月のマーメイド 彼女のブルー

9

 

 

 

「フィリップ・デクスターなんて、存在しないのよ」

ジュリア王女はもう一度、わたしの前で繰り返した。「でたらめよ、彼の言うことは」

わたしは虚ろに、彼女のブルーの瞳を見つめるばかり。

黒い髪と瞳、彼の曽祖父の経験、そして彼の家系の悲劇。彼は繰り返し述べた。「あなたの黒い瞳と髪に魅かれる」と。

彼がわたしの前に広げ示した幾つかの共通点とその悲劇の可能性。それらは、わたしをまずうろたえさせ、追い詰め、そして震えさせた。

その彼の言葉が、嘘だというのだろうか。

彼は先日わたしを伴った郊外の湖畔のホテルで、もらした。寂しい湖の色も、その印象も、自分の領地に似ていると、「ロールズバリーに似ている。冬の領地と同じ色をしている」と言ったではないか。

そのロールズバリーが私領地ではありえなく、王室の直轄領であるという。しかも、王女は王太后さまのお供で、訪れたことがあるという。

わたしは王女の指がきつく絡む指を、外した。自由になった指は、きんと冷たく唇に触れた。

その冷たさにはっとなる、無意識の仕草だった。

嘘だったら、どんなにかいいだろう。どんなにか……。

「嘘だわ……。王女はわたし慰めるために、そんなことをおっしゃるのでしょう? 可哀そうだから、哀れだから……」

「冷静になりなさい、ユラ」

彼女はわたしの手を再び取った。自分の方へ強く引き、ぎゅっとつかんだ。

「それは黒い髪と瞳は珍しいわ。わたしもあなたが初めてよ。でも髪の色も目の色も、国が異なれば違うでしょう? おかしなことじゃないわ」

そこで王女の瞳は、ぱちりと長い睫毛を伏せてまた開いた。ブルーの瞳を持つ彼女。ブロンドの髪を持つ彼女。

ガイは濃い茶の髪色に、瞳はブルーグレイ。レディ・アンのそれはやや明るい茶と、青い瞳をしていた。王子は、絵の教師のフレドリックは……。

わたしは思いつく限りの人の髪と瞳の色を、頭に急いで挙げていった。

「珍しい髪と瞳の色を利用されたのよ、あなたは」

わたしはようやく、真っ直ぐに彼女の瞳を受け止め始めた。これまでのように、日常のごく軽い憂鬱を抱えた、けれど幸せに満ちていたわたしのように。

「でもわたしが、どこかマキシミリアン以外の土地で暮らしていたことを、彼は知っていたのです」

「裕福な女性が、マキシミリアン以外の土地を訪れたことがない方がおかしいわよ。王女のわたしだって、ウィンザーやらあちこちへ行っているのよ。旅行をしない人なんて、滅多とないわ」

とにかく、と王女は繰り返す。「領地を偽った彼が、他も偽っていたって、当然だわ」

王女の確信に溢れた物言いに、徐々にわたしの心が、ふっくらと希望を持ち始めている。

わたしは、ここにいられるのだろうか。

ガイのそばにいることを、許されるのだろうか。

希望はまるで水が広がるように、わたしの胸を占めていく。涙が頬で乾いていく。

「あなたがそれを、勝手に拡大解釈しただけなのよ。図に当たったと、彼は曽祖父の話をでっち上げ、ありもしない悲劇の家系を作ったのよ。怯えで口を封じさせ、怖がるあなたを見て、きっと内心ほくそ笑んでいたはずよ」

