セピアの瞳 彼女の影
8
 
 
 
ガイは現われたレディ・アンを前に、グラスのシャンパンを黙って飲み干した。通りかかった従僕のトレイへグラスを返した。
従僕の背が遠のくのを目の端で見ながら、ごく小さな声で言った。
「二度と僕の前に現れるなと、言ったはずだが。次はないと…」
朗らかな微笑を頬から口許へ貼り付かせたまま、アンは、
「『僕と彼女』の前よ。以前あなたが言ったのは」
やはり小声で返す。
出し抜けに曲が始まった。アンは彼の手を取り、身を寄せた。「踊りましょう。おかしいわよ、フロアに二人が突っ立ったままじゃ」
楽団の奏でる音楽に、人々は既に踊り始めている。その緩く回転する人々を縫い、何事もなかったように彼女から遠ざかるにはやや遅い。
「ほら、皆がわたくしたちをひっそりと見ていてよ。別れた二人が一体何をしているのか……。興味津々といった風で」
それでもガイは、彼女の腰に手を回す気にはなれなかった。その躊躇を払わせたのは、彼女がささやいた言葉だ。
「おかしな振る舞いはしないで。余計な噂が立つわ。後見役の醜聞は、エドワード皇太子のお為にならなくってよ」
「…のようだな」

「ほら、これまでのわたくしたちのように、上手く振舞うの。至極睦まじい元夫妻として、今では仲のいいお友達なのよ、わたくしたちは」

アンの言葉の馬鹿らしさと嫌悪感で、彼はちょっと嘆息した。

ほんの僅かな沈黙。

彼は、彼女に取られたままの手をするりと外し、、彼女の背に当て、ドレスを伝い下ろす。

(この女の言うことは、ときに正しい。いつだって、それが真実であったためしはないが……)
数年振りに、ガイの手がアンのほっそりとした腰に置かれた。

 
踊りながら、互いを見つめながら、ときに笑みを浮かべるガイ、小首を傾げ、彼のささやいた何かに楽しげに笑うアン。
五年前に社交界を揺るがして別れた二人の円満で和やかな様子は、人々の目に驚きだった。
「彼らの言っていた『円満な離婚』というのは、嘘じゃなかったのか? あんなのは、世間体を取り繕うためのものだと思っていたのだけどなあ」
「あら、でもあのご様子じゃあ、それも本当らしく見えるわ」
「伯爵の亡くなられたお祖母さまと、レディ・アンの折り合いが悪かったと聞いたわ。案外それが離婚の原因なのかも。二人は、ほらいまだに仲がよろしそうだもの」
「わたしなら、別れた妻には二度と会いたくもないがね」
「いや、しかし、アシュレイ伯爵は、あのレディ・アンをよく手放せたものだ。まったく社交界の華じゃあないか」
「そういえば、アシュレイ伯爵の新妻はどこにいるんだい? レディ・ユラとかいった……」
 
人々の自分たちへ注がれる視線と興味を、ガイは気味の悪いほどに感じている。肌にざらざらとそれらを感じつつ、きっと周囲が満足するだろう『レディ・アンの別れた夫』を演じ続けている。
ときに微笑さえ浮かべながら、彼が彼女に密かにささやく言葉は、笑顔とは裏腹にごく冷えたものだ。
「何をしに現われたんだ?」
「まあ喧嘩腰ね。わたくしだってレディよ。王宮の舞踏会の招待状くらいくるわ」
「君が、意味もなく僕の前に現れる訳がないだろう? 何を呑んでいる?」
そこでターン。
ガイが少しステップを間違えた。それに彼が「やれやれ」といった表情で笑った。
「早く言え」
アンがよく薔薇にたとえられる笑顔を浮かべ、何かささやく。彼の些細なミスを、他愛なくおかしがるように。
「嫌われたものね。これでも上手くあなたの妻を演じてきたつもりよ。何の…誤りもなく」
「早く」
穏やかな表情と押し殺した彼の声。「君を殺したいくらいだ」
アンの微笑み。結い上げた髪から垂れた幾筋かが、顔の輪郭に沿って艶めいて揺れた。
「ガイ、ユラはどうしたの? 来ていないの?」
「君に関係ない」
「あら、…会いたかったのに」
曲が果てた。
二人はやや距離を置き、伸ばした手の先に触れたまま、それでも見つめ合う。その瞳が互いに探るように暗い。
「あなたに頼みたいことがあるのよ」
「あははは」
手を離して、彼女のつぶやいた声に、ガイは笑った。アンもローズピンクの唇を愛らしく歪めて笑う。傍目には、二人で何か分かち合うおかしなことでも見つけたように、朗らかな雰囲気を纏う。
「それでこそ君だ。いやはや、…久し振りに君の計算高さを思い出した」
「そう? 数学の博士も舌を巻くくらいのね」
二人は人波みを縫い、フロアを下がった。
ガイは、グレイ・フィッツジェラルド大佐の待つ桟敷の席に向かおうと、彼女から離れようとした。別れの間際に、背後のアンへ、従僕の差し出すトレイからグラスを取り渡してやる。
「永遠にさよならだ」
細身の華奢なグラスに彼女は唇を当てた。
「訊かないのね。わたくしがあなたに、何を頼みたがっているのか」
「なぜ、訊く必要がある?」
「あなたは、わたくしの頼みを叶えてくれるわ」
自らもシャンパンを口に運びかけ、ガイはちょっと笑った。人に頼みごとを持つときでも、たっぷりとした自信と傲慢さを湛えた彼女の嫌らしいまでの不敵さに、おかしくて笑みがこぼれる。
(よりによって、この僕に)
アンはもう一度もったいぶったように、繰り返した。「あなたは必ず叶えてくれるわ」と。
ガイはそれ以上相手になるつもりもなく、背を向けた。
その彼の背に、彼女の低い声が降る。
「ユラに絡むことであっても?」
ガイは進みかけた歩を止める。彼女へ振り返った。
溢れんばかりの嬉しげな笑顔で、アンは笑った。「やっぱり、振り返るのね」
彼女は唇の端を、ちろりと舌で舐めた。
ガイは彼女のそんな様を、まるで獲物を前にした猛禽類のように思う。
(獣の死肉でも喰らっているのが似合いだ)
アンは瞳を瞬かせた。アイス・ブルーの、見ようによっては酷薄にも見えるその瞳。
「ねえ、二人きりになりたいわ」
シャンパングラスをゆっくりと口に運ぶ狭間、彼女はつぶやく。「あなたのためでもあるのよ」と。
人々の優雅な喧騒のざわめき。
その波の中で、彼と彼女だけが静かな闇の中にあるように。
「わたくしの邸にいらっしゃらない?」
彼女の声は、小さな闇の中でこだました。



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