月のマーメイド 彼女のブルー

11

 

 

 

これまで、自然にガイのそばに妻として暮らして、寄り添ってきた。

そのことに、わたしは不安を覚えたことがあったろうか。

それはここ最近まで、フィリップ・ワイズという男の言葉にうまうまと騙され、釣り込まれ、わたしはまったく自分を失っていた。

けれど、その間ですら、恐怖と自滅する絶望を味わいながら、それらに震えながらも、わたしは、ガイがくれるわたしへの愛情を疑ったことがなかった。

一度だって、なかった。

わたしが彼の許を去ろうと思ったのは、そう決めたのは、すべて彼のため。

この世界で、王子の後見という輝かしい肩書きを持つあなたに、外から来たわたしが持つだろう黒い未来が、相応しくないと思ったから。彼に、きっと抱えきれないほどの大きな迷惑がかかると思ったから。

それが嫌だった。

わたしのことでガイの将来が、ちらりとでも曇るのが嫌だった。それだけで、耐えられないと思った。わたしのために、彼がひどく困るのなら、死んでしまいたいくらいに、情けないと思った。

わたしはあなたに相応しくないと、強く強く思った。

だから、一人になって、あの男の伸べた手を取ろうとしたのだ。ガイに知られずに、ひっそりと、まるでかき消すように、あなたの視界からいなくなりたいと思った。

それは彼がわたしを思ってくれているから、決してわたしを離しはしないだろうとわかるから。

だから、彼に秘密で、消えようとした。

そんなぎりぎりの決断の中でも、わたしは彼のくれるまなざしを、その意味を、深さを、疑ったことなど、ないのだ。

当たり前のように、いつだって涸れない、ひたひととした泉のように、わたしの胸に注がれるものだと、信じていた。

あなたに不安など、感じたことがない。

なのに……。

ひどく辛い。

彼が、フィリップ・ワイズが捕縛された際に、わたしに向けたあの表情。それは、妙な異物でも見るような視線だった。まるで、小さな珍しい虫であるとか、または場違いでおかしな闖入者に向けるような。

あっさりとした、何の感情もこもらない瞳。

わたしはこれまで、彼のそんなまなざしを受けたことがない。初めて出会った、あの不思議な満月の宵ですら、彼はあのブルーグレイの瞳に柔らかな笑みをにじませてくれていた。

レディ・アンに陥れられたときも、わたしを救ってくれた彼の瞳は、彼女への怒りを引きずりながらも、わたしへの思いで溢れていたように見えたのに。

だから、不安で胸が潰れそうになる。

どうして彼は、わたしに背を向けたのだろう。

どうして、わたしを一人で帰したのだろう。

どうして、帰って来なかったのだろう。

あっけなく上がった、黒い黒い幕。その正体も、滑稽なほどのわたしの愚かしさも、そして長く恐怖を一人抱え続けたわたしの孤独も。

夕べ、それらみんなを、あなたに癒して、埋めてもらいたかった。慰めてほしいと思った。甘えて、肌で抱いてもらいたかった。

なのに、彼はいない。

わたしは一人の夜明けを迎えたのだ。

似ている。

あの彼の訪れを期待と溢れる喜びと、そして焦れた思いで待った、あの数ヶ月前の別の次元のわたしに。

似ている。

それが、堪らないほど切ない。

 

