セピアの瞳 彼女の影
7
 
 
 
「申し訳ございません。一々、念を入れて点検したんですが…、本当に申し訳ございません、大事な夜に…」
アシュレイ伯爵家の御者マークスは、いきなり具合のおかしくなった車輪に取り組みながらも、ちらりと主人を見て、済まなさそうに幾度も詫びを繰り返した。
王宮での舞踏会へ向かう道で、馬車が進まなくなったことが、いたたまれないほど主人に申し訳なかった。
自分は、預かり任された馬車らを、日々幾度もくどいほど念入りに手入れをし、磨き上げている。
(なのに、よりによって、こんな大事な夜に……。ちくしょう)
潤滑のための油脂で黒くした手で、彼は必死に車輪の歪みを何とかしようとしている。冬の終わりとはいえ、宵は冷えがいまだ厳しい。けれど、マークスには、その寒さが感じられなかった。
「道に子猫がうずくまっているのは、君のせいじゃないだろう」
主人はとうに馬車を降り、石畳の歩道を、靴音をさせ、ぶらぶらと歩きながら煙草を吸っていた。
主人の言うように、マークスは街の車道にうずくまる子猫を見つけ、それを避けようと車を動かし、それにより路上にあった石を、車輪が踏みつけることになった。
「申し訳ございません」
「いや、少々遅れた方がいい」
「すぐに、直しますので…、誠に申し訳…」
もう一度マークスが詫びを述べようとし、ふわりと紫煙の流れる主人へ顔を向けると、既に彼の注意は馬車から逸れていた。日が暮れ、そろそろ人通りもまばらになりつつある街の、並ぶ店のショーウィンドウに気を取られているようだった。
繁華な通りからは少し逸れた一角。こちらを通る方が馬車も混みにくく、王宮に便利がいい。マークスは主人を王宮へ送る際、この道をよく使う。
「マークス、ちょっと待っていてくれ」
主人は彼に告げ、先ほど眺めていたショーウィンドウの店へ、脚を向けた。
 
ガイがドアを押すと、ドアベルが鳴り彼を迎えた。やや温いむっとするような空気が彼を包んだ。お仕着せのスーツを着た店員が、客の来店にショーケースを磨く手を止める。
「いらっしゃいませ。何をご用意いたしましょう?」
「ああ…そうだな」
ガイは広くない店内のあちこちに飾られたぴかぴかと光る装飾品にざっと目を流した。女性の衣装を飾る、ブローチやコサージュ。彼には何の意味があるのかわからない、小さな小さな飾りバックなど……。
花や蝶などを模した愛らしいそれらが、品よく陳列されている。
ショーウィンドウに飾られたものを見せてくれと頼み、カウンターに載ったそれをちょっとだけ眺めた後で求め、贈り物用に包ませた。
店員が作業をしている間に、奥から別の同じくお仕着せを着た者が現われた。お茶を運んできたその男に、自分はいいから、車道脇で車輪を直す御者にやってくれないか、と言った。
「よろしゅうございますよ」
男がマークスへお茶を運びに戸外へ出ると、ガイは思いついて、包ませているものとは別の薔薇のコサージュを指し、
「あれもくれないか」
「贈り物で? 今お包みしているこちらと、ご一緒でしょうか?」
「いや、別で」
銀貨を払い、小さなギフトの箱を二つ手にガイは店を出た。一つはコートのポケットに入れ、一つは手袋の手に持ったまま。
車輪は首尾よく直ったようで、マークスは既に立ち上がり、自分を馬車のドアを開けて迎えた。
手のギフトを膝に乗せ、それに指を触れ、さぞ今頃はジュリア王女がつむじを曲げているだろうと、ちょっと苦笑がもれた。
華やかな舞踏会の衣装に身を包み、それでも傍らのトレイから何か焼き菓子などを口に運び、「ガイったら、一体何をしているのかしら? あれほど来るようにって、言ったのに」などと、そんなことを、やや苛々とぶつぶつと言う彼女が目に浮かぶ。
膝の小箱のリボンをとんと彼は軽く叩いた。
(こんなもので、姫のご機嫌は治るだろうか?)
それでも邪気のない彼女は、「ありがとうと」と、自分へきっと笑顔を向けてくれるだろうと、彼は思う。そして、ちょっと笑みがもれた。
(ついでの品だとは、決して言えないな)
ごとりと静かに揺れ、馬車が型通りに動き始めた。
彼のポケットのもう一つの箱に収められている、初めにショーウィンドウで目に留まった白百合の可憐なコサージュ。
それが、ユラの黒髪にひどく似合うように思えた。彼女がそれを耳に掛けている様を、思い描けるように感じた。
(あなたにあげたい)
小さなこの小箱を、自分が彼女に差し出す。それを手にしたユラのやや怪訝な顔。「ガイ、なあに?」そんなことを訊くだろう。
そして箱を開け、ほころぶように笑顔になる彼女……。
そんなユラを、ガイは見えるように思う。
(ねえ、お嬢さん、忘れないで)
以前ジュリアが彼にくれた「ユラはあなたを選ぶ」という言葉が、彼が理性と観念で蓋をした胸の思いを、揺さ振ったのだ。
それにことりと蓋がずれ、他愛もなく中をのぞかせ、そしてゆらりと彼の感情がこぼれ始める。
忘れられないと。
自分だけの彼女だと。
「あなたは、僕の妻だ」
だから、と彼は思う。
ときが満ちれば、自分はきっと彼女を迎えに行こうと。
初めて彼女に会った、あの不思議な積み木を合わせたような世界へ。そこで彼女は目を見開いて自分を見るのだろう。
(あなたは泣くかもしれないね)
さらうように彼女を腕に抱き、あの列車に運んであげたいと思う。
彼女が自分に向けた涙。または抱き合う愛撫の際の吐息と、甘い声に。拗ねたときの愛らしいふくれっ面に。
その端々に、あったのではないか。間違いのない、彼女の下した決断が、選択が。自分との未来が。
「ガイでないと、嫌」と、彼女は言っていたではないか。
(僕は、間違っていたのかもしれない)
(彼女を帰すべきでは、なかったのかもしれない)
時と次元の、遥か彼方。
途方もない隔たり。
そのすべてを越え、自分たちは結ばれた。互いに愛していると知り合い、抱き合い、確かめ合った。
それ以上の何が必要だったのか。
紛れもない彼女自身を、そして未来を選んでほしいと、彼女を手放した。その上で、自分を選んでほしいと別れた。
彼女に悔いてほしくないと。
「けれど……、僕が…」
ガイは焦れと、自分への苛立ちにブルーグレイの瞳を伏せた。
(あなたを手放したことを、堪らなく悔いている)
 
