セピアの瞳 彼女の影
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ジュリア王女のサロンを辞した後、ガイが歩を向けたのは、パレスの東にある軍の総本部の置かれた、建物だった。
回廊で結ばれた軍本部は、元は王宮内の宝物の貯蔵や陳列、または迎賓館を期して建てられたものであった。
白鳥が羽を伏せ、休んだような白く優雅な外観とは裏腹に、案外な機能性(低い階層や地下室の充実など)と、使い勝手のよさを持っていたため、前の軍の総裁である人物が、勝手にこちらを軍部として移してしまった。ちなみにその人物とは、国で唯一の冠を戴く王である。
彼は夫人である王妃と何か面白くない諍いをしたような日には、パレスを出て、軍部の階上にある自分の割りに手狭な、けれど居心地のいいスペースで過ごした。
その軍部の主が、王から彼の皇太子であるエドワード王子に変わろうとしている。国の法規で、皇太子が十六歳を迎えるにあたり、軍の統括を行う定めになっている。
もちろん若く経験の乏しい王子に、判断できることなど知れている。
当然に補佐・代理をする人物が必要となり、それは偏った資質や思考を持ったものであってはいけない。成人した政治色のない、または少ない人物。高い爵位を持ち、そしてできれば王子の近親者であることが望ましく、以前その経験があり、重責を熟知している者であることが更に望ましいとされた……。
『…などの事由を鑑み、アシュレイ伯爵に皇太子エドワード王子の後見役の任をお任せいたしたく……』
王宮から自分に下った命のような依頼の、『などの事由』というそのくだりを思うたび、ガイは苦笑がもれた。
(はっきりと、僕の名を書いてくれた方がいい)
そのくどくどしいくだりに的確に適う人物が、どこにいるのかと思うのだ。
自分しかいないと。そう思うと、その厳しい迂遠な表現が、滑稽でならなくなる。
遠いウィンザーの離宮で療養を続ける少年の面影に思いをめぐらすまでもなく、受けるべきではあると思う。それは自分の義務であろうと。
(いやはや…、僕にはどうにも厄介ごとが付いて回るようだ)
後見役を引き受けた途端に、彼にはサインを求められる公式な書類が増えた。ときに判断でエドワード王子の名で、または代理として自分の名で。
ほぼ日に一度は、ホワイト・パレスとも呼ばれる優美な外観の内部をした軍部に足を向ける日々。そのオフィスでは書類を読み、人に会い話を聞く。用が済むと、そのまま大学へ回り、そこで講義をし、気づいたときには研究室の窓にやってくるようになったリスに、何か見つけてくれてやったりするのだ。
(あれは、あなたの楽しい仕事だったのに)
ふと思考の狭間に彼女の影を思う。
感じる。
(あなたと離れてから、僕はあなたばかりを思っている)
殊に、この日はジュリアの話を聞き、彼女のみが知るユラの内奥を思わず知った。「あなたのことばかり」とブルーの瞳を凝らし、ジュリアは言った。
「あなたを選ぶ」のだと、「きっと選ぶ」と。
その言葉は、静かな憂いとあきらめの中にある彼の胸のうちに、風を入れるようにしみわたった。
(だと……、いい)
ユラとあった日々に彼が彼女に感じたまぶしいほどの気持ちと、何か運命に似たもの。
それは初めて彼女に会った日から、ずっと続き、意味を深め、彼の手に今も間違いなくある。
 
ホワイト・パレス内の厚い絨毯の敷かれた廊下を進み、すれ違う人のくれる敬礼に、ガイはどこか機械的に応える。
いつの間にか用意された彼のオフィスは、大きな窓辺を背にするよう置かれたデスクがすぐ目に入る。この時間では既に手紙や書類が幾つも乗っている。
制服の秘書官の問いに、彼は頷いたり、首を左右に軽く振ったりした。そのままデスクに歩み、煙草に火を点けた。暖炉の火の温い空気に、ジャケットを脱いだ。
ほどなく現われたこれも制服の人物。肩章が秘書官のものより多い。近くあるという軍事会議の話題が逸れ、雑談に流れる。
幾人かの来客の後で、書類に向き合う。サインをし、または別の書類を破棄させ、秘書官が運ぶコーヒーをときに口にしながら、紫煙をくゆらせ続けた。
