相にレディ・アンは明るい声で、落ち着いた風にとりなした。
それにもジュリアは取り合わなかった。
レディ・アンが肩といい髪といい全体に纏うどろどろとした気味の悪い影に、歯の根が合わないほど恐ろしかった。
それはすぐに彼女の頭に入り込み、意味を成した。差し伸べたレディ・アンの手を、思わず彼女は振り払った。この目の前の従兄弟の妻を穢いと思った。汚らわしいと思った。
その取り乱した自分を見たガイの目の色。驚きと、恐怖と、そして堪らない羞恥が混じった瞳。それを彼女に向けていた。
慌てて詫びを何とか口にし、その場を取り繕ったものの、長く気持ちは波立ったままだった。
そして、静かに時折自分へ向けるガイの視線をそこはかとなく感じ、ひどく彼を可哀そうだと思った。
自分という他者に、レディ・アンの真実を知られたことを、彼はきっと感じた。そのことも可哀そうだと思った。
どれほどの犠牲を払い、どれほどの思いで秘めていたのかを、ジュリアは知ってしまったのだから。
 
時が流れ、彼とレディ・アンの結婚が破綻したという知らせを聞き、ジュリアは喜んだ。目の前が明るくなるほどに嬉しかった。大好きな従兄弟が、これで忌まわしい日常から自由になるのだと、心が浮き立った。
そして歳月の後で、再び彼が妻としたのは、あまりに前妻とは雰囲気の異なる女性だった。
弟王子エドワードの療養にウィンザーの離宮へ赴いた際、見舞いのガイが伴った彼の新妻を、彼女は初めて見た。
レディ・ユラはほっそりとした小さな身体に、珍しい黒髪と黒い瞳を持ち、彼女への硬い緊張をはっきりと表情に載せていた。
遠慮なくジュリアは、ブルーの瞳を凝らし、ユラの影を探った。そこにあるのは、ややおどおどとしたためらいと不安、そしてガイへの思慕ばかり……。
(まるでハチドリみたい)
ユラが心に持つものに、ジュリアはすっかりと安心した。彼女は違う。ガイに相応しいと。
やっぱりガイには落ち着いた静かな人が似合うのだと、自分の最初持った彼の花嫁像にユラがぴたりとはまり、そんなことに満足していたのだ。
(ユラはハチドリのようにかわゆらしいし)
(そして、ガイだけを、本当に焦がれるほどに思っている)
そんな二人が結ばれたのを、彼女はとても嬉しく思った。ガイの久しぶりに見る晴れやかで幸せそうな様子にも、心を打たれた。
(ユラと仲良くしてあげてもいい)
ガイを幸せにしてくれるユラを、彼女も好きになったのだ。
 
それから一月ほどの間に、再びガイは幸せそうな影を消し、代わりに憂いを纏って自分の前に現れた。
彼の纏うセピア色の褪せたような影に、瞬時にジュリアは、彼とユラとの別れを読み取った。
「僕と彼女は、だから、別れてなどいないのですよ。少し…距離を置いているだけで…」
彼女の凝らした瞳を避けるためか、ガイは珍しく、ちょっとおどけた風に言った。けれども、それをすぐに彼女は遮った。
「誤魔化さないで。あなた、ユラとはもう会わないつもりなのではない?」
ガイは口許に、自嘲気な笑みを載せた。それも、彼には珍しい表情だと思った。
「会わないのではない。会えないのです…」
「あなたの言っている意味が、わからないわ。会いに行けばいいじゃない。ガイ、何を言っているの?」
やや焦れたジュリアは、テーブルに身を乗り出し、向かいに座るガイの手を取った。自分の手で握る。
ガイはそれを外し、「ご婦人は、この方がいい」と、自分の大きな手で彼女の手を包んだ。長い指が、緩く彼女の掌を包む様を見ながら、フレドリックの指もこのように長くきれいだったのをちらりと思い出していた。
「僕は、感情に任せ少々無理に…、ユラを自分のものにしてしまった。彼女がそれを受け入れてくれたから…。愛らしい彼女に、僕は夢中になって…」
ガイの紡ぐ言葉に、二人の濃密な愛の気配を感じ、ジュリアは慌てた。自分が聞いてしまっていい話ではないのかもしれない。ガイは自分に話すのではなく、言葉にすることで、ユラとのことを整理しているだけなのかもしれない……。
「あなたが口にしたくないのなら、余計なことは訊かないわ。けれど……」
ジュリアの断りに、ガイはブルーグレイの瞳を細め、少し笑った。それは既に自嘲めいたものではなく、ジュリアが親しみを感じる、大好きなガイのいつもの優しい笑みだった。
「申し訳ない、姫にはお聞き辛いかもしれない。けれど、あなたには知っていていただきたいのですよ」
そこで、「僕はこれまで、ほろほろとあなたに余計なものを晒し、心配をお掛けしたようだから」、と優しく付け加えた。
「ガイだけではないわ。皆…持っているの。あなたが特別なのではないわ」
言いながら、つい人の心をのぞいてしまう自分の瞳を、嫌らしい厭わしいものに感じた。
ガイは微かに吐息をし、彼女の手を包んだまま、それをやんわりと握る。
 
