月のマーメイド 彼女のブルー

3

 

 

 

どうしてわたしは、こんなところにいるのだろう。

どうして目の端に時計の針を置きつつも、薄い笑みを唇に浮かべているのだろう。

心は倦んで、うんざりと萎れているのに。

「レディ・ユラはどう思おいになって?」

真っ白な顔に濃い口紅を塗った婦人が、わたしを振り返った。自分が今まで滔々と述べてきたことへの意見を、わたしから引き出したいのだという。

午後の穏やかな日が差すそのサロンには、婦人がどれほどいたろうか。名前と顔が一致しないほどの数の女性が、カップを片手に、または暖炉の送る温い空気に扇子を使っている。

静かなざわめきと、甘い香水の香り。

わたしはちょっと吐息をもらした。ため息には軽く、深呼吸には重い。

意見などない。

『高級士官 夫人の会』と名乗るこの会は、その名のとおり軍の高官の夫人方の社交の場である。そのリーダーとされる女性が、先ほどわたしに質問を振った、アンブレア大将夫人である。

彼女が話すには、軍人の妻である自分たちには、夫の他方への赴任や移動などがあり、その間の夫人は、勤勉に邸を守りながらも孤独であるという。だから、我々は縦の関係も尊重しつつ、横のつながりを密にし、互いに慰め、助け合うことが必要であるという。

それは、大切なことではあろうけれど。

ガイは軍人ではないし、赴任などしない。わたしは軍人の妻でもない。

このような席にわたしが招かれたのは、これが初めてではない。

ガイが以前隣国のエーグルで、傷を負った際のわたしの心の体験をぜひ披露してほしいと、再三にわたり招待を受けた。その都度断りを入れてきた。「ぜひ、レディ・ユラのご苦労と勇気をお話下さいませ」との文言には、呆れと戸惑いを感じた。

この世界の世間の人々は、何を思ってわたしという女を見ているのだろう。

わたしに勇気などない。

申し入れ、その断り。それらが数度の及び、今度はどんな働きがあったのか、軍の方から要請があったのだ。

逃げ出したい気分でガイに話すと、彼は面白がっていつものように、肩を揺すって笑った。

「僕は軍を統括される王子の後見だ。だから、軍の連中はあながちあなたも、そのユニークな夫人の集いとは無関係ではないと思ったのでしょう。あなたの『苦労と勇気』を話したらいいじゃないですか。ぜひ、僕も拝聴したい」

それ以上は、ガイは笑うばかりで真剣に取り合ってくれなかった。再び要請があり、引くにも引けずに無理に引きずり出されてきたのだ。

からかうガイの言葉がちょっと恨めしい。

わたしは顎を引き、ややうつむきがちに、

「素晴らしいお考えだと思いますわ。夫と離れた妻は、寂しく頼りなく感じるものですから。親切に手を差し伸べて下さる方の存在は、とても重要だとわたくしも感じますわ」

そんなことをぽつぽつと述べた。

気持ちのこもらない無難な当たり障りのないことを、恥ずかしげに小さな声で話す。わたしには、結局この程度のことしかできない。

それに、案外の拍手とうなずきの声が返って来、わたしはいたたまれない気持ちになった。

ガイと離れて過ごした日々を、わたしは苦労だとは思わない。苦労とは、それを乗り越えようとする人が感じるものだと思うから。

わたしはただ流されて過ごしたに過ぎない。勇気などなく、漫然と揺れながら日々の果てるのを待っただけだ。

わたしの経験など、単なる逃げでしかない。

 

会が終わり、少しくたびれたものの、解放された一人の時間は嬉しかった。

馬車を走らせ、邸に向かったが、帰るのは何だか惜しく、街で衣装の用事を済ませて、その後でガイの大学に寄ろうと考えた。時間的に彼が仕事を追えるころだと考えたのだ。

馬車を辻に待たせ、ガラスを大きく取ったドレスメーカーの扉を開けたとき、ふわりと知った香りが漂った。つんと長く残る気高いほどの薔薇の匂い。

背の高い、その人はグレーの見事な毛皮のコートに身を包んでいた。茶の髪はしっとりと結い上げられ、美しい白い顔を彩っている。

彼女はわたしに気づき、ちょっと瞳を大きくした。すぐにそれを微笑に変え、

「まあ、奇遇ね、ユラ。ごきげんよう」

レディ・アンは朗らかに言い、わたしを見つめた。その表情のどこにも、わたしに対する負の感情を見つけられない。

何事もなかったかのように、彼女は微笑むのだ。

わたしは固まったようにその場に立ち尽くした。言葉など、返せない。

彼女は以前のように、親密な雰囲気を撒き散らし、わたしの腕を取った。「そのティールームに入りましょうよ。わたくし、お衣装を長く眺めてくたびれてしまったの。温かいお茶が恋しいわ」