書類を片付け、「もう今日はいい」と、秘書官を下がらせた後も、彼はしばらくオフィスの中にいた。煙草の煙で、あたりがねっとりとなっているのを感じた。
厚いベルベッド生地のカーテンを引き、既に宵のものとなった風を受ける。どこかでメイドのものか、華やかな笑い声が聞こえた。
退屈で色褪せたような日常。
少し前までは当たり前の静かで好みだったはずの時間が、頼りなく味気なく感じる。
「軍の仕事は余計だが…」
そうつぶやいて、ちょっと笑う。
不意に午後のジュリアの言葉が甦るのだ。
彼女の鋭い濃いブルーの瞳を思う。彼女の持つ不思議な瞳の力を、彼女がほんの少女のときから、彼は感じていた。
それは彼の祖母の持つ、ひどく鋭い勘に似たようなものだと捉えていたが、あることがきっかけで、彼女の目には、常人には見えない人の心が見えるのだろうと気づいた。
それは人の考えのすべてを見通すのではなく、何か抑えきれないような感情、思いを、彼女の瞳は拾うのだろうと想像もした。
そしてその力をときに恥じ、厭うジュリアを、不憫に思いもした。
(余計なものを、知らなくてもいいものを知るのは、きっと辛いだろう)
そこで、彼は前妻のレディ・アンを初めて引き合わせたときの、ジュリアの驚愕と、嫌悪を露にした表情を思い出した。
あのときのジュリアは「レディ・アンが美しくて、びっくりしたのよ」とたどたどしく繕っていたが、ガイには彼女の気持ちが嫌というほどわかった。
(アンの心を見たのだ、姫は)
(そしてあの件でもって、僕も姫も、互いの秘密を知り合ったのだろう)
現王の唯一の愛娘、愛らしいプリンセス。
美しく聡明で華やかなレディ・アンを妻とした、幸福なはずの若き伯爵。
その二人の持つ、秘めたもの。
それが触れ合って、ジュリアの手のグラスが割れた。必然の化学変化のように、それは互いには見えた。
憐憫がなかった訳ではない。彼女の力を持て余す様子に、可哀そうになったこともある。秘めようと、悟られまいと力を隠す彼女をいじらしいと思ったこともある。
それでなくとも可愛らしい年下の従姉妹であり、少々わがままで強引な面を持つ王女を慈しんできた。彼女の気丈で、そして元気な振る舞いを目にするのは心地がいい。
不思議な瞳を持つジュリアは、その瞳に映ったものを、きっと初めて彼女は他人に告げた。ガイはそれを感じる。
彼女の中で禁忌となったはずのルールを、彼女は彼のために破ったのだろう。
(僕のために告げてくれた)
『ユラは、あなたを愛しているわ。あなたのことばかり。自分より何より、ガイのことだらけよ。それで、迷ったり…不安に思ったりしているの。自分があなたに相応しいのか、彼女はいつもそれが不安なのよ』
だから、ガイが彼女を手放し距離を置き、何を選んでもいいと、自由を与えても、彼を選ぶと言うのだ。
『あなたを選ぶ』と。
ガイは、涙を浮かべそれを自分に告げてくれたジュリアの瞳を思い出す。
(あなたがおっしゃるのなら、それは狂いようがない真実だ)
(姫のお言葉は、万金に値する)
彼の指は、シャツの胸のポケットに伸びた。そこにある銀の懐中時計を取り出す、掌に乗せたそれは、中の鏡が当たり前のようにユラの横顔を写した。
その長い髪を垂らした愛らしい彼女の顔は、困っているようにも、戸惑っているようにも見えた。指を唇に当てている。
(また、あなたの指は、氷のようにきんと冷えてしまっているの?)
すぐにもその指を包み、温めてあげたいと思う。
抱きしめて、口づけて、恥じらう彼女を溶かすように愛したいと思う。
「ユラ…」
彼女には自分とのこの別れは、辛い試練なのだろうか。
(僕には、辛い…)
彼女に強いた、課した別れの日々とその真の意味。それを自分は、もし再び会えたときに、彼女に口にすることはないだろうと思う。
時空を越えて出会った自分たちの、再びめぐり合うための、それは別れ。
すべてを自分のために、捨ててほしいと願う。
すべてを自分のために、脱いでほしいと願う。
「ねえ、あなたは今、辛いの? お嬢さん」
彼は鏡の彼女に唇を当てた。



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