「でも、でも……、何の目的で? どうしてわたしに近づいたのかしら?」

「おかしな人ね、ユラ」

王女は肩を揺らした。ころころと明るい声で笑う。

「嘘をつき、近寄ってくる男の目的など、知れているじゃない。邪まな欲望しかないわ。金か、レディへの嫌らしい興味でしょう」

「そんな……」

フィリップさんの瞳。その瞳も微笑みも、あの優しかった柏木先生を髣髴とさせた。先生の瞳はいつだって、真摯で真っ直ぐにわたしに注がれていたから。

いまだ胸に置く、先生への申し訳なさと感謝。それが、わたしの心に隙を作ったのだろうか。

黒い瞳に髪。先生も同じ。

フィリップさんとの共通点を先に作ったのは、わたしの方なのではないだろうか。

「こちらではあなたにはガイの他係累もないし、ロールズバリーが王室の直轄領とも知らない伯爵夫人とくれば、きっとひどく無知で御しやすい、恐ろしく温室育ちのレディだと思ったのでしょうね」

王女はそこでまた笑う。

「あなた馬鹿みたいに迂闊だったわ」

ううんと、わたしは首を振って答えた。馬鹿みたいじゃなくて、わたしは馬鹿だったのだ。

恐ろしくひ弱で、くるくると風にあおられる、溶けそうに脆弱な心を持っている。

 

王女は、この十日後に彼女の誕生日を祝す舞踏会が開かれるという。本来彼女が現われたのは、その知らせを直接わたしに伝えるためであったらしい。

「ユラったら、待っていても一向にサロンに来ないのですもの。待ちくたびれちゃったのよ」

帰り際には更に念を押し、

「絶対に来なくては駄目よ。社交嫌いのガイにも言っておいて頂戴。欠席は許さないから」

それから彼女は、今思いついたらしいある趣向を、声をひそめて話し出した。

「面白いから、きっと」

わたしはそれを戸惑いながらも受け入れた。

「わたしの誕生日なのだもの。協力なさいよ」

王女にこう命ぜられては仕方がない。

とにかく、心が久しぶりに凪いで和らいで、ひたひたと幸せが満ちているのを感じる。それが嬉しい。

わたしの目をはっきりと覚まさせてくれた彼女の望みなど、適えるのはひどくたやすいではないか。

 

ガイのそばにずっといられる。それが嬉しい。

 

ただの瞬きに涙ぐむほどに、喜びが胸に溢れてくるのだ。

あなたのそばにいられることが、こんなにも嬉しい。

逃れられない悪夢から覚め、辺りを見回せば、わたしの周囲はまるで幸福に輝いている。

その事実に、わたしは自分自身を抱きしめた。

 

 