 
王宮の中ほどにある通称『春のパレス』と呼ばれる宮殿のその大広間は、シャンデリアや照明が夜も明るく煌き、多くの着飾った人々で賑わい、華やかな宵の只中に会った。
コートを預け、小さな贈り物の箱を手に、廊下を進む。開けられたドアから広間に入り、桟敷にいるジュリア王女を見つけた。
ガイがそばに来ると、彼女はむっとした顔を隠さず、「来ないのかと思ったわ」と文句を言った。
ガイは、隣りに用意された席に座る前に片膝をつき、彼女に例の小箱を差し出した。
「ほんのお詫びです。馬車の調子が悪くなってしまって。申し訳ありません」
早速箱を開け、中の薄いイエローの薔薇のコサージュを取り出した。喜色を浮かべ、そばのメイドを呼び、髪に飾りたいと言った。
「編んだところに挿して頂戴」
彼女の他愛もなく喜ぶ様を見ると、愛らしさでガイは頬が緩んだ。メイドからコサージュを受け取り、自ら彼女の髪に挿してやる。
「ほら、お似合いですよ」
「ふふ、ありがとう」
曲の狭間になり、ジュリアが彼の手を引いた。「踊りましょう」と言う。
「やれやれ、姫は僕が上手くないのを、ご存知でしょう?」
クリーム色のドレスを纏ったジュリアは彼の声に頓着しない。ぐいぐいとフロアへ引いていく。
中ほどまで来たところで、今宵の主役のお出ましに一斉に拍手が上がった。
(やれやれ…)
肩をすくめるガイに、ジュリアがにこりと笑う。
「知っているわよ。それほどあなたが、ひどい踊り手ではないことを」
 
曲が果て、ジュリアが某公爵から踊りの申し出を受けた。ガイは恭しくパートナーを譲る。
通りかかった従僕の銀のトレイから、シャンパンを取り、口を付けた。
奥の席に、よく見知ったグレイ・フィッツジェラルド大佐の姿が見えた。何か軍務の急用でもできたのかと戻りかけ、そのとき声を聞いた。
グラスを口に運びながら歩を進めた。
もう一度背中にかかる声を。
「ガイ」と。
女性のそれに振り返ると、そこに現われたのはレディ・アンだった。
少し胸許が開いた流行のデザインの瀟洒なネイビーブルーのドレスを、すっきりとしたその身に纏っている。
ほっそりとした腰を、少し媚びるかのように、または挑むかのようにほんのりくねらせている。
陶器のような滑らかな肌の美しい顔を、彼女は屈託なく笑ませた。
「ねえ、次お相手して下さらない? ガイ」



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