「お嬢さんに選んでもらいたいのですよ。僕か…、そうでない方か」
その決断を促すために、ユラとは離れているのだと彼は告げた。自分にできる限りの彼女への愛情は、示したつもりでいると言う。
妻としたこと。
永遠の変わらぬ愛と、誠実を誓ったこと。
自分の手にできる、すべてを捧げたいと思うこと。
彼女の肌に、幾夜も刻んだこと。
その上で、彼女に自分という男が必要か、真に幸福に沿うものかを選んでほしいと言う。
「彼女は何でも許してくれる。過ちも…、過去も…すべて、優しく許してくれる。それが怖いのです。彼女の寛容が、僕は怖い」
優しいから許すのか、愛しているから許すのか。
愛しているからそばにいるのか、優しいからそばにいるのか。
彼女は見極めているのだろうか。
同情と憐憫と、または恩義……。それらの愛情との境界あるのか、ないのか。それがわからなくて、怖いのだとガイは言う。

「彼女はもしや、……大きな間違いを犯しているのかもしれない」
「じゃあ、ユラがあなたではない方を選んだら…」
「それでは僕は、再び結婚に失敗した不幸な男に戻ればいい」
「ガイ…」
わかっているのだろうか、目の前のこの従兄弟は。それがどれほど不名誉なことか。そしてどれほど寂しいことか。
簡単に言ってのける彼に、ジュリアはため息がもれた。「ガイ…」とつぶやく。
「僕はそういう愛し方しか、できない」
「ガイ……」
「彼女には、真に幸福であってほしい」
それが、彼との未来を指さなくても。別れであっても。
「彼女の選択に、……僕は敬意を払う」
 
(喉が熱い。涙がせり上がるように、喉が熱い)
その涙の熱を感じながら、ジュリアは彼の手に力を込め、強く握る。
「ユラは、あなたを愛しているわ。あなたのことばかり。自分より何より、ガイのことだらけよ。それで、迷ったり…不安に思ったりしているの。自分があなたに相応しいのか、彼女はいつもそれが不安なのよ」
「え」
「あなたのそばにいたくて、離れたくなくて……」
ほろりと伝った涙を拭うため、ジュリアは彼の手を外した。指で涙を拭い、まだぬれるブルーの瞳を真っ直ぐにガイに向ける。
「だから、あなたを選ぶわ。きっと、選ぶ」
ガイは彼女の浮かべた涙に詫びを言い、「ユラはあなたを選ぶの」と言い募る彼女の言葉に、戸惑ったように瞳を伏せた。
ややして上げた彼のブルーグレイの瞳ににじむ、微かな、確かなはにかみと喜色を見て、ジュリアは胸が詰まるように感じた。
(愛しているからこその、きっとそれは彼のセレモニー)
迂遠であっても、遠回りであっても、彼女を思う、彼の偽らない芯からの優しさなのだろう。
その彼の決めた別れの果てに、二人の未来があってほしいと願う。
(なくては、おかしい)
意地のように自分に言い聞かせるのは、どうしてだろう。ジュリアはふとそんなことを思った。
互いに紛れもなく愛し合う二人。
未来のために別れ、きっと再び出会うのに……。
自分のブルーの瞳には未来をのぞく力はない。そのことをどうしてだか、ちらりと不安に思うのだ。



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