夜が明け、わたしはベッドにもたれ少し眠った。姿勢のおかしい浅い眠りはすぐに破られた。

こんなところまで、あの彼を待った場面に似ている。

ひりひりとする喉を、わたしはアリスが届けてくれたお茶で潤した。

彼女は、わたしが脱いだきりにした衣装を片付け、何でもないように明るく、

「旦那さまはどうなさったのでございましょう? まだお帰りではございませんね」

わたしはそれに夕べも言ったような嘘で誤魔化す。「お忙しいのよ。軍のご用だって言っていたわ」

ガイからは、何も聞いていないのに。わたしはアリスや使用人へ取り繕う。馬鹿げたことをしでかして、わたしがガイの機嫌を損ねたことを知られないために。

なんて無様なレディ・ユラなのだろう。

バスを使い、着替えを終えた朝食の席にも、ガイの姿はなかった。今日は午前遅くに、大学へ向かう日だ。

じき彼は帰ってきてくれるだろう。わたしはそれで自分を慰め、進まないスプーンを無理に口に運んだ。

食事が済み、時計の針ばかりが進む中、ガイは姿を見せなかった。

気味の悪いほどに胸に黒々とした不安が溜まっていく。

それを止めようがない。消しようがないのだ。

ふと、呼び鈴を鳴らし、ハリスを呼んだ。書斎に現われた彼に、

「旦那さまから、何かご連絡はない? じき、大学でのお仕事の時間だから」

問うと、彼はやや目をぱちりと瞬いた。けれど、小さな驚きの表情をすぐに消し、

「先刻旦那さまからはご連絡がありまして、お着替えをお届けにマイクが王宮へ参りました。そのままお帰りにならずに、大学へ向かわれるとのことでございます」

「そう、そうなの……」

わたしは彼の言葉にまず頬を熱くした。きっと赤くなったろう頬を誤魔化すためにうつむいて、もういいと、下がるように言った。

ガイが、わたしに何の言付けも寄越さない。それを知られたのが、恥ずかしかった。いつもなら、タイを選んだりシャツを合わせるのは、わたしの役目なのに。

そして彼が、一言も言付けをくれない事実も心を傷つけた。

「遅くなって申し訳ない」、「仕事が済めば帰りますよ」、「あなたを一人にして申し訳ありません」……。ガイがくれそうな普段の彼の言葉は、頭に幾つも浮かぶのに。

それが悲しくて、怖かった。

 

気丈でいたいのにいられない、自分。

わたしは結局、気分が悪いと告げ、寝室で横になった。少し眠ったように思う。途切れ途切れの睡眠。それが幾度か繰り返した。

昼食を断り、お茶の時間にようやく寝室を出た。

王女から届いた手紙を眺め、ペンを取ったが、何も書く気になれない。明日は彼女との絵のレッスンの日だ。スケッチを仕上げて、フレドリックに見てもらうことになっていたが、わたしはその課題を途中で放棄したままだ。

とても絵などを描く気になれない。またずるをして、レッスンを休むかもしれない。

王女のブルーの瞳に、わたしの馬鹿みたいな揺れる心のうちをのぞかれる恥ずかしさに、憂鬱になる。きっと耐えられない。

今からその断りの文面を考えておこう。明日はそれをメッセージカードに写すだけでいい。呼び鈴を振り、すぐにハリスに届けてもらえるように。

『まだショックから覚めず、申し訳ありませんが、レッスンを失礼させていただきます……』

デスクの便箋を取り、そんなことをつらつらと書き出した。

そのとき、声がした。

ううん、先に煙草の匂いが香ったのかもしれない。

わたしの手元をのぞき込んだのはガイだった。正装した夕べとは違う、濃いグレーのスーツ。タイは以前わたしが選んで求めた、紺の小さなダイヤ柄のものだった。

からかうような口調で、

「おかしなことを始めましたね。明日のために、今から欠席の詫び状を書くのですか?」

彼は当たり前のようにそこにいた。いつからいたのだろう。

シガレットケースから煙草を取り出して、長い指に挟む。「よろしいですか?」と、わたしが拒否などしないのを知りながら、いつだって彼は煙草に火を点ける前に断りを入れる。

そんな当たり前のガイの仕草を見て、わたしの目に涙が溢れてきた。

「ひどいわ」と、つぶやいて、わたしは顔を覆った。

「一人にしないで。ひどいわ」

彼の腕が伸びた。これまでのようにわたしを引き寄せ、胸に抱いてくれる。そのうっとりとする甘い瞬間。わたしの大好きな、決して色褪せない瞬間。

ガイは火を点けたばかりの煙草を、どうしたのだろう。マントルピースに放ったのかもしれない。

背を屈め、わたしの頭に頬を預ける彼。その仕草。

「ひどいのは、お嬢さんあなたですよ」

ガイはつぶやいた。

彼は何が気に入らなかったのだろう。わたしの何がいけないのだろう。

わたしは彼の胸から顔を上げた。

聞きたい。

彼の言葉を知りたい。

「ひどく僕は、あなたに腹を立てていた」

「どうして? ガイ、ごめんさない。わたしの何がいけなかったの? 謝ったら、許してくれるでしょう?」

ねえと、繰り返すわたしの声。返ってこないガイの言葉。

わたしの声音は、甘えの響きと媚を混ぜたものから、泣き声の懇願に変わる。

ガイはわたしの涙を、指先で拭ってくれた。ブルーグレイの瞳を据えてわたしを見つめた。

「あなたという人が、僕はわからなくなった」

ガイがくれた言葉。

わたしが夕べから待ち望んで焦がれた言葉。

「まるでわからない」

 

冷たい、冷たい彼の言葉。




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