月のマーメイド 彼女のブルー

10

 

 

 

演奏は、ふつっと途切れたように止んだ。

そうしてまた再び、幕間のようなざわめきが起こる。ドレスの衣擦れの音。火照った頬を鎮めるために取るグラスの触れ合う音。またはささやき、笑い声。

そばの男女の二人のやり取りが耳に入る。「愛している。美しいのは、あなただけだ」、「まあ、お口がお上手ね」

別の側の二人は、女性の方が「わたくし、チョコレートパイがいただきたいの」と男性にささやいている。男性はやれやれといった様子で笑う。「さっき晩餐を済ませたばかりじゃないか。あのローストビーフは、どこへ消えたの?」

次の曲へ移るための、小さな狭間。

ちょっと寛いで、ちょっと安らぐ、華やかな舞踏会の宵の、それは狭間。

そんなときに、それは始まった。

曲の後で体を離したフィリップさんが、わたしの手を静かに取った。指を絡め、その一本一本に自分のそれを結ばせていくような、きつい握り方。

それに、わたしは気味の悪さを感じた。この人を初めて恐ろしいと思った。

優しげな表情で、柔らかな物腰で、ひどく瀟洒で紳士の振りをした彼は、それらの魅力を振りかざし、惑わせて、わたしをどこに連れて行こうとしているのだろう。

彼の手がわたしを引いた。人波を縫い、ホールを下りていく。大理石の床を踏む彼の靴音。かつかつと、それはゆったりとした音から、次第に急くものに変わった。

途中、知った顔がわたしを見た。声を掛ける。

「どちらへ? レディ・ユラ」

『上級将校夫人の会』のメンバーの一人だった気がする。

わたしは軽く笑み、言葉を返した。

「風に当たりに。少しのぼせてしまいましたの」

するりと人の群れを抜けていく。

そこで、彼は衝立に隠れた扉を開け、、大変な数のグラス類や料理の豊富なビュッフェ台を並べた、広間の控えの間を通った。

ここにきて、彼の手をつかむ力はひどく強まっていた。痛みで痺れるほどに。

広間を出ても、回廊は化粧室へ向かう女性や、煙草をくわえて話しに興じる紳士の姿が見られる。

また声が掛かる。

「あら、レディ・ユラ、どちらへ?」

これにわたしは、返すことができなかった。彼がいきなり歩を速めたのだ。

「痛いの。腕をあまりつかまないで」

「早くここを出ないと。遅くなれば、舞踏会の帰りの人々で、ひどく混雑しますよ」

そうして彼はやや腕を緩めた。小声でささやく。

「あなたと二人きりになって、これからの二人の将来について語りたいのです。それで、心が急くのです」

わたしは返事をしなかった。

この人と共にある将来。一体それは何のだろう。何があるというのだろう。

嘘と偽りと、幻惑でわたしを取り込んだ彼の言う「二人の将来」とは、何なのだろう。

彼は人少なになった回廊で、わたしにまたささやいた。

「あなたへの執着は、きっとわたしの中で、愛に変わりつつあるのです。……レディ・ユラ、あなたの首にわたしたちの未来を縛る呪縛の品が光っている」

彼は、わたしの首に光る伯爵家のネックレスに瞳を向けた。ガイが結婚の際に贈ってくれたものだ。代々の伯爵夫人が所有するダイヤをあしらった華やかなそれは、家宝でもあり、わたしは滅多に触れない。

名家に伝わるそれぞれ代々の夫人が所有するジュエリーの幾つかは、その物語性も併せ、人の口の端にも上るという。某公爵家のルビー、某子爵家のダイヤのリング、某伯爵家のパール連のネックレス……。

フィリップさんは手紙で、今宵の手筈を示し、最後にそれらしい言葉で飾った末、わたしにこのネックレスを身に着けてくるように指示したのだ。

彼はわたしから、このネックレスを奪うために近づいたのだろう。甘言を用い、嘘で縛り上げ、怯えさせて、大切なガイからの贈り物を奪おうとしている。

ひどい男。

嫌な男。

彼がわたしを回廊の果て、車寄せに向かう方へ誘った。そのまだ閑散とした出口ホールにわたしたちが進んだとき、別の回廊から、わらわらと人が現われた。王女が手配し、待ち伏せさせた衛兵たちだ。