するりと腕を抱き、いつかのようにちょっと次第に力を込め、彼女はドレスメーカーの隣りの大きなティールームにわたしを誘った。

わたしは馬鹿みたいに、彼女のなすがままだった。

心の奥にまだ彼女への恐ろしさが抜けない。気味の悪さを抱いている。

オレンジ色の照明が既に灯った店内は、やや薄暗く、遅いお茶の時間を楽しむ男性や女性や姿が見られた。ゆったりと取られたスペース、高級などこかのサロンのような設えだ。

このティールームには、ずっと前に彼女とそして彼女の友人のレイチェルとで、観劇の帰りに立ち寄ったことがあった。

クロークでコートを預け、席に着く。彼女は最近流行り始めた胸元の開いた衣装を着ていた。白い肌とそれを飾るジュエリー。目が吸い寄せられそうに美しいのだ。

「ご結婚したのね。おめでとう、何かお贈りするわ。知らない仲ではないのだし。何がいい?」

レディ・アンはほっそりとした指に、煙草を挟んだ。わたしは彼女の問いかけに首を振った。

「何も要らないわ」

うつむいてわたしは答えた。まるで怯える猫のように。そのときに給仕が現れ、銀のトレイにお茶を運んできた。

ほどなくサーブされたスコーンを、彼女は食べもせず崩していくだけ。カップのお茶を口に運び、またスコーンを崩し、煙草をくわえる。

美しいとは思う。洗練された女性だとも思う。だけど、わたしの中で彼女の纏ったオーラのような輝きは既にない。代わりにどろりとした澱んだものを感じるだけだ。

それが、気味が悪い。

「どうしたのよ、ユラ。お喋りを楽しみましょうよ。そんな沈んだ顔をしていては、つまらないじゃない」

彼女は笑い、近況をかつてのようにつらつらと口にした。人気の俳優とディナーの予定があること。今度公爵の邸でのパーティーに出る予定のこと。そこで、先ほどのドレスメーカーに注文した衣装を身に着ける予定なのだとか。

「新しく開発されたクリームは使ってみた? いい匂いなの。あなた好きよ、ユラ。よろしかったら邸にお送りするわよ」

そんなことを言って、彼女は親しげにわたしの手を取って握る。

それに、ぞわりと背中を嫌な感覚が走る。虫がドレスの中に入ったようだ。わたしは思わず手を引っ込め、立ち上がった。

「要らないわ、何も要らないから」

彼女はわたしの無礼な態度に、それほど不快そうな顔を見せない。「そう?」とちょっと眉を寄せただけ。

そのままわたしはさよならも言わず、店を出た。

嫌な日。

なんて嫌な日だろう。場違いな会に呼ばれ、長々と倦んだ感情を押さえ、それが終わったら、あのレディ・アンに会うなんて。

なんて、嫌な一日だろう。

停めた馬車まで歩く後ろに、「失礼」と男の声が掛かった。さっきのお茶の代金のことかと思った。

レディ・アンはそれくらいも払ってくれないのだろうか。わたしは一口も飲んでいないのに。お茶なんて、あなたと飲みたくもないのに。

「失礼、レディ・ユラ」

名を呼ばれ、どきりとした。その声の主は、わたしが振り返るより早く、わたしの前に回った。

背の高い紳士で、腕に自分の物だろうコートと、そして片方の腕にはわたしのアイボリーのコートを持っている。

「お忘れになったでしょう? あなたがそのまま出て行くのに気づいたから、店のボーイの代わりに、わたしが追いかけてきた」

そう言ってコートを差し出してくれたのは、あの舞踏会で会った『婦人』フィリップさんだった。

優しく笑い、わたしにコートを差し出すのだ。「ほら、冷えますよ。雪がちらついてきた」

あ。

 

その微笑、髪と瞳の黒。

それに、あの人をやはり思い出す。忘れたいあの彼を。

じんわりと心が波立つ感覚に、わたしはひっそりと唇を噛む。

礼を言い、コートを受け取りながらも、やっぱり密かに唇を噛むのだ。

嫌な日。

惨めな自分を突きつけられる、嫌なことばかり起こる。




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