舞踏会の件を告げれば、やはりガイはちょっと渋った。

王女の望みとあれば、仕方がなくうなずきはするけれど、派手な社交はやはり嫌いなのだ。

やれやれと肩をすくめる彼とは逆に、わたしは気持ちが浮き立ってしょうがない。

ガイとそういう会に出るのは初めてのことでもあり、衣装は何にしよう、髪はどう結おうか、王女への贈り物を早く決めなくては……、そんな楽しみばかり頭を占める。

「お嬢さんは楽しそうだ。僕は、あなたも僕と同じで、派手な社交は苦手だと思っていたのに、そうではなかったの?」

ガイは、わたしがアトウッド夫人に相談したり、あれこれと衣装に悩むのをからかって笑った。

違うのに。あなたと一緒に出られるから嬉しくて、ときめくのに。

暗い湿った憂鬱の果て、これらの幸せな悩みは、わたしをすっかり夢中にさせた。

当日の宵、王女に親しい人々だけの晩餐の後で、舞踏会が開かれる以前の広間に移った。

ガイがすぐそばにいてくれる安堵は大きく、この後の出来事の緊張を思っても、心が和むのだ。指先も、冷たくならずに、彼の腕に自然に置かれる。

既に大勢の人々が集まり、王女の登場にどよめきと拍手とが波のように起こった。

金糸を織り込んだ豪華な衣装を纏った王女は、ひどく堂々と美しく見えた。人々の祝賀に、鷹揚にうなずき、ときに短く「ありがとう」と返す。

華やかな宵、そして華やかな人々。

輝くシャンデリアの光の中、わたしは初めてガイのパートナーとして踊る。ガイはちょっと笑った。

「申し訳ない。僕はあまり上手くないのですよ」

「ううん、一緒にいられるのが嬉しいの」

彼の唇が耳のほんのそばに寄せられる。「愛らしい僕のお嬢さん。あなたが一番きれいだ」

演奏に合わせ、彼に手を取られ、触れるほどに近づいて揺れる。それだけでうっとりとなる。

ガイを感じられる幸せ。彼のくれるまなざしの優しさと、耳にささやいてくれる甘い言葉に、じんと心が潤んでくるほどに、わたしは幸せの中にいた。

浸り、それに溺れたいと思った。

ときに王女がガイをパートナーに踊り、わたしが王子と踊ったりする。

珍しいガイの出席に、挨拶が引きも切らない。「今後もご出席になるべきでございますよ」、「ご再婚されたのでございますから…」、「エドワード王子のご後見でいらっしゃるのだから、ぜひに…」

彼の指が、腕を回したわたしの腰の辺りを静かにとんとんと叩く。応対に微かに焦れているのがわかる。

「ええ、そのようですね」

わたしはガイが答えている間、ぼんやりと辺りを見ていた。ボーイがトレイに乗せた飲み物を持って回る。その差し出された一つを受け取った。

淡いピンクの液体。冷たいそれは、心地よく喉を通っていく。

そこへ、ふらりと紳士が現われた。

黒い髪と瞳の彼は、もちろん以前の舞踏会のような妙な女装はしていない。タキシードをかちりと身に着け、紳士らしくわたしの前で腰を折ってお辞儀をする。

「よろしければ、踊っていただきたいのですが」

フィリップさんはわたしにしっかりと、あの黒い瞳を据えた。

その色に、この期に及んでも、ややたじろぐ自分がいる。

「奥さまと踊る栄誉を与えて下さいませんか?」

彼は政治家の長議論に付き合わされているガイに、断りを入れた。

ガイはちらりとわたしを見、わたしがうなずくと、視線をフィリップさんに戻した。「どうぞ、妻の相手をしてやって下さい」

するりと腰に伸びていた手を外した。

わたしはフィリップさんに手を取られ、ホールへ進んだ。

「あなたの髪も瞳も、今宵一層艶めいて見える。美しい。瞳が離れないのですよ」

どうしてだろう。この人の口にする言葉はこんなにもねっとりと甘いのに、耳にいつでも爽やかに届く。

それが彼の魔性なのだろうか。

音楽が止み、人々の流れが起こる。パートナーの変更がありまたはホールから下がっていく人、逆に現われた人。

静かに始まったメロディーに、彼の腕がわたしの背に回る。少し力が入り、彼の方へ体が傾いだ。

「この曲の後で、よろしいですか?」

彼の声が耳に小さく届いた。

わたしは視線を泳がせ、王女の姿を捜した。彼女はいた。大広間の奥、王子の隣りにゆったりと座り、扇子を使ってこちらを見ていた。目が合った。軽くうなずくのが見える。

「迷わないで下さい。わたしだけを見て」

彷徨うわたしの視線を捉えたのか、彼がやや強い口調でささやく。

わたしはうなずいた。

「わかりました。あなたにお任せします」

この舞踏会の途中、華やかな喧騒を縫ってわたしは彼と共に消える。

彼の『領地』だというロールズバリーを目指して。

王女がわたしに示した役割だ。彼の手紙にある申し出を受けること、そして何も気づかずに従順に従う素振りを見せること。

「見ていらっしゃい、ユラ。わたしに任せて頂戴」

王女はそうわたしに言った。

「彼の真の姿が見られるから」と。

 

「ほら笑って下さいませんか? わたしたちの新しい門出の曲になる」

彼の声が再びささやいた。

悲劇の終わりだと、彼は言う。喜びの始まりだと、彼は言う。

わたしは気持ちを気取られぬように、ぎこちない笑みを浮かべた。それを頬にぶら下げて、くるくると踊る。

くるくると。

彼の手のうちで、わたしはちょうどマリオネットのように、踊らされていたのだ。

その操りの糸は切れているのに。

わたしはまだ踊らされている。




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