臙脂の制服を着た彼らは、十人にも及ぶ。包囲するようにわたしとフィリップさんを取り巻き、銃口を向けた。

「フィリップ・ワイズ。命によりお前を捕縛する」

彼の絡めた指が、わたしの掌に食い込んだ。爪が皮膚を破るのではないかと思うほどに、それは強かった。

 

彼は自分に向けられた銃に、舌打ちをした。そのすぐ後で、わたしの腕を捻り上げた。

低い、押し殺したような声で、

「この女、ちくりやがったな」

これまでの穏やかな紳士口調を、彼はがらりと変えた。「くそ、売女め」

「レディ・ユラを離せ。こちらへ」

いつしか、取り囲む軍人らしい彼らの背後に、目も鮮やかな衣装を纏ったままの王女が、どこからか現れていた。

彼女が口にしていた「彼の真の姿」が、確かに今晒されている。

彼が捻る腕の力は強く、わたしはその痛みに顔を歪めた。

「ユラ」

王女の声が響く。「彼女を助けて。早く」

「それ以上近づいたら、この女の骨を砕くぞ」

包囲を狭める彼らに、フィリップさんが吐き捨てた。

本当に骨くらい折るだろうと、思った。それくらいに彼の声は低く、そして込められた腕の力は強い。

その痛みに、意思とは関係なく涙がにじむ。

「俺を逃がしたら、この女をそっちへ渡す。交換条件だ」

痛みに目を細めるわたしの顔を、彼がちらりと見た。「ちっ。あんたが裸でそんな風によがる顔を、もうちょっとで見られたのに」

「止めて……」

彼の侮辱より、その言葉のいやらしさより、痛みの恐怖が勝っていた。ちぎれるかと思うほどに、痛い。指先の感覚はとうに消えていた。

「お嬢さん」

いつ現われたのだろう、王女の肩の向こうに、ガイの姿が見えた。王子を伴っている。

二人は二言三言、言葉を交わしたように見えた。ややして王子の声が鋭く伝えた。

「グラント、撃て」

命令の間の躊躇はなかった。グラントと呼ばれた男性が一人、真っ直ぐに構えたその銃を撃った。

銃の恐ろしさを感じる前に、大きくばんと、すぐ近くで何かが弾けるに似た音が轟いた。

「あああっ……、ああっ、やりやがったな、痛ぇ、痛ぇ……」

わたしの腕を放り出し、フィリップさんは床に倒れ、そのまま痛みのために転げている。「痛ぇ」と幾度も繰り返す。肩の辺りを撃たれたようだ。

すぐと、彼は制服の人々に包囲され、間もなく捕縛された。

途切れなく「痛ぇ」と唸っている。続くその声は泣き声に近い。声はうるさいほどに続く。

それほどにひどい怪我なのだろうか。重症なのだろうか。

わたしは取り戻した腕を抱きながら、苦しがるフィリップさんから目が離せないでいた。

「かすっただけだ。黙れ」と、呆れた衛兵の声が聞こえた。それにややほっとする自分がいる。

何にせよ、人が苦しむ様を見るのは辛い。

「ユラ、大丈夫?」

王女がわたしに駆け寄り、抱きしめた。「あなた勇敢だったわ。恐ろしかったでしょう? もう大丈夫よ」

恐ろしさに今更に震えた。

「ええ、ありがとう…、ジュリア」

王女は調べさせた結果、フィリップさんのレディを相手の詐欺行為が、わたしの件の他にも、幾つもあることを教えてくれた。

「子爵でも何でもないわ。彼は詐欺師フィリップ・ワイズよ」

彼女はわたしの腕を解き、怪訝な表情のガイに向き直った。

「どうして、お嬢さんが……?」、「僕には意味がわからない」、「あの男は何なのです?」

矢継ぎ早に口にする彼の問いに、王女が得々とした様子で答えている。

詐欺師フィリップ・ワイズが、わたしに近づいてきたこと。それにわたしが騙されそうになったこと。王女が気づき、今回の捕縛劇を思いついたこと。

「ユラは無事だったし、詐欺師は捕まった。終わったのよ。さあ、喜んで頂戴」

それにガイが何と答えたのか、聞き取れなかった。フィリップさんの声が耳について、聞こえなかった。

彼は縛られたまま、衛兵に連行されていった。しばらく彼の声が耳にも頭にも残りそうだ。あの「痛ぇ」という不快な喚き声が。

王子がいつしかわたしのそばにいた。腕を取り、大丈夫かと訊く。

「ええ、少し痛むだけです」

「ジュリアからの知らせで、びっくりしてガイと駆けつけてきたんだ。君が男に腕を捻り上げられているのを見て、慌てたよ」

王子は王女に似たきれいなブルーの瞳を瞬かせた。その表情にはやや戸惑いが見えるものの、しばらくして、ゆるりと緊張を溶かすように軽く笑った。

「ジュリアのサロンで休んで医師に腕を見せた方がいいよ。銃のこと、驚かせてごめん。もう少し待っていたら、君の腕がもたないと思って」

「ええ……」

王子は優しくわたしの肩に触れた。「もう平気だよ、ユラ」と、気を和ませることをささやいてくれる。

わたしはうなずき、礼を言いながらガイを目で追った。彼は腕を組み、王女から説明を聞いていたが、それが終わったのか、彼女から視線をわたしへ移した。

わたしは自然に期待していた。その後の彼の行動を。

彼の抱擁を、優しい言葉を。王子のそれでは満たされないのだ。

ガイに優しく、いつものようにささやいて、抱きしめてもらいたかった。「さあ、お嬢さん。恐ろしいことはもうおしまいですよ」。腕を伸ばし、わたしの腰に回し、引寄せる。そしてそんな言葉をくれるのを、わたしは、当たり前に待った。

けれどガイは、ちょっと視線をわたしに合わせ、すぐに逸らした。ふいっと背を向け、どこか奥へ行ってしまう。

「ガイ……」

どこへ行くのだろう。

どうしてわたしを放っておくのだろう。

どうして?

興奮が冷めないのか、王女が今回の顛末を賑やかに語る。「どきどきと胸が鳴った」とか、「こんなに身近に銃声を聞いたのが初めてだ」とか。

「面白い趣向になったわ。ユラには痛い思いをさせて、申し訳なかったわ」

「ええ……」

わたしは上の空だった。

彼女がわたしの腕を取り、自分のそれに絡めたのも。鼻歌交じりでサロンへ向かうのも。彼女のサロンの椅子に掛け、医師の前で腕を露にしたときも。まるで、別の世界の出来事のようだった。

わたしは別の思いでいっぱいだったのだ。

どうしてガイは、そばにいてくれないのだろう。

どうして……?

 

ほどなくしてサロンにグレイ大佐が現われた。ガイにほんのりと似た彼は、王子の軍の仕事をする際の側近と聞いている。

硬い口調で彼は伝えた。

「アシュレイ閣下は軍のご用で、遅くなられるとのことです。奥さまには自分を待たれずに、お一人でお帰りになるようにとのお言葉でした」

それにわたしは、何と返したのだろう。「ええ」だとか、「はい」だとか、きっと無意識に出る言葉のどれかなのだろう。

彼がサロンを出て行ったのも、気づかなかった。

王女がお茶の仕度のため、呼び鈴を鳴らす音すらも遠い。

どうしてガイは、一人で帰れなどと言うのだろう。

さらに、どうして用があるのなら、それを直接わたしに伝えてくれないのだろう。

混乱と、戸惑い。そして不安。

どうして、という問いがわたしの中で広がり、溢れ返る。

「ねえ、楽しかったでしょう? 言った通りになったでしょう」

彼女の声すら、遠い。

 

 

一人帰ったわたしは、寝室でガイを待った。

衣装も脱がす深夜まで待ち、一人でそれを解いたのが、既に明け方近かった。

ガイはその夜、帰っては来なかった。

何の知らせもなく、何の言葉もなく。

わたしは一人で、眠れない夜をやり過した。




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